KZAK報告(第2回) G-2 No350 2012年3月29日(木)
第3日
駿河小山-明神峠(1967/6/24)
試験中らしい高校生が北山駅で下車して, 御殿場線はガラガラに空いた.
やおら座席に座って周囲に目をやると,前回眺めやった山の姿がそこ, ここにあった.
ザック計画は一度山から下った地点において, ここで山が終わったのだという山からの離別感がないのがよい,と清水さんは云う.
少なくとも向こう3年間の山のスケジュールが頭にギッシリ詰まっているという充実感が素晴らしい,と私は思う.
それに一種のパイオニアワークだもの,と堤さんは付け加える.
関東境界を歩くという仕事の価値は云々する必要はなさそうだ. しかし, これが完遂された時には,
それは私たちの生涯に於ける大きな仕事の一つに数えられることは間違いなさそうだ.
「おはようございます.また,来ましたよ」よその土地への2度目の訪問には,こんな声をかけたいような気安さがあった.駿河小山駅の駅員さんは顔見知りであるような錯覚さえした.一番客であろう私たちに,この町の肉やのおじさんは90円のぶたこまを丁寧に包んでくれた. 酒匂川を渡って右に折れて約10分歩いて左に入る. 雑貨屋のおじさんと, 道端のおばさんに道を尋ねてコースを確認する.
沢沿いの道の奥には稜線が見えている. 谷峨山はその左手にあるようだ. かなり高度をかせいだ頃, 右手から急な涸澤が入っていた. 稜線がすぐその上に見えていて「稜線へ」の意識が私たちにこの沢を選ばせたが,
細い沢の源頭がよくそうであるように, この沢はすぐヤブになって苦労させられた. ホタルブクロの花が盛りで,
キリギリスなどの虫の音がしきりであった. 谷峨山頂には木が2,3本あるだけで足を止めるほどの魅力もない.
先刻の本沢からのよい道がこの尾根で合流していた.
先ずはハイキングコースといった尾根道ではあったが,
荷が重くて時々休憩しなければならなかった. いっそのことと,時刻は少々早いが昼食にした. 清水さんと堤さんはあまり食欲がなくて, 食い残りは蟻にやった.
道はいつか尾根から外れて林道に入っていた. 最近つけられたキャタピラの跡が明瞭だ.
「この道の終点にはブルドーザがいる」と私は予言したが,道が山腹を大きく巻いて終わっている所には誰もいないし,何もなかった.ここで二人は「団交」の末,リーダーの私から15分の睡眠時間を獲得して土の上に横になると, 忽ち, 土と化して寝た.
私は地図を出して現在地点の確認をしようとしたが, 無駄であった.
まわりは杉の林で,その間から曇って空が少しのぞいているだけであった.
20分で彼らをたたき起こし<1時間20分寝た>と私は告げた. 空が曇って薄暗くなっていたので, 二人は一瞬, 真に取ったようだった.
そこからの道は細かった. そしてますます細くなって踏み跡に変わった. 多くの人たちが迷って踏んだ跡が縦横についていた.
5分で今回はじめての指導標に出会った. 不老山頂はそこから更に5分のところにあった. 視界はあまりよくないが, 広い頂上は気持がよかった. 墜落したBOAC機から発見された8mmカメラに写っていたという権現山が見えている. 分岐点にNo5のプレートを打ち, 下り15分で世付(ヨヅク)峠に着く. <10月に生まれる子にヨヅクという名前はどうか.
男でも女でも通用しそうだ>と云う清水さんのあとをうけて<男なら畦ヶ丸はどうだ>と,交ぜ返した.
県境はここから悪沢峠, 更に峰坂峠へと続いているはずだが,地図上に道の印はない. 一度下って柳島からの道に出て, 上り直す予定であったが, どうやら通れそうなので直進することに決め,
私はなたを持って先頭に立った. 大した苦労もせず,
すすきの薮こぎを終えて悪沢峠につく. これに自信を得て峰坂峠へも直進した. 県境を示す石柱がところどころに埋まっているが,
今度の薮こぎはひどい. 腕に十分切り傷をつくって峰坂峠へつく.
簡単なテーブルがあり, そこで紅茶を沸かして飲んだ.
向かい側から下ってきた草刈り一家の長老が,尾根に沿ってまっすぐ行くことを私たちに教えてくれた.道はすぐに二分したが, 教えられた通り直登の道をとる. もう一本は巻道らしい. 道に張られた蜘蛛の巣がひどい.
蜘蛛はあめ色の小さいものであった.
薮こぎで元気のなかった堤さんが峠の紅茶で息を吹き返すと, 今度は清水さんが調子を落とした. 私は手の小枝で蜘蛛の巣を払いながら,
歩数ダブルカウント百で休息する旨を告げスローペースでひっぱる. 結局230歩で湯船山頂に達し, 5分休憩する.
あとは下りだ.
<下りの清水>の異名をとる清水さんは調子を出してトップを行った.草が刈られた広々した斜面にはガスが上がって来ていたが,峠の小屋まで見通せた.ライトをつけた自動車が右下の方から登って来る.あの辺が一の沢であろうか.明神峠からの自動車道を,私たちは迫り来る夕闇と競走で駆け下りた.
第4日 明神峠-城ケ尾峠(1967/6/25)
下った道を再び明神峠へ引き返す. 昨日, 小屋かと見えたのは四阿で,
一服してから緩い林道を登る. 山苺が食頃で道草を食う.
鳥の声がしきりだが何だかわからぬ.
探鳥会に参加して鳴き声を覚えたいという念願は未だ果たされないままでいる.
指導標に従い峠へ通じる林道から別れて三国山への登りにかかる.
ここも地図上には道の印はないが明瞭である. 全員快調の37分で山頂に着く. 期待に反し三国山頂は鬱蒼としていて展望はない. 立派な石柱が埋まっていてその側面には<御陵地境界点 甲1号><甲斐国南部都留郡><相模足柄上郡><駿河国駿東郡北郷村北山>の文字が刻まれてあった. 別に<15周年記念丹沢全山縦走 丹沢山岳界 No1 三国山>という白地のブリキ板が樹に打たれていた.
私たちもNo6のプレートを打って峠への下りにかかる.
遂に静岡県とはお別れで, 今,
私たちは左足を山梨県に踏み込んだのだ.
峠でコーラが飲めることを信じていた堤さんは,富士溶岩の風化した砂礫の坂を急いで下った.
しかし, 小屋は無人であって広い峠には人っ子一人いなかった.
バスは1日2往復しかないことを時刻表が示していた.
<ヴェトナムで死んでゆく若いアメリカ兵が最後に口にする言葉は母とコーラであるそうな>と堤さんは云う.
コーラが手に入らぬ今, 彼は遠い広島の母親を思い出しているかもしれぬ. この峠を境に, 今までの暗い樹林帯から陽性の草地へと植物相が一変する.
イカリ草とサンショバラが花盛りだ.
薄日が射すとジョーカイが舞い上がりモンキチョウが飛んだ. 鉄砲水の頭は別名パノラマ台で, すぐ下が山中湖であった. カッコーの声が聞こえて来る. 富士がないのが残念である.
気持ちのよい草原に腰をおろすとすぐに眠気がやって来た. 「あと5分休もう」と堤さんが云う.
「そうすりゃ富士が出るよ」そこでそうするとそなった.富士は大きかった.
ゼンマイのかぶさったここからの下り道で,息子への土産に甲虫をとりつつ,大岩の頂上はわずかに巻いて切通峠へ下る.明るい峠である.行動食のチーズを齧りながら紅茶を沸かしていると雨がポツポツ来た.そして出発の頃には傘をささなければならぬほどになっていた.高指山を登りパラジマ峠に下り,そこから長い登りが始まった.ススキの葉は十分に水滴をつけズボンがこれを12分にすいこんだ. 靴の中がグジュグジュ音をたてた. 次の目標, 大棚の頭はいつまで歩いても現れないので, 雨が小止みになったのを潮に昼食にする. 今日はみな良く食べた. 大棚の頭はそこからすぐであった.
水の木分岐では道が二つに分かれ, 左の道はまた二つに分かれていた. 頭上では高圧線の鉄塔がジリジリ不気味な音を立てていた.
道の様子がおかしい. 清水さんはガイドブックを出して調べていたが, <水の木分岐からは道は3本に分かれその中央の細い尾根道を云々>とあるという.
分岐点に引き返すと成る程, 不明瞭な道が尾根についていた.
ここから菰釣まではうんざりする道であった. 何しろひどい竹やで凹凸が多く,
地図にある日陰沢の頭は確認できず, 石保土山は指導標の西ノ丸であるらしかった. ナガトウロの頭, 西尾根丸はいずれも確認できず, モミノキの頭も樅の木に拘り過ぎてわからなかった.いよいよ最後の登りを思わせるひどい喘登が続いた.時間からいっても間違いない.<20対1で賭けても>の確信を持って私は先頭を潜(くぐ)った. スズタケのヤブはもう潜るより方法がなかったのだ. でも, 3人とも快調である.
全員ぐしょ濡れのヤブの登りはやけくその爽快さがあった. つきあげた所には<油沢の頭
菰釣へ40分>とあって, 全身から力が抜けていった. 清水さんの日地の地図には西沢ノ丸とあった,
増補版の他の二人のそれには油沢ノ頭とも印刷されていた. ちなみに, 清水さんの地図は雨に打たれて紙切れになっていた.
私の帽子は布切れになっていた.
案に相違して菰釣へは20分弱の時間で到着した. 私たちはここの指導標に不信を強くした. それを立てた神奈川県観光協会に悪たれをついた.
立ち止まると寒さで全身ががくがく震え,どうにもならないのでNo7を打ちつけると早々に出発する.
カモオキ沢の頭への登りはひどく滑って苦労した. 中の丸への途中で私は左目尻に傷をつくった. 水が染みてひりひりする. シャツと軍手の間の僅か露出した皮膚に, 笹の葉の爽やかな切れ味を感じると, 血が滲み出していた. 左耳に竹を刺して激しい痛みがきた.
倒木にすねを蹴られて涙が出た. 後ろで誰かがどさっと倒れた.
みな肉体的にも精神的にもぎりぎりの線で歩いていた. 私はリーダーとして2人を激励したが間もなくそれは叱咤に変わった.
「雨の水を集めて炊飯できないだろうか」という清水さんに<正規の山の教育を受けていない奴は…>と罵倒の言葉を投げかけた.泣きを入れる堤さんに<減点だ>と怒鳴りつけた.城ケ尾山への道で,遂に清水さんが発狂(?)したような怒号を張り上げた. 堤さんもワーワー喚き出した. 私も無意味に大きな声で<倒木・石柱・急登…>などと指差呼称しながら夢中でヤブノ中を泳いでいった.
城ケ尾峠は陰鬱な峠であった.それはヤブの中の小さな窪地でしかなかった.水場へ20分とマジックインクの不明瞭は文字が読みとれた.
満身創痍の身体を引きづって更に下らねばならなかった. 5分下の水場は涸れていてやはり20分の下りを強要された. 草地に出ると下から沢音が聞こえて来た.
東沢に下りたつと私たちは先ず切り出されてあった杉の枝を集め,ガソリンをぶっかけて点火した. 青い火は一瞬にして広がった.
杉の葉は雨の中で赤い炎をあげ始めた. オオカメノキの葉が闇の中で浮き上がって見えた.
第5日
城ケ尾峠-大渡(1967/6/26)
小鳥の声に目をさますと空は真っ青だ. 層雲が谷から上がって来るが,まづは申し分ない天気である.
起床から出発までは2時間が私たちのペースで,今日も6時出発. 城ケ尾峠の登りに清水さんが左足を谷へ踏み込んで転倒する.
「<路肩軟弱>と注意したばかりなのに…」で,また,今回の流行語の正規の教育がとび出す.天気はよいが笹の露で,間もなく全身ぐしょ濡れになる.大槐木(オオエンジュ?)山で羊羹の半分を3人で食べる. 堤さんの行動食計画はおおよそ良好である.
犬峠へ下る頃蝉が鳴き出した. ヒ,ヒ,ヒ,ヒと高く鳴くのと, ヒーホーと低く鳴くのとの2種類である.
木漏日がちらちらして笹が乾いてきた. 天気学という言葉があるとすれば,前回は1勝1敗, 今回は1勝1敗1分の5割であり, 梅雨のさなかとしてはよい方だ. うちの山の会の某女子のように年間通して20%くらいの人もいるのだから.
モロクボ沢の奥に荷を置いて畦ケ丸へ向かう.重力苦から解放されてた私たちは飛ぶように広場へ踊り出た.
この尾根には珍しく広々したところだ. 立派な避難小屋があり,
タテハチョウ舞っている. みごとな富士があり,
一昨日から歩いて来た山脈(ヤマナミ)が,視界180度の右半分に続いていた.
早速全裸になって着物を干す. 倒木に腹ばいになると,
幸福感がじわじわ全身を温めてくれた. ところで,
私の胃痛は一体どこへ行ってしまったのだろう.
下界ではいつもゴボゴボしている胃の位置さえ山では定かでない.
<胃痛から逃れに山へ来るんでしょう>と堤さんは云う.ひょっとするとそれも山へ来る理由の一つであるかもしれない.身づくろいして1分で畦ケ丸頂上へ達する.
畦ケ丸の<耳の痛くなるような静けさ>というガイドブックの言葉がキザだと清水さんは云う.
今日は蝉の声で耳が痛い.
ザックデポへ帰ってヤキソバをゴッソリ作ってもりもり食べて, No8を打ち込んで出発.
食糧が減った堤さんと私の荷は軽くなったのだが清水さんのそれは相変わらずで遅れがちだ.
蛇ケ口丸で私と清水さんはキスリングの交換をする. 前回,
私は登山におけるエネルギー論を本誌(清水高校山の会会報<里程>)にものしたが,
トップに立って自分のペースで歩いているので荷は苦にならない. バンギ沢の頭, 水晶沢の頭と快調に過ぎ, 白石峠で1本たててレモンを齧る.
眼前は石棚山稜の白ガレが著るく,桧洞丸の左手奥には蛭ケ岳ものぞいていた. アゲハモドキが1頭ふらふらと飛び上がった. 加入道山へは一喘, 下ってザレ峠, 更に一山越えてキレット状の破風口で一休みする. この小さい痩尾根では山梨県側からすばらしい風が神奈川県側にのっこしていた.
アマドコロの花がつつましやかに頭を下げていた. 大室山の登りではダイコクコガネ3頭を拾いあげる. 頂上には2度欺かれ3度目の正直でそれに達した.
丹沢山岳会のプレートはここではNo5になっていた.
私たちも今回最後のNo9を打ちつけて,
2度目の昼食をとる. 遥かに海が見える.
真鶴岬だ, そして初島が見える.
あの辺からてくてく歩いて来たのかと思うと些かの感慨があった.
ここから地図に記載のない大室新道が, 県境沿いに下っていたが時間の関係で予定通り大渡への下りをとる.
暫くは杉林の中を下り, それが尽きると陽性のヤブコギを強いられる. ほとんど廃道である. 次はひどい下りでどんどん高度を捨てる. ここで既に道を間違えていたもののようだが, もう遅すぎる. 踏み跡は荒れた沢の源頭に終わっていた.
沢沿いにはとても歩けるものではなかった.
山腹にとりつくともう一つ先の小さな尾根に電話線が見えていた. 道が電話線に沿って, いや, 電話線は道に沿って下っていた.
道志川を丸太の橋で渡って登ると夕暮の大渡部落であった.
ここからつきについた. 十分待ちでバスが来た.
月夜野からのバスはもう終車が出てしまった後で, 歩かねばならぬと思っていたところ, どこかの自家用車が青根まで運んでくれた.
ここでは次のバスまで約1時間半の時間待ちであったが,ジープが私たちを拾ってくれた. 神の川で砂防ダムの仕事をしている日本機械土木のジープであった.
ジープは山道を60キロですっ飛ばした.
夜風が快い. ジープが急に止まった.
故障だ. おれの出番だ,とばかり堤さんは飛び降りた.
「ガス欠でしょう」彼が云う通りであった.ガソリンメーターが狂っていたのだ.私たちの燃料用のガソリンを2リッター入れてもガスは吸い上がらなかった.
ガソリンンスタンドは近くにあった. 三ケ木まで乗せてもらえれば,
後はタクシーで,と思っていてその三ケ木の町をジープはあっと云う間に通りすぎた.
どこまで行くのかと聞くと, 寡黙な運転手は「橋本まで」と答えた.
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