作用反作用Part2 その1 ものが出てこない M-76 No251 2011年1月6日(木)
生物の授業に生きものが、化学の学習に化学物質が出てくように、物理の力学や電磁気学では、力や場が出てきます。生物・化学に出てくる具体的なモノに対して、物理では抽象的なコトバ(コト)が主役をつとめるのです。このことが、物理を観念的にする原因であるように思われます。
世界は運動するモノから成っています。モノとモノとが触れあうと、速度の変化が起きます。この作用を力という概念で把握するのです。力によるモノの離合集散で、モノは変化し、進化してきました。この力によるモノの結合が多様になって、有機物ができ、それによって生物ができ、人間が誕生して今日に至りました。力はモノを変化=進化させる作用なのです。
モノには、大きさがあり、重さがあり、それらは五感に懸かります。幼児であっても、モノを口にいれたりして、モノの存在を把握していきます。それに比べると、力は捉え難いのです。作用ですから、はたらきですから…。
モノとモノとが接触するときには、はたらき合いがあって、このはたらきを力という概念で定着させたのはニュートンでした。
人間は大昔から、力の概念を経験的に把握し、駆使してきました。そして、あのピラミッドや五重の塔のような、複雑な構造物をも建設してきたのです。
ただし、力をモノの運動との関係で、その性質を量的に理解したのはニュートンでした。もの(m)が速度を変える(α)ときには、力(f)が作用した、とするのです。これがテクニカル・タームとしての力です。それ以来、自然科学で力を云々するときには、この概念の力をいうことになります。
モノに変化が起きたときには、モノに力がはたらいたのだ、と世間ではいいます。
このようにいうときの力は、物理概念の力より遙かに広い意味を持っています。ときには、モノに関係しない変化をも、力で表現したりします。神仏の力、念力、若い力、政治力、…。
物理でいう力はモノとモノとが及ぼし合う作用です。だから、二つのモノ(m)が登場し、互いに接触して、相手の速度を変化させ(α)ます。このはたらきが力(f)です。
このとき、二つのモノには、一つずつの力が、同時にはたらき、この二つの力は、同じ作用線上にあって、向きが逆で、大きさが等しいことを、ニュートンは発見したのです。これが作用反作用の原理です。どうしてそうなるの、などということを、ニュートンは考えません。彼は仮説をつくらないのです。
二つのモノがあります。互いに他のモノに力を及ぼします。二つの力は二つのモノとセットで作用します。モノから離れて力は存在しません。力はモノにはたらくのです。モノにはたらかない力は…、Oh!No!そんな力jはありません。それは力ではありません。
ところが、日本の学習指導要領(COS)では、モノが登場しないのです。教科書でもモノの登場が少ないのです。
図を見てください。この図には次の説明がついています。
“ばねが伸びたままで止まっているとき、ばねを下向きに引く力(1)と、ばねが上向きにちぢまろうとする力(2)とが等しくなっている。1つの物に(3)大きさが等しく、向きが反対の2つの力がはたらいて、その物が止まっているとき、力がつりあっているという。” 数字は石井がつけたものです。
さて、(1)と(2)の力は何にはたらいているかを考えてみましょう。
(1)は おもりがばねを下向きに引く力なのでしょう。鉛直下向きの矢印がそれを表しているようです。とすると、この力はばねにはたらいています。
(2)は
ばねがちぢまろうとして、ばねを上向きに引く力でしょうか。それはありえません。力は自分にははたらけないのですから。
とすると、これはおもりを上向きに引く力でしょうか。この力はおもりにはたらいていることになります。
そうだとすると、ばねとおもりが引きあっていることになり、この2力は作用反作用であって、つりあっているとはいえません。つりあっていることはありません。
ちなみに、上向きの矢印の力はおもりに、下向きの矢印の力はばねにはたらいていることになりますます。点線にはたらく力?そんなものはありません。
(3)で述べている<1つの物>とは何でしょうか。些かでも物理に理解がある者には、1つの物はおもり以外には考えられません。おもりの重さ(おもりにはたらく鉛直下向きの力=重力)と、ばねがおもりを引く鉛直上向きの力(弾性力)がつりあっているのです。
しかし、教科書が言わんとしているところは、この<1つの物>はばねのようにみえます。(1)と(2)の文章で表現される力は、「ばねについての力?」のようです。
この力の矢印に、それがはたらいているモノが図示されていないことが、この文章を理解しにくくさせています。二つの矢印で表される、力と力とが「つりあっている」というような表現になっています。力が独立して存在しているかのように書かれています。力はモノから離れて存在しないことは、上述の通りです。この教科書を書いた人たちの力学観、物理観、自然観、科学観が疑われます。
この図の関係を正しく表現するならば、“おもりにはたらく重力と、ばねがおもりを引く力が、つりあっている”ということになります。この二つの力の矢印は、1つのおもりから出ていなければなりません。力の作用点がおもりの中にあるということです。
ばねについては力を論じるだけの資料が不足しています。つまり、ばねが天井から引かれる力が語られていないということです。
これは、昭和44年度の小学6年理科の教科書から引用しましたが、この教科書(啓林館)だけでなく、他の教科書(教育出版、信教[信濃教育会編]、東書、学図、大日本)も同じパタンです。
この年度(1976)の中学校の学習指導要領には、“物体を押したり引いたりするとき、その物体からも力を受けること”とあり、それを受けて、小学校にで上述の教材が登場したのです。このことは高く評価されますが、教科書の内容はかくの如しです。COSに物体が出て来たというのに!
ところが、平成元年(1989)のCOSになると“物体に力が働くとき反対向きに力が働くことにも触れること”という表現に変化します。この表現では、“物体に力が働く”という部分は分かりますが、どんなものについて“反対向きに力が働く”のかがわかりません。
COSは平均して10年毎に改訂されますが、現在のCOS(2008年版)の力に関する記録も、これと同じです。つまり、少なくとも30年間は、この内容に準拠する教科書が出続けることになります。
モノが出てこないのが、この国の学習指導要領の特徴なのです。