ジョイント&チャリティ
担当:大橋慎太郎
 小田和正は「ひととものを一緒につくる」事が好きである。またミッション系高校という環境に接してきたこともあり、チャリティ活動にも積極的である。

 オフコース初期、同世代のフォーク歌手との「ジョイントライブ」もそれなりに楽しみ、また「オフコースの小さな部屋」という企画では、ゲストを招いた実験的なライブを展開していた。またオフコースの活動休止中に「ミュージシャン同士が尊敬できる場所を」という目的で日本グラミー賞の設立に動いたこともあったが、志半ばで頓挫する。
 そういった過去の活動を経て、彼が本格的なジョイント活動を行ったのは、1985年「国際青年年」の企画の一環として行われたイベント「All Together Now」の時である。オフコースとしてこのイベントに参加したことはもちろん、坂本龍一プロデューサーの元、松任谷由美・財津和雄との合作でイベントのテーマ曲「今だから」を製作した。この後、1989年の解散までに、「LIVE AID」「広島ピースコンサート」といったチャリティイベントにもオフコースは参加している。

 ソロ活動になった小田は、更にジョイント活動やチャリティ活動に積極的になる。解散後の活動第一弾として、鈴木雅之への楽曲提供及びプロデュースを行った。これは鈴木雅之からの熱烈なオファーに小田が応えたもので、この時の楽曲「別れの街」(1989)をはじめ、鈴木雅之へのプロデュースは何度も行われ、またお互いのライブへのゲスト出演やジョイントライブなどが実現している。
 この他にもHi-Fi-Set・時任三郎・中西敬三・島倉千代子・河相我門・ぢ大黒堂(ビートたけし・トータス松本・ユースケサンタマリアらによる企画ユニット)・坂本サトルら、さまざまなジャンルのプロデュース活動を行っている。旧知の音楽仲間、映画・TV出演がきっかけ、あるいは相手からのオファーなど、その縁はいろいろあったが、それを大切にしたいという小田らしい姿勢の現われである。
 またソロ活動本格化の頃からレコーディングやライブなどでコーラスとして起用していた佐藤竹善と、1996年にユニット「PLUS ONE」を結成、シングル「クリスマスを過ぎても」を生み出している。

 チャリティ活動としては、飛鳥涼(CHAGE & ASKA)と共同プロデュースした楽曲「僕らが生まれたあの日のように」が挙げられる。厚生省「ウエルカムベイビー」キャンペーンの一環として、玉置浩二・徳永秀明・カールスモーキー石井・山本潤子・浜田麻里という当時のトップミュージシャン達と共に「Used to Be a Child」としてこの楽曲を世に送り出した。この楽曲の収益により、愛媛県今治市にある子供向け施設「風の顔ランド」が作られた。
 また、ソロミュージシャンとしても、さだまさしの雲仙でのチャリティコンサートや「Act Against Aids」、「広島ピースコンサート」にも参加しているが、その中でも泉谷しげるとのチャリティ活動は特筆すべき点も多い。
 デビュー当初は時折ジョイントコンサートで一緒のステージに立っていた小田と泉谷であるが、その後二人には特に接点が無かった。その二人の交流が復活するのは1993年、泉谷が奥尻島の救援ライブを札幌で開くことになった時のことである。何のブッキングも無いまま、ラジオで泉谷が「ライブに小田和正も呼ぶぞ!」と発言したことを聞いた小田が、「泉谷が俺を必要としているなら行くよ」とライブに参加したことに始まる。
 札幌に次ぎ、翌年長崎で開かれた雲仙普賢岳救援コンサートでは、泉谷をはじめ吉田拓郎・伊瀬正三・忌野清志郎・浜田省吾・南こうせつ・さだまさし・大友康平・井上陽水と共に「スーパーバンド」を結成、メンバーの代表曲達を演奏してライブのとりを飾った。
 スーパーバンドはその後も一部メンバーを替え、1994年夏の日本武道館、1996年夏の神戸で実現している(参加メンバー:山本潤子・稲垣潤一・坂崎幸之助・白井貴子・渡辺美里・財津和夫・大江千里ほか)。そのスーパーバンドの中核には泉谷・拓郎と共に小田和正の姿があった。また1994年夏の日本武道館でのライブ「日本をすくえ」の模様は、小田和正の手でドキュメンタリーに編集され、テレビで放映された。

 小田のソロ活動でも、1995年「FUN MORE TIME TOUR」では収益金の一部を神戸・淡路大震災の救援金として寄付したほか、同年4月、震災で中止となった神戸公演のかわりに被災者支援用スペース「神戸元気村」で無料ライブを開くなど、さまざまなチャリティー活動を行っている。また次のツアー「Thru The Window」(1997−1998)の初日を神戸で行ったのは、前回中止となったことへの思いが形となったものである。
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