デビュー以来8枚のLPを発売してきたNSPのリーダーであり、ほとんどの曲の作詞作曲をしてきた天野滋が、ようやくソロ・アルバムを発表した。
このアルバムは、初期の天野作品から一つ脱皮し、彼自身の現在を露出して、将来向かう足掛かりという意味で、とても興味深いアルバムである。
ミュージシャンも、高中正義、チャーなどの名ギタリストと、ベースには後藤次利などを迎え、アレンジのも細かい神経が行き届いていて、結構楽しめるアルバムになっている。
したがって今までNSPを好んでコピーし、歌ってきた人にとっては、一段グレードアップするのにちょうどよい素材であり、時として手ごわい曲もある事を念頭に置いて曲にかかってほしい。
NSPというグループは、かぐや姫やグレープなどと並び、アコースティックギターを中心に、日本的な詩情を盛り込んできたグループであるが、中でも、南こうせつやさだまさしと同様に天野滋は現代の名うてのフォーク作家であり、作詞家であると思う。
今回は、作詞の方法から見た天野滋のよさを考えてみながら、もう一歩進んで、君自身のオリジナル曲を作るための手引きとしてこれを読んでいただければ幸いである。
76年の夏、奇しくも同じタイトルの歌が、さだまさしと天野滋の手によって出来上がった。
●線香花火
ひとつ ふたつ みっつ 流れ星が落ちる
そのたび君は 胸の前で手を組む
よっつ いつつ むっつ 流れ星が消える
君の願いは さっきからひとつ
君は線香花火に 息をこらして
虫の音に消えそうな
小さな声で「いつ帰るの」と聞いた
◆線香花火
はじっこつまむと 線香花火
ぺたんとしゃがんで ぱちぱち燃やす
この頃の花火はすぐに落ちる
そうぼやいて 君は火をつける
浴衣なんか着たら 気分が出るのにね
湯上がりでうちわを片手だったらね
はじっこつまむと線香花火
僕は燃えかす拾うかかりでも
さだまさしの「線香花火」は、一つには夏という前提があって、帰省した彼が、いつか東京に帰ってしまうのを不安げに思う女心を、男の眼から歌っている。さだまさしの作詞法は、このように一つの概念や、真理みたいなものから、ぐいぐい現実に入ってくると。そして、いいたい事が来るまで話題をいくつかほおり投げて、聞くほうをじらせれておく。
だが、天野滋の「線香花火」は、いきなり現実に線香花火が登場し、嬉々として花火に興じる彼女に、彼が「浴衣なんか着たら気分が出るのにね」と、直接語りかけることで歌が成立している。
これは天野滋の最大の特徴であり、現実をひとつひとつ拾いあげることで何か真理を見つけていこうという彼の姿勢が歌にも出て来るのである。
詩のテクニック的には、私はさだ君のほうをとるのだが、詩の素朴さや、そこにひろいあげて構成していく天野滋の作り方も私は好きである。
若い時に詩を書いていると、どうしても、自分の気に入った言葉や、できごとをなんでもかんでも言葉に並べたくなるのだが、一番重要な事は「いかにして余分なものをすてていくか」にかかっている。
アマチュアの人たちの歌がつまらないのは自己満足的な言葉を、そのまま人に押しつけるところにある。自分がおもしろいと思うことでも、人が理解できなかったり、歌えなかったら、作品としては失敗なのだ。
その意味で、さだ君の「線香花火」は、言葉がたくさんほおり投げてあっても、最後のオチで見事なバランスを持っているし、天野滋の「線香花火」は、無駄のない言葉で、なんでもない景色を「いい景色」にしているので、相方とも好感の持てる作品である。
おそらくNSPを聴き、天野滋を聴いたあとに、自分もオリジナルを作ってみようと思う人は多いはず。できればどんどん作ってほしいものだ。
そして20行の詩を書いたら10行削るくらいのつもりで言葉を整理してみてはどうだろう。きっと君にも、自分の詩がピリッと光ってくることに驚くだろう。
詩の話が長くなったが、今度の天野滋のソロ・アルバムは、音楽的にもしっかりした、かけ値なしの天野滋がでている。是非、自分のものにして次のステップにしてほしいものだ。
高桐唯詩