ダダ、シュルレアリスムにおける音楽‐U
「何故シュルレアリスム運動において音楽が殆ど扱われなかったのか」
2002/09/04
西川尚生研究会 久恒 宗一郎
章立て
序 シュルレアリスムと音楽 概要
T シュルレアリスム運動における音楽
-シュルレアリスムの法王、アンドレ・ブルトンと音楽
-シュルレアリスト達が行っていた実験的音楽(?)
U 音楽におけるシュルレアリスム
-自称シュルレアリスムの音楽
-後にシュルレアリスムの音楽、といわれているもの
-現在だから見られるシュルレアリスティックミュージック達
V 仮説・まとめ・今後の課題
W 参考文献一覧
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序 シュルレアリスムと音楽 概要
前回のサティを扱った発表を経て、私はダダ・シュルレアリスム運動における音楽の在り方を垣間見た。そして、以前より抱えていた一つの疑問「何故シュルレアリスム運動において音楽が殆ど扱われなかったのか」というテーマへの挑戦を始めることを心に決めていた。恐らく私の卒業論文はこのテーマへの挑戦を発端に進めていくことになるだろう。
今回の発表ではシュルレアリスムの特性と、音楽の特性を比較しつつ書物、文献等より拾った内容を参考にしつつその最初の疑問について考察する。
序章では少しシュルレアリスムについて触れておこう。
シュルレアリスムは20世紀前半にフランスを中心としたヨーロッパで起こった芸術思想運動である。その領域は文学から美術に及ぶが、音楽についてはシュルレアリスム運動の中で扱われることはほぼ無かったようである。その原因について明確な答えを記した書簡や論文を私は未だ聞いたことすらないが、推測するにシュルレアリスムの主導者であり後に「シュルレアリスムの法王」と冠されるアンドレ・ブルトンが音楽に対して懐疑的であった事は大きな原因の一つであろう。
T シュルレアリスム運動における音楽
シュルレアリスム活動において音楽は文学、美術と比較すると全く扱われていないといっても過言ではない。これにはシュルレアリスムの中心人物で始終その活動を引っ張ったアンドレ・ブルトンが音楽だけは最後まで認めなかったということが大きな理由であろう。
-シュルレアリスムの法王、アンドレ・ブルトンと音楽
・『シュルレアリスムと絵画』において 音楽に対して否定的な内容を記している。
・たびたび音楽に対して否定的な文章を書いている。
・ブルトンと六人組 プーランク、オーリックの関係
-シュルレアリスト達が行っていた実験的音楽
・シュルレアリスム運動に先駆けてシュルレアリスティックな音楽を作ったサティ
・マルセル・デュシャンの偶然性の音楽
U 音楽におけるシュルレアリスム
シュルレアリスムにおいて音楽は扱われなかったが、音楽史上においてもシュルレアリスム運動が明確に起こったという記録は無いようである。(今回はシュルレアアリスム側からの資料中心で集めたので不確定。)シュルレアリスム運動自体は1930年代末に戦争の影響で終焉を迎えるが、その後前衛的音楽を展開して話題を呼んだジョン・ケージを音楽のシュルレアリストとする意見もしばしばある。
-シュルレアリスムの影響を受けた音楽
・プーランクの「ナゼルの夜会」
・ジョン・ケージとミニマル・ミュージック
-現在だから見られるシュルレアリスティックミュージック達
・オートマチックライティングミュージック
・マンデルブロミュージック
・和音の音の境目を無くす試み
V 仮説・まとめ・今後の課題
序章で述べたように、シュルレアリスム運動において音楽という分野が殆ど全く扱われなかった原因にはブルトンという存在が先ず大きな一つの原因として挙げられるだろう。
此処から先は、現時点では私の裏付けなしの仮設だが、ブルトンが音楽を認めなかった理由、そして他のシュルレアリスト達やこの世代に生きた音楽家たちもシュルレアリスム運動に参加しなかった理由はこの時代の音楽がシュルレアリスムの特質に適合しにくかったという原因もあるのではないかと考えている。
例えばオートマティスムを行う再に最も単純で何の制約も無いのは絵画であろう。無意識に任せて曲線等をキャンバスに描けばよい。それだけである。幼児の落書きに近いものでもよいわけだ。文章の場合、文字という一つの理性的な制約が先ず絶対となる。そして音響詩などの場合は少し勝手が違うが、たいていの場合は言語によって多少なり思考しないと文章を記すことは困難なようにも思える。シュルレアリスムで無意識の他にもう一つよく持ち出される偶然性にしても美術に比べると文学は適合しにくいように思える。だが、詩人ブルトンを中心とした文学系シュルレアリスト達は矛盾をはらみつつもこれを巧みに乗り越えてしまった。
さて、問題の音楽だが音楽の場合、文学のブルトンやスーポー、美術のデュシャンやエルンストのようにシュルレアリスムに傾倒した主導的存在がこの時代居なかったことは確かである。サティはかなり早い時期からシュルレアリスティックな試みをしてはいたが、彼はその性格もあってだろう、主導的立場には成り得なかった。
音楽においてオートマティスムが不可能かというと私はむしろ文章よりも無意識的に旋律を作るということも可能なような気がしている。音楽の三要素、旋律、リズム、ハーモニーどれでもある程度の意識の制約があれど無意識的なアプローチは不可能ではないし、偶然性もデュシャンの試みやケージの4分33秒に見ることは可能である。
だが、音楽は、特に西洋に流れてきたクラシック音楽では楽譜によって音楽を書き留めることがあたりまえである。記譜法を考えながらだと、それらもかなりややこしくなってくる。
最後にもう一つ考えられる原因。音楽の絵画、文章と全く異なる点はその内容物が全くの抽象であるといおうことであろう。故に歌詞と題名を省いた場合、作品自体に何らかの意味的な意図を込めるようなことは不可能である。特にブルトンは無意識の開放を叫びながら非常に意識的なことにとらわれていた人間であったようで、だからこそ彼は音楽に傾倒できなかったのかもしれない。
音楽はそれらの複雑な理由によってこの時代行われたシュルレアリスム運動には参加しなかったのではないだろうか。
まとめの章と銘打っておきながらかなりまたかなり散漫になってしまった。今後の課題は資料の整理整頓と内容の充実、仮説の裏づけをとりつつ事実を明らかにしていくことである。今回名前を挙げるだけにとどまった作曲家達の音源も一つ一つあさっていかねばならない。
W 参考文献一覧
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秋山邦晴著 『エリック・サティ覚え書き』 青土社 1990
巌谷國士著 『シュルレアリスムとは何か』 文唱堂印刷 1996
田淵晋也著 『シュルレアリスム運動体系の成立と理論 離合集散の理論』 剄草書房 1994
アンリ・ベアール、ミシェル・カラス著 濱田明、三好郁朗訳 『シュルレアリスム証言集』
思潮社 1996
オルネラ・ヴォルタ編 田村安佐子、有田英也訳 『書簡から見るサティ』 中央公論社 1993
トリスタン・ツァラ著 小海永二訳 『ダダ宣言』 竹内書店 1970
アンドレ・ブルトン著 巌谷國士訳 『シュルレアリスム宣言・解ける魚』 岩波書店 1992
アンドレ・ブルトン著 栗津則雄、巌谷國士訳 『シュルレアリスムと絵画』 人文書院 1997
フェルディナン・アルキエ著 巌谷國士訳 『シュルレアリスムの哲学』 河出書房新社 1975
パトリック・ワルドベルグ著 巌谷國士訳 『シュルレアリスム』 美術出版社 1969
小田久郎発行 『シュルレアリスムの読本1〜3』思潮社 1981