ダダ、シュルレアリスムにおける音楽‐T 〜ダダとサティ〜 |
2002/05/23 西川尚生研究会
発表者:久恒 宗一郎
目次
序〜ダダに於ける音楽、音楽史に於けるダダ、 そしてサティ〜
T人物・文化・時代背景から考察されるサティとダダ
U書簡から考察されるサティとダダ
V作品、題名、譜面の注記等から考察されるサティとダダ
Wサティとダダ〜まとめ〜
X問題点及び疑問・今後の課題
参考文献一覧
(添付資料)
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序
19世紀末から20世紀初頭にかけて起こった芸術運動ダダとその後に展開したシュルレアリスム。ダダ、シュルレアリスムの側の資料で音楽という分野が扱われている事はほとんど無い。ブルトンやツァラが生きた時代に音楽の分野でも幾つかの斬新な開拓が行われてはいるようだが、音楽家はダダやシュルレアリスムの中心では在り得なかった。これはブルトンの考えにより、音楽という芸術分野が言語や具体的イメージによって解釈されがたいからではないかと予想されるが 、エリック・サティという人物に関してはその中でも特殊な存在であった。それは彼の作品性や人間性、そしてその行動が時にダダ、シュルレアリスムに先駆けてそれらと同様の性質を打出していたという事である。
ダダ、シュルレアリスムにおける音楽という空洞化分野の研究を手がけるに当たって先ず誰もが思いつくであろうエリック・サティの存在。今回の発表ではそのエリック・サティとダダとの関係を、ダダ、シュルレアリスム以前のそれを意識しつつ、主にツァラのダダ宣言 以前の時期を重点的に扱うこととする。
T人物・文化・時代背景から考察されるサティとダダ
*ダダ、シュルレアリスム関連は年表中の太字表記
エリック・アルフレッド・レスリー・サティ(1866〜1925)
@幼年期〜青年期
・サティとダダ、シュルレアリスムを考えるに当たって幼年期は彼の根本的性格を形成した時期として非常に重要である。度重なる転居、母や祖母の死、義理の母ウージェニーとの不仲等エリック少年にとっては激しい幼年期であった。変わり者の叔父の影響と、パリ音楽院時代にピアノや作曲を学ぶ傍ら、読書に非常に熱中していた 事は特に後のサティの人間性に繋がる要素である。やがて、学業に嫌気がさすようになり、20才の時に音楽院を退学し一時軍隊に入隊するがこの時出会ったパリの水道屋で「美丈夫(ルボー)ナルシス」のペンネームで詩を書いていたヴィタル・オッケが後にサティにキャバレー「黒猫」を紹介する事になる。
幼年期〜青年期・略歴年表
年
出来事
主な作品
1866
5月17日、フランス北西部ノルマンディーのセーヌ川河口の町港町オンフルールにて誕生
1868
妹のオルガが生まれた。
1869
弟のコンラッドが生まれた。
1870
父親の仕事の関係で(家業の海運仲介業を辞めたために)パリに移り住む。
1871
二人目の妹ディアンが生まれた。
1872
末妹ディアンと母が病死。サティ兄弟はオンフルールの祖父母のもとに預けられ、サティは小学校の寄宿舎に入る。
1876
地元の教会のオルガニストから音楽を習い始める
1878
祖母が溺死。再びパリに呼び戻される
1879
父、ピアノ教師ウージェニーと再婚
1884
アレグロ(習作)
1885
処女作「ワルツ=バレエ」を作曲
ワルツ=バレエ
1886
学業に嫌気が差し、パリ音楽院を退学 4つのオジーブ |
A青年期〜壮年期
20歳で軍隊に入隊したサティだが、軍隊での生活に馴染めず、故意に気管支炎に罹り、入院し除隊処分を受ける。そして、モンマルトルのキャバレー、黒猫の第二ピアニストの職に就く。2年後、かねてから読書を通じて傾倒していたばら十字教団のジョゼファン・ペラダンと知り合いサティはばら十字教団の専属作曲家に任命される。サティはそこで、ばら十字教団のための曲をいくつか作曲しています。しかしやがて、カフェ「黒猫」の主人とのケンカから職を失い、そしてまたペラダンとの音楽的意見の違いから教団とも絶縁。キャバレー、オーベルジュ・デュ・クルーのピアニストになります。そこで後に30年近く続く友人となる、ドビュッシーと出会う。この時期自身の音楽に学の浅さを感じていたサティは再び原点から音楽を学び直す為スコラ・カントルム音楽院に入学。(ドビュッシーは猛反対しがサティはその助言を受け入れなかった)音楽院を卒業後、サティはジャン・コクトーやピカソを始めとして、さまざまな芸術家たちと親交を結ぶ。この後のダダへの参加のきっかけとなる人脈がこの頃から固まってゆく。
1887 |
兵役を逃れるため、わざと風邪をこじらせて入院し除隊処分。 |
3つのサラバンド |
1888 |
キャバレー「黒猫」の第2ピアニストに就職 |
3つのジムノペディ |
1889 |
|
グノシエンヌ第5番 |
1890 |
秘密結社「バラ十字教団」の主宰ジョゼファン・ペラダンと出会う |
3つのグノシエンヌ |
1891 |
「黒猫」を免職処分 (黒猫のマスターとの仲違い) 酒場「オーベルジュ・デュ・クルー」のピアニストに就職 |
「星たちの息子」への3つの前奏曲 |
1892 |
ペラダンと訣別、バラ十字教団を脱退 |
バラ十字教団のファンファーレ |
1893 |
シュザンヌ・ヴァラドンとの恋愛と破局 |
ゴチック舞曲 |
1894 |
モーリス・ラヴェルとの出会い |
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1898 |
パリ郊外の街アルクイユヘ引っ越す |
貧者のミサ |
1900 |
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おまえが欲しい |
1903 |
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梨の形をした3つの小品 |
1905 |
作曲法を学び直すため「スコラカントルム」に入学 |
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1907 |
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新・冷たい小品 |
1908 |
スコラカントルムを卒業。対位法の学位を取得。 |
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1912 |
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犬のためのぶよぶよした前奏曲 |
1913 |
ジョルジュ・オーリックとの出会い |
乾からびた胎児 |
1914 |
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スポーツと気晴らし |
1915 |
ジャン・コクトーと知り合う |
最後から2番目の思想 |
1916 |
ロシア・バレエ団からの委嘱を受ける マティス、ピカソらが友人宅にてグラナドス&サティ演奏会を開く |
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1917 |
ロシア・バレエ団委嘱作品「パラード」の初演、大騒動となる ドビュッシーと絶縁し、友情が終焉する |
バレエ「パラード」 |
B壮年期〜老年期(ダダ宣言以降)
1918年ドイツのチューリッヒにおいてトリスタン・ツァラはダダ宣言を発表する。ツァラのこの宣言以降ダダ1922年まで機関紙発行、集会の開催等を頻繁に行ってゆく。1922年パリで行われたパリ会議の辺りから、ダダのもう一人の中心人物、アンドレ・ブルトンとツァラの仲が悪くなってゆく。この時期、多くのダダイスト達に慕われていたサティはツァラの側に付きブルトンへの敵対を明確化する 。
1918 |
コクトーの音楽論文「雄鶏とアルルカン」の発表で新時代の音楽の旗手に祭り上げられる |
交響的ドラマ「ソクラテス」 |
1919 |
「新青年」にプーランク、ミヨーらが加わる |
5つのノクテュルヌ |
1920 |
「コメディア」誌にH・コレの記事「フランス6人組とサティ」が掲載 |
組み立てられた3つの小品 |
1922 |
ツァラ、ブルトンの喧嘩裁判の司会を務める。 |
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1923 |
「アルクイユ楽派」の結成(H・ソーゲ、R・デゾルミエールら) 「梨の形をした小品」を演奏。この集会は大混乱の末ブルトンらが警察に連行され終わる。ダダに決定的な打撃を与えた。 |
バレエ「メルキュール」 |
1924 |
プーランク、オーリックと意見対立し、絶縁 「メデューズの罠」初演。オーリック、ブルトン、アラゴンらの妨害。 「本日休演」にてダダイスト、シュルレアリストらと交流 ルネ・クレールの「幕間」に出演。 |
バレエ「本日休演」 |
1925 |
7月1日、肝硬変の悪化により没す |
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U書簡から考察されるサティとダダ
この章ではサティのダダイストや、音楽家、研究家らとのやり取りの記録や彼自身の書簡からテーマに関連して且つ興味深いものを挙げる。
@ダダイスト達とサティ
〜別紙:資料参照〜
Aその他の人々とサティ
略歴年表、人物図以外でサティの創作や人間性に深く影響したと思しき、或いは興味深いエピソードを持った人物を数名挙げておく。
・ジョセファン・ペラダン(バラ十字教団教祖)
実際に出会う以前から、サティはペラダンの処女小説「至高の悪徳」を非常に高く評価していた。ペラダンは「小説家、美術批評家、歴史家、劇作家、考古学者、哲学者」を自称しており儀式ばった華美な服装を愛好してはばからなかった。
戯曲、星たちの息子にサティが前奏曲を付けているが、ペラダンの星たちの息子はワーグナーもどきでサティの作品とは正反対の音楽だった。ペラダン自身は音楽には詳しくなく、彼は盲目的なワーグナー信奉者であった。1918年傷んだカキを食べて死んだそうだ。
J・Pコンタミーヌ・ド・ラトゥール(ホセ・マリア・ヴィンセント・フェレ・フランシスコ・デ・パウラ・パトリシオ・マヌエル・コンタミーヌ)
キャバレー仲間。詩人、劇作家、小説家。サティとは黒猫で知り合い、親しくしていた。自称ナポレオンの子孫。バラ十字教団にも所属していた模様。サティは彼の脚本にバレエ曲ユスピュを献呈するが、後にこの曲をオーベルジュ・デュ・クルーの常連たちから「楽譜が薄い」のをからかわれ、サティはそれをパリのオペラ座にも相応しい事を証明しようと躍起になる。サティの呼びかけに一ヶ月以上反応しなかったオペラ座支配人ベルトラン氏に決闘を申し込むと手紙を送り、奇妙な脅しをしたほどである。(黒装束の男二人がベルトラン邸に脅し文句つきの名詞を残して去った。)結局サティとド・ラトゥールの「ユスピュ」は受け取られはしたが、実際にオペラ座で初演されるのはこの1892年から百年近く後、1979年であった。
追記:バラ十字会という教団が現存しており日本にもその支部がある。今回はバラ十字会への直接的な取材は控えた。
・シュザンヌ・ヴァラドン
女流画家。モーリス・ユトリロの母。ヴァラドンとの激しい恋愛とその破局はサティをより引きこもらせ?一人宗派「導き手イエスの首都芸術教会」設立の引き金、古典懐古を促したと考えられる。
・祖父母達
サティの母方の家系は非常に熱心なプロテスタント父方の祖父母は敬虔なカトリックで、母や祖父母が彼に神秘主義的な性格的影響を及ぼしたのではなかろうか。
星達の息子への前奏曲を「この無駄口を叩いているようなおしゃべりな音楽からは月並みな感動しかえられなかった」と表されたのに対しウイリーのワーグナー神格化を非難。文章によってあれこれ非難が続く。
サティ→ウイリー…「悪魔の唾から生じた、地獄生まれの不義の子」「腹黒い冒涜者」 「厚かましい半獣神」「低能な売文業者」「卑怯なうすのろ、貧血気味な作家の屑」
ウイリー→サティ…「落第神秘家…密教やくざ…腹ぺこ(アンサティアブル)教祖」
「大太鼓を鳴らす素寒貧な大道楽士」
精神病院の多いシャラントンになぞらえ「シャラントン出身と思しきドビュッシー」
彼とは殴り合いの格闘もした模様である。
およそ十年後夜会の帰りに偶然地下鉄で乗り合わせその時和解。
V作品、題名、譜面の注記等から考察されるサティとダダ
サティの作品歴の興味深いところはダダが本格化する以前にダダ的要素の強い作品を多く書いている所にある。以下に分類してそれらの例を挙げる。
@音楽作品において
ヴェクサシオン…1ページの譜面(52拍)を840回繰り返して弾くという曲。全部演奏すると総勢で18時間以上になる。ジョン・ケージが非常に褒め称えている曲。初演は1963年、ジョン・ケージらによってニューヨークのポケットシアターで行われた。日本初演は1967年東京、アメリカ文化センターで一柳慧、石井真木らによって二年参り形式で行われ た。音楽における重要概念の一つ、時間概念をある意味破壊した曲と言えるだろう。
その他曲の題名…サティの曲は非常にユニークな題名が多い。その題名のつけ方はダダやシュルレアリスムの小説家、詩人達の手法に程近い。
パラード…ダダに先駆けて行われたとされるバレエ。
脚本:ジャン・コクトー 舞台:パブロ・ピカソ 監督:セルゲイ・ディアギレフ
この前衛バレエは非常に騒がれて、公演以後サティもダダイスト達との交流が増えることになる。
A文章、詩、脚本において
サティの作品というと音楽曲を先ず思い浮かべるであろうが、彼は音楽以外の分野でも創作活動を行っていた。以下に主だったものを挙げる。
サティ詩集…サティは自身の曲の多くに詩を添えていることが多い。
卵のように軽やかに(書簡集)…サティの書いた書簡をまとめた本。
脚本メデューズの罠…サティ自身によって書かれたバレエの脚本。前衛的な内容で当時の文学仲間たちからの影響が伺える。
X問題点及び疑問・今後の課題
今回の問題点として結局テーマを絞りきれず、散漫な内容になってしまったこと、資料管理を合理的に行わなかったために混乱が起こったこと等を自覚している。次回発表までに研究のシステム自体を自分なりに考え直し、手順よく慌てずに発表に取り組める準備をしておく必要があると考えている。また、フランス語や英語の原文には全く手をつけていないためそれらにあたることも考慮して行こうと思っている。
本発表以前からあり、今回触れていない大きなテーマとして、なぜシュルレアリスムでは音楽という分野が殆ど扱われないのかというものがある。今回の調査でシュルレアリスム派に音楽家が余りいなかったこと、性格的にそこに加わる可能性が高かったサティがツァラ側についた事によって特にブルトンと仲違いしててしまったこと等多少の新しい要素を発見することが出来たが、このテーマはシュルレアリスム研究の中でもやや空洞化した部分であり今後調べがいがあるテーマである。(その分資料集めが難業だが)
参考文献、引用文献一覧
・エリック・サティ著 秋山邦晴、岩佐鉄男訳『卵のように軽やかに』 筑摩書房 1992
・エリック・サティ著 藤富保男訳『エリック・サティ詩集』 思潮社 1989
・秋山邦晴著『エリック・サティ覚え書き』 青土社 1990
・オルネラ・ヴォルタ編 田村安佐子、有田英也訳『書簡から見るサティ』 中央公論社 1993
・トリスタン・ツァラ著 小海永二訳『ダダ宣言』 竹内書店 1970
・アンドレ・ブルトン著 巌谷國士訳『シュルレアリスム宣言・解ける魚』 岩波書店 1992
・塚原史著 『言葉のアヴァンギャルド』 講談社 1994
・パトリック・ワルドベルグ著 巌谷國士訳 『シュルレアリスム』 美術出版社 1969
・小田久郎発行 『シュルレアリスムの読本1〜3』思潮社 1981