ピアノの変遷とショパン

2002年6月27日 西川研究会
3年 真島 愛美

1.発表の目的

ピアノと言っても、時代・メーカー・国などによって多種多様であり、ピアノ作品とピアノの関係はとても深い。ピアノが一番発達した時期の作曲家では、ベートーベンが有名だが、今回は自分が一番慣れ親しんできたショパンを取り上げることにした。
 この発表では、ピアノの歴史、ショパンのピアノ作品とピアノの関係について調べていきたい。

 

2.ピアノの歴史

1700年  バルトロメーオ・クリストーフォリ(1655〜1731)イタリア
        ピアノとフォルテの出せる新しいハープシコードを発明
1730年代 ゴットフリート・ジルバーマン(1683〜1753)ドイツ
        ダンパーを上げる機構を加える
1742年  ヨハン・ゾッハー  ドイツ
        長方形のクラヴィコード型スクエア・ピアノを発明 
1773年  ヨハン・アンドレーアス・シュタイン(1728〜1792)ドイツ
        プレルメヒャーニク式のエスケープメントを備えた最初のピアノを作る
        ウィーン・アクションを実質的に確立する
1780年代 アントン・ヴァルター  オーストリア
        エスケープメントを改良 音域がF’からf’’’ または F’からg’’’
       ヨハネス・ツンペ(ジルバーマンの後継者と言われる)
        ダブル・アクションを発展させる, スクエア型を取り入れる
        イギリス・アクションと呼ばれた近代的なピアノの基礎を築く
1796年  セバスチャン・エラール(1752〜1831)イギリス
        ダブル・パイロットという独自のアクションを開発
        ツンペの影響を受けイギリス・アクションに貢献
1823年   ダブル・エスケープメントを開発
        急速な同音連打が可能・名人芸的な急速なパッセージも自由に発揮可能
1855年  スタインウェー(カール・シュタインベグ)アメリカ
        エラールを土台とした、構造全体を金属フレームで支えたスクエア・ピアノを発明
1880年代  ほぼ完成

 

3.2つのアクションとペダルについて

3−1 ウィーン・アクションとイギリス・アクション

シュタインが発明したウィーン・アクションとツンペが発明したイギリス・アクションの間には様々な違いがあった。まず、アクションの構造が根本的に異なっている。一般的にウィーン・アクションは「はね上げアクション」イギリス・アクションは「突き上げアクション」と呼ばれている。ウィーン・アクションの鍵盤はわずか6ミリしか沈まず、タッチも軽く、華麗なパッセージワークに適していた。イギリス・アクションの鍵盤は深く、その分タッチも重く、重厚な和音に適していた。その特性から多くのヴィルトゥオーソたちに気に入られていたウィーン・アクションだったが、エラールがダブル・エスケープメントを発明してからは、イギリス・アクションが主流となっていく。現代のピアノもイギリス・アクションの流れを汲んだものである。

3−2 ペダルについて

また、現代のピアノと異なる点で興味深いのがペダルである。18世紀のイギリスのピアノには弱音を出すペダルの種類が多く、1台のピアノに4,5本のペダルがついているものもあった。フンメルの『ピアノ奏法』によれば、「ダンパーを上げたままの演奏があまりにも流行してしまい、ペダルを用いなければ誰が演奏しているのか分からなくなってしまう」ことがよくあったようだ。ペダルの種類には例えば次のようなものが挙げられる。通常ついていたのは@とAである。
 @フォルテ   ダンパーを上げるペダル。
 Aウナ・コルダ 2本ないし3本の弦のうち1本を打って弱音を出すペダル。
 Bセレスタ   皮や布をはさむことによって弱音を出す装置。
Cハープ    ハンマーと、2本の弦のうち1本の間に皮をはさむペダルで、セレスタとウナ・コルダを結びつけた装置。
 Dバフ・ストップ(リュート・ストップ)  弱音効果のペダル。 

 

4.ショパンとピアノ

ショパン Chopin, Frederic Francois(1810〜1849)は、鍵盤をまさぐるように弾いたと言われている。その独特の奏法に合ったピアノと出会うまでにはやはり時間がかかった。当時ピアノは今よりもさらに高価だったため、初めショパンはポーランド製のブーフホルツというピアノもどきの楽器を使っていた。エルスネルに師事してからは彼の愛用のシュタインを借用した。
 その後、ウィーンでシュタインやグラーフからピアノの提供の申し出があり、ショパンも気に入り、1829年8月のウィーンデビューの演奏会ではグラーフのものを使用している。
 パリに移り住んでから(1831年9月から)はエラールを愛用していたが、その後ショパンがもっとも愛用することになるプレイエルのピアノと出会う。美しく透明度の高い音・音の質・音色の変化を表現しやすいのが特徴である。
 プレイエル、エラールのピアノについて書かれたショパン、リスト、クララ・シューマンの手紙・著作がいくつかある。(『文献にみるピアノ演奏の歴史』芹沢尚子訳)

リスト「ショパン伝記」

ショパンがパリに移り住んだばかりの頃、彼は健康で元気だった。その頃はエラールのピアノを弾くのを常としていたが、彼の友人のプレイエルが、金属的な響きと特に軽いタッチを特色とする、すぐれた楽器を彼に贈ってからは、ショパンはもはや他社のピアノを弾こうとしなかった。・・・彼はプレイエルの楽器の、特にその銀の輝きをもった響き、少し金切り声的な音、そしてその軽いタッチが気に入った。

(Niecks,Friedrich Frederic Chopin as a man and musician, London 1888)

ショパン

 私は気分のすぐれない時には音がすでに完成されているように思われるエラールのピアノを一番好んで弾くが、体調が良くて自分の音を創り出す力が充分にある時はプレイエルのピアノを弾く。                                  ( 同 上 )

クララ・シューマンからシューマンに宛てた手紙 1839年2月14日

 私の部屋にはエラールのピアノが置いてありますが、その鍵盤は大変重く、かろうじて押し下げることができる程度の代物ですから、私は非常にがっかりしてしまいました。ところが、昨日プレイエルのピアノを弾いてみましたら、それほど重くありませんでした。 

(Litzmann, Berthold Clara Schumann, Band 1-3, Leipzig, 1902)

 そしてショパンの多くの書簡から、彼がどれだけプレイエルのピアノに執着していたかがよく分かる。例えば、ジョルジュ・サンドとマジョルカ島に移り住んだとき、ショパンの周りにはまともなピアノがなく、プレイエルに頼んでおいたピアノが届かないことを、毎日のように友人やプレイエル本人に手紙で訴えている。また、マジョルカ島を出てサンドの祖母の家があるフランス中部のノアンに住んでからは、作曲に集中できる環境と、ジョルジュが手配してくれたプレイエルのピアノがあったため、ショパンの生涯で、重要な作品が最も多く生まれた時期となっている。
 以下はショパンがマジョルカ島から、友人やプレイエルに送った手紙である。
 

ジュリアン・フォンタナに パルマ 1838年11月15日

プレイエルに言ってください。ピアノがまだ着いていないのです。どこ経由で出したのですか。≪プレリュード集≫はほどなく着くでしょう。   

 ジュリアン・フォンタナに パルマ 1838年12月3日

ただ一つ、ピアノがない。ロッシェコアール街のプレイエルに直接手紙を出した。どうなるか見ていよう。 

 ジュリアン・フォンタナに パルマ 1838年12月14日

 今日、ピアノは12月1日マルセイユで商船に船積みされたと知った。ピアノはこの冬じゅう港で船積みのままになるのではないかと思う。 

 ジュリアン・フォンタナに パルマ 1838年12月28日

 税関の者がいうところによると、ピアノは一週間港で止まっていたそうだ。このいまわしいことに対し、巨額の留置料を請求してきている。気候は快適だが、人間はこじきだ。 

 カミーユ・プレイエルに パルマ 1839年1月22日

 ≪プレリュード集≫をお送りします。あなたの竪型ピアノで仕上げました。ピアノは海を渡り、悪天候に加えてパルマの税関を通って来たのですが、完全でした。       

(すべて アーサー・ヘドレイ編・小松雄一郎訳 『ショパンの手紙』から)

 手紙にある通りショパンは≪プレリュード集≫をプレイエルのピアノで仕上げた。そして、この≪プレリュード集≫がプレイエルへの献呈になるとよいのだが、と手紙に書いている。実際、この≪プレリュード集≫は、ドイツ版はヨゼフ・ケッスラーへの献呈となったが、フランス版はカミーユ・プレイエルへの献呈となった。

 

5.作品について

 ここでいくつか、プレイエルのピアノを手に入れてから作曲が急に進んだ作品を取り上げたいと思う。上の2つはマジョルカ島で仕上がったもの。それ以外の作品はノアンで作曲したものである。


◆ ≪24の前奏曲集≫ Op.28 (1836~39)
 1836年から着手していたものの、本格的に作曲に取り組んだのは1839年にプレイエルのピアノが届いてからだった。

◆ ≪バラード≫ ヘ長調 Op.38 (1836~39)
 これも1836年に原形が作曲されたと思われる。マジョルカ島に行く前にシューマンの前で演奏している。しかしその後フォンタナに1月22日に≪プレリュード集≫を送った際、数週間の内に≪バラード ヘ長調≫を送ると約束していることからマジョルカ島で完成されたことが分かる。シューマンも「ショパンがこのバラードをここで演奏してくれたとき、曲はヘ長調で終わっていたが、今度はイ短調に変わっている」と言っている。

◆ ≪ソナタ≫ 変ロ短調 Op.35 (1839), ロ短調 Op.58 (1844)

◆ ≪チェロ・ソナタ≫ ト短調 Op.65 (1845~46)

◆ ≪バラード≫ 変イ長調 Op.47 (1840~41), ヘ短調 Op.52 (1842)

◆ ≪スケルツォ≫ 嬰ハ短調 Op.39 (1839), ホ長調 Op.54 (1842)

◆ ≪ポロネーズ≫ 嬰ヘ短調 Op.44 (1840~41), 変イ長調 Op.53 (1842)

◆ ≪幻想ポロネーズ≫ 変イ長調 (1845~46)

◆ ≪幻想曲≫ ヘ短調/変イ長調 Op.49 (1841) 

◆ ≪2つのノクターン≫ ハ短調、嬰ヘ短調 Op.48 (1841)
           ヘ短調、変ホ長調 Op.55 (1843), ロ長調、ホ長調 Op.62 (1846)

◆ ≪ワルツ≫ ヘ短調 Op.70/2 (1841)

◆ ≪3つのマズルカ≫ 嬰ハ短調、ロ長調、変イ長調 Op.41/1,3,4 (1839~40)
  ト長調、変イ長調、嬰ハ短調 Op.50 (1842), ロ長調、ハ長調、ハ短調 Op.56 (1843)
  イ短調、変イ長調、嬰ヘ短調 Op.59 (1845), ロ長調、ヘ短調、嬰ハ短調 Op.63 (1846)

 ショパンは1839年〜1846年まで(1840年を除く)の間、毎年、春から晩秋にかけて数ヶ月をノアンで過ごした。ここで作られた作品はこの他にも多数ある。

 

6.プレイエルのピアノについて

 プレイエル社はイグナス・プレイエル(1757〜1831)が設立したピアノ製造会社である。彼はハイドンに師事し、ストラスブール、ロンドンで活躍し、作曲家としてだけではなくピアノのヴィルトゥオーソとしても名を馳せた。彼は1807年にパリで楽器製造業を始め、その事業は息子のカミーユに引き継がれ、その活動は1970年まで続いた。伝統ある自社の音を守りつづけ、楽器の生産台数の点でもフランスを代表するメーカーとして君臨しつづけた。
 プレイエルのピアノは、グランドピアノはエラールのアクションを、アップライト・ピアノ(竪型ピアノ・ピアニーノ)はウォーナムのアクションを土台にしている。しかし、その軽妙で歌うような自然な音色はエラールの強靭な音とは対照的だったようである。

※ウォーナム 
 イギリスの楽器製造業および楽譜出版業の一族。ロバート・ウォーナム(1742〜1815)が設立。息子のロバート・ウォーナム(1780〜1852)は、1811年に現代風の外観をもつアップライト・ピアノを、13年には背の低いアップライト・ピアノを、そして28年にはコテージ・ピアノのアクションを開発した。プレイエルはこのピアノをまねて「ピアニーノ」を作っている。
 また、37年に開発したテープ・チェック・アクション(42年に特許を取得)は、現代のアップライト・ピアノの基礎となった。

 

7.まとめと反省・今後の課題など

 マジョルカ島から友人に送った手紙の中に「ぼくは音楽を夢みていますが、ここには1台もピアノがありませんから、書けません。」という一節がある。どの本にも書かれているように、やはり、ショパンの作品とプレイエルのピアノには密接な関係があったように思う。イギリス・アクションであるにも関わらずタッチが軽く、名人芸的なパッセージにも対応でき、流れるような自然な音色であるプレイエルのピアノはショパンにとって欠かせないものだったと思う。

 今回は時間があったのに、英語やフランス語の文献がほとんど読めなかった。なんとなくテーマは決めたものの、自分でもはっきりした目的が見えていなかったからだと思う。次回からは、もう少し明確なテーマを決めてから取り掛かろうと思った。
 今後は、ショパンの作品に絞ってみたいと思うけれど、ベートーベンの作品も気になっているので、未定。

 

 ◇ 参考文献 ◇

『ニューグローヴ世界音楽大事典』 講談社 1994

Sadie, Stanley, ed., The New Grove dictionary of music and musicians 2nd ed., 2000

William Smialek, guide to research Frederic Chopin, Garland Publishing; New York, 2000

『作曲家別名曲解説ライブラリーCショパン』 音楽之友社 1993

佐藤充彦 『ショパンとピアノ作品と』 東京音楽社 1991

アーサー・ヘドレイ編,小松雄一郎訳 『ショパンの手紙』 白水社 1965

バルバラ・スモレンスカ=ジェリンスカ,関口時正訳 『ショパンの生涯』 音楽之友社 2001

西原 稔 『ピアノの誕生』 講談社 1995

G.シューネマン,門馬直美・石多正男訳 『ピアノ音楽史』 春秋社 1988

William G. Atwood, The Parisian Worlds of Frederic Chopin, Inc. New York, 1999

ウリ・モルゼン編,芹沢尚子訳 『文献にみるピアノ演奏の歴史』 シンフォニア 1986

ヨハン・ネーポムク・フンメル,朝枝倫子訳 『フンメルのピアノ奏法』 シンフォニア 1998