音楽における引用の概念について
2002年11月14日 西川研究会
4年 池上 健一郎
【発表の順序】
1. 序――発表の目的
2. 言語における引用概念
2-1. 言語における2種類の引用
2-2. 音楽に援用する際の問題点
3. 音楽における引用概念
3-1. 引用成立の条件とそのメカニズム
3-1-1. ゾフィア・リッサ
3-1-2. リッサ以外
3-2. 引用の技法的側面
4. 《交響曲第3番》の「ヴァーグナー引用」――第1楽章T. 459-503
4-1. 聴き手への効果
4-2. 「ヴァーグナー引用」と主題との関連性
5. まとめ
6. 参考文献
1. 序――発表の目的
ブルックナー Anton Bruckner(1824-1896)の《交響曲第3番ニ短調「ヴァーグナー」》第1稿(1873年)に見られる、いわゆる「ヴァーグナー引用」を、初めて「引用の概念とは一致しない」と結論づけたのはエーゴン・フォスであった1。以後、音楽における引用の概念を視野に入れた「ヴァーグナー引用」の研究が行われているものの、その議論は未だ十分であるとは言い難い2。
一方、西洋音楽において、現代的な意味での引用の実践例は既に16世紀に見られる3にもかかわらず、音楽における引用の概念は、記号論や文学における引用理論を援用して1960年代以降ようやく議論され始めたに過ぎない。現在でも音楽における引用には明確な定義は与えられていないといえる4。
今回の発表では、まず、「ヴァーグナー引用」を議論する上では避けて通れない引用概念の再検討を行う。その際、引用の美的効果といった問題は扱わず、音楽における引用成立の要因とそのメカニズム、および引用の純粋に作曲技法的な側面のみを取り上げる。その上で、《交響曲第3番》第1楽章の「ヴァーグナー引用群」(T.459-503)を取り上げ、この箇所に関して引用か否かを議論することの是非について考察したい。
2. 言語における引用概念
2-1. 言語における2種類の引用
・引用元との関係5
直接引用……統辞論的同一性あるいは統辞論的模写=綴りの同一性+引用符による枠付け
間接引用……意味論的言い替え=指示あるいは意味のある種の同等性
(例)John: There are 40 students in my class.
→John said, "There are 40 students in my class."
→John said that there were 40 students in his class.
・記号論における三視点
統辞論……他の諸記号との連鎖・結合
意味論……記号と意味するものとの関係
語用論……記号とその由来との関係
2-2. 音楽に援用する際の問題点
・言語における統辞論的枠付け(引用符)にあたるものが音楽には存在しない
「音楽の記譜法に音にならない引用符があってもおかしくないのに、実際にはそれがない理由は、たぶん音楽では音が最終生成物であるからだろう。」6
・意味論的言い換えが不可能
「実際、音楽は何も語らないからである。」7
↓
類似性、旋律の有名さは引用成立の基準にはならない
↓
では、音楽において引用成立の条件とは何か?
3. 音楽における引用概念
3-1. 引用成立の条件とそのメカニズム
「作品B中にその部分として現れる音楽断片aは、それが聴き手xによって「全体としての部分 pars pro toto」の原理に従って作品Aの代表として認識されうる限りにおいて、聴き手xにとって引用である。」8
「xがAを知っていて、aがAの断片であると認識する時にのみ、その上さらに、聴き手xが作曲家の意図、すなわちBの相の間にあるaの特定の意味を把握する時にのみ、作曲家の特定の意図と結びついて用いられた引用はその使命を満たす。……聴き手の一連の知的操作が成功するかどうかで、断片aは引用であったりそうでなかったりするのである。」9
3-1-2. リッサ以外
・ギュンター・フォン・ノエ
概観的にではあるが、音楽における引用の問題に初めて取り組む→上位概念としての借用10
「聴き手にある明確な連想をもたらそうという意図を持った、ある短い音楽断片の意識的な借用が引用として理解される。」11
・ティボール・クナイフ
リッサの「全体としての部分pars pro toto」という考え方を批判
→意味論化を引用成立の基準として設定
「従って、引用があるかどうかは、ある作品が再び用いられることによって(場合によっては付加的な)意味要素が盛り込まれるかどうかにかかっている。聴き手がそこから作曲家によって与えられた意味論的意図を取り出した時にのみ音楽における引用が機能する、ということは疑いないだろう。」12
・ゲルノート・グルーバー
「従って引用を定式化するならば、次のようになるだろう――外来の素材がノエマ的に組み込まれたもの。」13
・渡辺裕
聴き手の存在こそが引用成立の要因であるとする
――ヴォルフガング・イーザーの文芸理論(読者論)の援用
「引用を引用たらしめる根拠がもはやテクストのうちにではなく、聴取行為を行なうきき手のあり方そのもののうちにある」14
「引用を引用と認める根拠もまさにそのようなきき手の能動的な参加行為の中にしかない」15
3-2. 引用の技法的側面
・引用≠主題労作16
主題労作……純粋に音楽的、素材機能
引用……作品の主題的着想ではあってはならない、内容的要素(具体的な意味連関をもたらすものとしての内容)
・明確な断片としてたいていは一度きり、適度な長さで現れる。音楽の経過から際だつくらい特徴的か、一般的に有名でなければならない。17
4. 《交響曲第3番》の「ヴァーグナー引用」――第1楽章T. 459-503
4-2. 「ヴァーグナー引用」と主題との関連性→【図V】
5. まとめ
音楽における引用に関しては、未だに明確な定義や包括的な理論があるわけではない。しかし、先行研究の整理を通じて、引用成立の本質的要因として聴き手の存在を指摘することができるだろう。聴き手がある楽句に対して注意を払い、既存の作品との関連を解釈し、意味を再構築してゆく限りにおいて、その楽句は引用なのである。従って、作曲家が意図していても聴き手が気付かない(=引用と認めない)こともあるし、逆に作曲家が意図しない引用を聴き手が認めることも当然あり得る。また、音楽においては類似性が引用成立の基準とならないことも明らかである。
ブルックナーの《交響曲第3番》における「ヴァーグナー引用」に関しては、従来作曲技法的な分析やヴァーグナー作品との類似性の指摘のみによって、引用であることの肯定・あるいは否定がなされてきた。だが、引用成立の要因が聴き手にあることをふまえると、こうした研究の方法論が引用という問題を扱う上で果たして妥当なのか、という疑問が当然沸いてくる。ましてや、統辞論的一致があるわけではない「ヴァーグナー引用」が対象である以上、その疑問はなおさら増してゆくのである。
6. 参考文献
・Burkholder, J. Peter. "The Uses of Existing Music: Musical Borrowing as a Field." In Notes, vol. 50, No. 3 (March 1994), pp. 851-870.
・―――――――――. "Borrowing." In The New Grove Dictionary of Music and Musicians. 2nd rev. ed., Vol. 2, pp. 5-41.
・エコ,ウンベルト『記号論入門――記号概念の歴史と分析』谷口伊兵衛訳 而立書房,1997年。
・Goodman, Nelson. "On Some Questions Concerning Quotation." In The Monist, vol. 58, no. 2,(April 1974), pp. 294-306.(邦訳:ネルソン・グッドマン『世界制作の方法』菅野盾樹、中村雅之共訳 みすず書房,1987年。)
・Gruber, Gernot. "Zitat." In Die Musik in Geschichte und Gegenwart, 2. bearb. Aufl., Sachteil 8, S. 2401- 2412.
・―――――――. "Das musikalische Zitat als historisches und systematisches Problem." In Musicologica Austriaca, Bd. 1 (1977), S. 121-135.
・Hinrichsen, Hans-Joachim. "Bruckners Wagner-Zitate." In Bruckner-Probleme. Internationales Colloquium 7.-9. Oktober 1996 in Berlin, hrsg. von Hans Heinrich Eggebrecht, S. 115-133. Stuttgart: Franz Steiner Verlag, 1999.
・Howard, Vernon. "On Musical Quotation." In The Monist, vol. 58, no. 2 (April 1974), pp. 307-318.
・Kneif, Tibor. "Zur Semantik des musikalischen Zitats." In Neue Zeitschrift für Musik, Bd. 134, H. 1 (1973), S. 3-9.
・Lissa, Zofia. "Ästhetische Funktionen des musikalischen Zitats." In Die Musikforschung, Bd. 19 (1966), S. 364-378.
・Noé, Günther von. "Das musikalische Zitat." In Neue Zeitschrift für Musik, Bd. 124 (1963), S. 134-137.
・Reiter, Elisabeth. "Nochmals: Die "Wagner-Zitate"――Funktion und Kontext." In Bruckner- Jahrbuch 1994/95/96, hrsg. von Renate Grasberger, Andrea Harrandt, Elisabeth Maier und Erich Wolfgang Partsch. Wien: Musikwissenschaftlicher Verlag, 1997.
・Voss, Egon. "Wagner-Zitate in Bruckners Dritter Sinfonie? Ein Beitrag zum Begriff des Zitats in der Musik." In Die Musikforschung, Bd. 49, H. 4(1996): 403-406.
・渡辺裕「音楽における引用の認定」『国立音楽大学研究紀要』第17集(1982年),151-165頁。
1 Egon Voss, "Wagner-Zitate in Bruckners Dritter Sinfonie? Ein Beitrag zum Begriff des Zitats in der Musik," in Die Musikforschung, Bd. 49, H. 4(1996), S. 405.
2 以下に挙げる2つの論文においても、「ヴァーグナー引用」が引用であるか否かが作曲技法的な側面からしか論じられていない。Elisabeth Reiter, "Nochmals: Die "Wagner-Zitate"――Funktion und Kontext," in Bruckner-Jahrbuch 1994/95/96, hrsg. von Renate Grasberger, Andrea Harrandt, Elisabeth Maier und Erich Wolfgang Partsch (Wien: Musikwissenschaftlicher Verlag, 1997), S. 79-89. Hans-Joachim Hinrichsen, "Bruckners Wagner-Zitate," in Bruckner-Probleme. Internationales Colloquium 7.-9. Oktober 1996 in Berlin, hrsg. von Hans Heinrich Eggebrecht (Stuttgart: Franz Steiner Verlag, 1999), S. 115-133.
3 ジャケット・ダ・マントヴァ Jacquet da Mantova(1483-1559)はモテット《ドゥム・ヴァストスDum vastos》において、ジョスカン Josquin Deprez(1440-1521)への敬意を表するため、彼の作品を引用した。また、アンドレーアス・ツヴァイラーAndreas Zweiller(1545/50-1582)の引用実践からも意味論的な意図が読みとれるという。Gernot Gruber, "Das musikalische Zitat als historisches und systematisches Problem," in Musicologica Austriaca, Bd. 1 (1977), S. 123-124.
4 MGGの「引用Zitat」の項においても、「音楽における引用の概念は用語法としては新しく、あまり明確なものではない」とされている。Gernot Gruber, "Zitat," in Die Musik in Geschichte und Gegenwart, 2. bearb. Auslage(1998), Sachteil 8, S. 2401.
5 Nelson Goodman, "On Some Questions Concerning Quotation," in The Monist, vol. 58, no. 2(April 1974), p. 296およびVernon Howard, "On Musical Quotation," in The Monist, vol. 58, no. 2 (April 1974), p. 310, 314に基づく分類。
6 Nelson Goodman, op. cit., p. 302.
7 Vernon Howard, op. cit., p. 311.
8 Zofia Lissa, "Ästhetische Funktionen des musikalischen Zitats," in Die Musikforschung, Bd. 19 (1966), S. 367.
9 Ebenda.
10 Günther von Noé, "Das musikalische Zitat," in Neue Zeitschrift für Musik, Bd. 124 (1963), S. 134.また、バークホルダーも「音楽的借用musical borrowing」を包括的な用語として認めている。J. Peter Burkholder, "The Uses of Existing Music: Musical Borrowing as a Field," in Notes, vol. 50, No. 3 (March 1994), p. 862.
11 Günther von Noé, a. a. O., S. 135.
12 Tibor Kneif, "Zur Semantik des musikalischen Zitats," in Neue Zeitschrift für Musik, Bd. 134, H. 1 (1973), S. 3.
13 Gernot Gruber, a. a. O. (Anm. 3), S. 129.
14 渡辺裕「音楽における引用の認定」『国立音楽大学研究紀要』第17集(1982年),154頁。
15 同前。
16 Günther von Noé, a. a. O., S. 135およびZofia Lissa, a. a. O., S. 366に基づく区別。この区別は引用研究において明確になされているように思われる。
17 Zofia Lissa, a. a. O., S. 365-366.