A.ブルックナーの《交響曲第3番ニ短調「ヴァーグナー」》WAB103
第1稿(1873年)における「引用」1の再検討
2002年4月25日 西川研究会
4年 池上 健一郎
ブルックナー Anton Bruckner(1824-1896)の《交響曲第3番ニ短調「ヴァーグナー」》WAB1032には3つの稿が存在する3が、中でも第1稿(1873年)の第1楽章T. 459ff(練習番号R)に、ヴァーグナー Richard Wagner(1813-1883)の《トリスタンとイゾルデ》及び《ヴァルキューレ》からの「引用」が含まれていることは早くから指摘されてきた。4従来の研究においては、@1873年のバイロイト訪問の際にブルックナーは《交響曲第2番》と《交響曲第3番》の両方を提出し、献呈作品の決定をヴァーグナーに委ねたこと、A「引用群」が前後から孤立しているように聞こえること、の2点から、上記の「引用」はバイロイト訪問後に付け加えらたとされ5、しばしば「妨げる効果」6をもつ「挿入句」7と解釈されてきた。その一方で、「引用」を楽章の音楽的コンテクストに位置づける試みはこれまでほとんどなされていない。8
そこで今回の発表では、「引用群」とその前後を「先行楽句による後続楽句の準備」という観点から分析すると共に、「引用群」の楽句が第1楽章において決して「異物」ではないことを示し、「引用群」が音楽的コンテクストに組み込まれていることを指摘したい。
《交響曲第3番ニ短調「ヴァーグナー」》WAB103
・成立年代(第1稿):1872年10月15日(?)〜1873年12月31日
・初演(第2稿に基づく短縮版):1877年12月16日
ヴィーン・フィルハーモニー,アントン・ブルックナー指揮
(楽友協会ホール,ヴィーン)
・初版(第2稿):1878年 A. Bösendorfer/ Th. Rättig(ヴィーン)
・楽器編成:フルート2,オーボエ2,クラリネット2,ファゴット2,ホルン4,トランペット3,トロンボーン3,ティンパニ、弦5部。
・献呈:リヒャルト・ヴァーグナー
※ブルックナー自ら「ヴァーグナー交響曲 Wagner-Symphonie」と呼んでいる9
3. 音楽的コンテクストへの位置づけの試み(譜例省略)
3-1. T. 443-458と「引用群」の関係
3-2. 「引用群」内部における漸進的移行
※漸進的移行……ある楽句において特徴的な要素を、先行楽句が既に準備している
@「《トリスタン》引用」
A 半音階下行
B 和声
C 異名同音
3-3. 「引用群」と第1楽章全体の関係
3-3-1. 「《トリスタン》引用」とゼグエンツ的経過句
cf. ゼクエンツ的経過句に関して
「注目すべきは、大規模な引用群の中央部[ゼクエンツ的経過句]が、一方で《トリスタン》の想起を、他方で自作引用を目論んでいることである。……こうした橋渡し機能Brückenfunktionの中にこそその意味があるのだ。」10
3-3-2. 「《ヴァルキューレ》引用
分析によって、《交響曲第3番》第1楽章の「引用群」前後が、漸進的移行と呼びうる技法により周到に構築されていることが明らかとなった。また、「《トリスタン》引用」は第1主題部、第3主題部において重要な役割を果たしている音型であり、「《ヴァルキューレ》引用」はモットーを導く12度下行音型としての機能が与えられているということも指摘できた。
以上から、「引用群」を第1楽章の音楽的コンテクストへと位置づけようとするブルックナーの意図が読みとれるだろう。また、分析結果から判断して、「引用群」はバイロイト訪問後に挿入されたとするより、当初から構想されていたと考える方がより自然なのではないだろうか。
今回は取り上げなかったが、「《ヴァルキューレ》引用」が実際に(引用かどうかは別として)《ヴァルキューレ》に由来することは、分析結果からいってほぼ間違いない。今後は、「《トリスタン》引用」の音型がヴァーグナーに由来するのか否かを検討する必要がある。仮にヴァーグナーに由来することが高い可能性で言えるとすれば、《交響曲第3番》成立史に対する自説が提示できる。すなわち、《交響曲第3番》は、着想の段階から「崇高なる規範であるヴァーグナーmeinem erhabenen Vorbilde Wagner」11の存在を念頭におき、当初より「ヴァーグナー交響曲」として構想された作品なのではないか、という見方である。今のところ、この方向性で卒業論文を執筆してゆこうと考えている。
以下に、今後の課題を挙げる。
・第2楽章、第4楽章にもヴァーグナーからの「引用」と指摘されている箇所があるが、分析が進んでいない。
・「引用」に囚われない《交響曲第3番》の楽曲分析
・ブルックナーの作品を概観する。特に、ヴァーグナー体験以前の初期作品に注目する。
・《交響曲第3番》の自筆譜調査
・音楽における「引用」という語の検討 etc.
・デルンベルク,エルヴィン『ブルックナー――その生涯と作品』和田旦訳 白水社,1999年 初版 1967年。
・Floros, Constantin. "Die Zitate in Bruckners Symphonik." In Bruckner-Jahrbuch 1982/83, hrsg. von Othmar Wessely, S. 7-18. Graz: Akademische Druck- u. Verlaganstalt, 1984.
・Göllerich, August u. Max Auer. Anton Bruckner. Ein Lebens- und Schaffensbild. 4 Bde. Nachdr. Regensburg: Gustav Bosse, 1974. Erstdruck 1936.
・Grasberger, Renate. Werkverzeichnis Anton Bruckner (WAB). Tutzing: H.Schneider, 1977.
・Haas, Robert. Anton Bruckner. Potsdam: Akademische Verlagsgesellschaft Athenaion, 1934.
・Hinrichsen, Hans-Joachim. "Bruckners Wagner-Zitate." In Bruckner-Probleme. Internatio- nales Colloquium 7.-9. Oktober 1996 in Berlin, hrsg. von Hans Heinrich Eggebrecht, S. 115-133. Stuttgart: Franz Steiner Verlag, 1999.
・Briefe 1852-1886. Vorgelegt von Andrea Harrandt u. Otto Schneider. Wien: Musikwissen- schaftlicher Verlag, 1998. (Anton Bruckner Sämtliche Werke Band 24/1.)
・Kühnen, Wolfgang. "Die Botschaft als Chiffre. Zur Syntax musikalischer Zitate in der ersten Fassung von Bruckners Dritter Symphonie." In Bruckner-Jahrbuch 1991/92/93, hrsg. von Othmar Wessely, S. 31-43. Wien: Musikwissenschaftlicher Verlag, 1995.
・Nowak, Leopold. Über Anton Bruckner. Gesammelte Aufsätze 1936-1984. Wien: Musikwissen- schaftlicher Verlag, 1985.
・Oeser, Fritz. Einführung zur 3. Symphonie in d-Moll. 2. Fassung von1878. Wiesbaden: Brucknerverlag, 1950.
・Röder, Thomas. "Die Dritte Symphonie―unfaßbar." In: Bruckner Symposion "Fassungen- Bearbeitungen-Vollendungen" : im Rahmen des Internationalen Brucknerfestes Linz 1996, hrsg. von Uwe Harten, S. 47-64. Wien: Musikwissenschaftlicher Verlag, 1998.
・―――――――. Auf dem Weg zur Bruckner Symphonie. Untersuchungen zu den ersten beiden Fassungen von Anton Bruckners Dritter Symphonie. Stuttgart: Franz Steiner Verlag Wiesbaden, 1987.
・Simpson, Robert. "The 1873 Version of Bruckner's Third Symphony." In Bruckner-Jahrbuch 1982/83, hrsg. von Othmar Wessely, pp. 27-32. Graz: Akademische Druck- u. Verlaganstalt, 1984.
・Stephan, Rudolf. "Anton Bruckner: dritte Symphonie d-Moll, erste und dritte Fassung, in Ausschnitten einander gegenübergestellt." In Bruckner Symposion "Die Fassungen": im Rahmen des Internationalen Brucknerfestes Linz 1980, hrsg. von Franz Grasberger, S. 91-96. Linz: Linzer Veranstaltungsgesellschaft, 1981.
・高尾知良「手稿資料から見たブルックナーの第3交響曲――『バイロイト献呈譜』をめぐって」『ブルックナー/マーラー事典』(東京書籍,1993年)所収,270-277頁,1993年。
・Voss, Egon. "Wagner-Zitate in Bruckners Dritter Sinfonie? Ein Beitrag zum Begriff des Zitats in der Musik." In Die Musikforschung, Bd. 49, H. 4(1996): 403-406.
・―――――. "Wagner und Bruckner. Ihre persönlichen Beziehungen anhand überlieferten Zeugnisse (mit einer Dokumentation der wichtigsten Quellen.)" In: Anton Bruckner: Studien zu Werk und Wirkung Walter Wiora zum 30. Dezember 1986, S. 219-233. Tutzing: Hans Schneider, 1988.
・Wagner, Cosima. Die Tagebücher. 2 Bde., editiert und kommentiert von Martin Gregor-Dellin und Dietrich Mack. München: R. Piper & Co. Verlag, 1976.
・渡辺護『リヒャルト・ワーグナー――激動の生涯』音楽之友社、1987年。
1 今回の発表で用いている括弧付きの「引用」という語は、「従来の見解において引用とされている箇所」という意味においてのみ用いているのであって、あくまで当該箇所を指すためだけの暫定的な表現に過ぎない。
2 WAB=Werkverzeichnis Anton Bruckner アントン・ブルックナー作品目録
3 ブルックナーは、一度完成段階に到達した後も幾度か改訂を加えるという傾向があった。特に《交響曲第3番》には3つの稿が存在する上に、その間も細かい補筆・修正を加えていたため、ブルックナー作品の中でも最も異稿問題が複雑である。
第1稿:1873年(ノヴァーク版 V/1)
アダージョ第2番:1876(?)年(ノヴァーク版 zuV/1)=第1稿第2楽章のヴァリアンテ
第2稿:1877年(ノヴァーク版 V/2)
第3稿:1889年(ノヴァーク版 V/3)
因みに現在《交響曲第3番》に関しては、全部で7種類の楽譜が出版されている。
4 Robert Haas, Anton Bruckner (Potsdam: Akademische Verlagsgesellschaft Athenaion, 1934), S.117-119. あるいは、August Göllerich u. Max Auer, Anton Bruckner. Ein Lebens- und Schaffensbild, 4 Bde (Nachdr. Regensburg: Gustav Bosse, 1974. Erstdruck 1936), Bd. 4/1, S. 270-272.
5 Wolfgang Kühnen, "Die Botschaft als Chiffre. Zur Syntax musikalischer Zitate in der ersten Fassung von Bruckners Dritter Symphonie," in Bruckner-Jahrbuch 1991/92/93, hrsg. von Othmar Wessely (Wien: Musikwissenschaftlicher Verlag, 1995), S. 34-35., Constantin Floros, "Die Zitate in Bruckners Symphonik," in Bruckner- Jahrbuch 1982/83, hrsg. von Othmar Wessely (Graz: Akademische Druck- u. Verlaganstalt, 1984), S.12., Egon Voss, "Wagner-Zitate in Bruckners Dritter Sinfonie? Ein Beitrag zum Begriff des Zitats in der Musik," in Die Musikforschung, Bd. 49, H. 4(1996), S.405.
6 Fritz Oeser, Einführung zur 3. Symphonie in d-Moll. 2. Fassung von1878 (Wiesbaden: Brucknerverlag, 1950), S. V.
7 Rudolf Stephan, "Anton Bruckner: dritte Symphonie d-Moll, erste und dritte Fassung, in Ausschnitten einander gegenübergestellt," in Bruckner Symposion "Die Fassungen": im Rahmen des Internationalen Brucknerfestes Linz 1980, hrsg. von Franz Grasberger (Linz: Linzer Veranstaltungsgesellschaft, 1981), S. 94.
8 「《ヴァルキューレ》引用」の和声を構成するいくつかの要素を第1主題部の和声進行と関連づけたハンス・ヨアヒム・ヒンリクセンの論考が唯一の試みである。Hans-Joachim Hinrichsen, "Bruckners Wagner-Zitate." In Bruckner-Probleme. Internationales Colloquium 7.-9. Oktober 1996 in Berlin, hrsg. von Hans Heinrich Eggebrecht, S.115-133 (Stuttgart: Franz Steiner Verlag, 1999).
9 1873年11月4日合唱団「フロージンFrohsinn」宛書簡に最初の使用例が見られる。Briefe 1852-1886, vorgelegt von Andrea Harrandt u. Otto Schneider (Wien: Musikwissenschaftlicher Verlag, 1998), S. 142.
10 Hans-Joachim Hinrichsen, a. a. O., S. 125.
11 1868年6月20日ハンス・フォン・ビューロゥ宛書簡。Briefe, S. 91.