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チャイコフスキーP. I. Tchaikovsky(1840-1893)と ニコライ・ルビンシティンN. G. Rubinstein(1835‐1881) |
1865. 9 | ニコライ、モスクワ音楽教室の教授を探してペテルブルグへ | |
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ペテルブルグ音楽院の卒業作品製作中のチャイコフスキーに出会う ロシア音楽協会モスクワ支部の音楽教室の教師への就任依頼 |
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1866. 1. 7 | 職業音楽家としての仕事を与えられモスクワへ | |
→ | ニコライ、自分の家の一室を住居として提供する | |
1866. 9 | ニコライの依頼で≪デンマーク国歌による祝典序曲≫作曲開始 | |
1868. | ニコライ、デジレ・アルトーとの結婚をやめるよう迫る | |
1869. 8 | 共に新しいアパートへ転居 | |
1871. 8. 29 | ニコライの家を出る | |
1872. | ≪ニコライ・ルビンシティンの命名日のためのセレナード≫作曲 | |
1874. 12. 24 | ニコライにピアノ協奏曲第1番を弾いてきかせたところ批判される | |
1875. 11. 21 | ニコライの指揮でピアノ協奏曲第1番モスクワ初演(ピアノはタネーエフ) | |
1877. 10. 20 | 音楽院で≪エフゲニ・オネーギン≫を初演してほしいとニコライに依頼 | |
1878. 3. 10 | ニコライ、ピアノ協奏曲第1番演奏 | |
1878. 12. 5 | アナトーリイ宛ての手紙 (文献2) | |
* | ニコライが死んで絶望する夢を見たことと、彼に強い愛情を感じていることを告げる | |
1878. 3. 10 | ニコライ、ピアノ協奏曲第1番演奏 | |
1879. 2 | 出典未詳 (文献2) | |
* | ニコライに対して抱いていた敵意が消えたことを告げる | |
1881. 3. 11 | ニコライの死をニースで知る | |
1881. 3. 14 | ニコライの葬式。『ロシア報知』に追悼文を書く | |
1881. 5. 13 | アナトーリイ宛ての手紙 (文献8) | |
* | ニコライの死で管弦楽作品に興味を失ったことを告げる | |
1881. 12. 5 | ニコライの追悼ミサに出席 | |
1890. | タネーエフ宛ての手紙 (文献2) | |
* | ニコライの思い出が生き生きとしている限り、音楽院の仕事をする際には彼ならどうしたかを考えなくてはいけないと述べる |
(1865. | 序曲ハ短調 ニコライが依頼) |
1866. 3. 4 | 序曲ヘ長調(第2稿) |
1866. 3. 31 | ピアノ曲≪カプリッチョ≫ |
1866. 12. 10 | 交響曲第1番 op. 13 スケルツォ |
1867. 1. 29 | デンマーク国歌による祝典序曲 op. 15 (ニコライが依頼) |
1867. 3. 31 | ピアノ曲≪カプリッチョ≫ op. 8 |
1868. 2. 3 | 交響曲第1番 op. 13 (ニコライに献呈) |
1868. 12. 8 | ピアノ曲≪ロマンス≫ op. 5 |
1869. 2. 15 | 幻想曲≪運命≫ op. 77 |
1870. 3. 4 | 幻想序曲≪ロミオとジュリエット≫(第1稿) |
1870. 11. 6 | ストラデッラ≪ああ、わたしの甘い熱情が≫(ピアノ付き独唱用アリア)のオーケストラ編曲 |
1870. 12. 18 | 歌劇≪マンドラゴラ≫より≪花と昆虫の合唱≫ |
1871. 1. 29 | チマローザ≪秘密の結婚≫(三重唱曲)のオーケストラ編曲 |
(1872. | 6つの歌曲 ニコライに献呈) |
(1872. 12. 6 | ニコライ・ルビンシティンの命名日のためのセレナード ニコライに献呈 ニコライの家で初演) |
1873. 1. 26 | 交響曲第2番 op. 17 (第1稿) |
1873. 5. 11 | 劇付随音楽≪雪娘≫ op. 12 |
1873. 12. 7 | 幻想序曲≪テンペスト≫ op. 18 |
1874. 4. 7 | シューマン≪荒野の少年のバラード≫(ピアノ付き朗読)のオーケストラ編曲 |
1875. 11. 7 | 交響曲第3番 op. 29 |
(1876. 3. 2 | 弦楽四重奏曲第3番 op. 30 ニコライの家で初演) |
1876. 11. 5 | スラヴ行進曲 op. 31 |
1877. 2. 25 | 幻想曲≪フランチェスカ・ダ・リミニ≫ op. 32 |
1878. 2. 10 | 交響曲第4番 op. 36 |
1879. 3. 17 | 歌劇≪エフゲニ・オネーギン≫ op. 24 |
1879. 10. 21 | ピアノ・ソナタ op. 37 |
1879. 12. 8 | 組曲第1番 op. 43 |
1880. 12. 6 | イタリア奇想曲 op. 45 |
(1882. 3. 8 | ピアノ三重奏曲 op. 50) |
(1882. 5. 18 | ピアノ協奏曲第2番 op. 56 ニコライに献呈) |
2. | 作品の成立過程 |
1880. 10. 11 | メック夫人からの手紙 (文献6) | |
* | ドビュッシーがトリオを作曲したことを告げる | |
1880. 10. 18 | メック夫人からの手紙 (文献15) | |
* | トリオを書かない理由を尋ねる | |
1880. 10. 24 | メック夫人宛ての手紙 (文献6) | |
* | ピアノ三重奏曲を作曲しない理由を説明 | |
1881. 3. 11 | ルビンシティンの死をニースで知る | |
1881. 5. 11 | カメンカへ戻る | |
1881. 11 | ヨーロッパへ | |
1881. 12. 15 | メック夫人宛ての手紙 (文献15) | |
* | ピアノ三重奏曲の始まりの部分を書いたことを告げる | |
1882. 1. 6 | 草稿出来上がる (文献15) | |
1882. 1. 28 | 清書を完了する | |
1882. 3. 8 | 初演 |
* | ラローシはペテルブルグ音楽院時代のチャイコフスキーについて「何百回も私は彼から、ピアノ協奏曲や、ピアノとヴァイオリンのためのソナタや、三重奏曲、四重奏曲などは生涯決して一曲も書かない、という誓いとも言える言葉を聞かされた」が「時とともにそれらを完全に払拭していった」と言う。 (文献3) |
* | カシキンの回想によるとチャイコフスキーはなぜ三重奏曲を作曲したかということについて「偉大なピアニストを追憶するのにピアノを主役としないわけにはいかない。しかしピアノとオーケストラのための協奏曲とか幻想曲はあまりに華麗すぎる。またピアノだけでは音色が単調で貧しいので満足できなかった。」と言ったという。 (文献1) |
3. | 曲の内容と特徴 |
第1楽章: | 悲歌的楽章(Pezzo elegiaco) Moderato assai 4/4 イ短調 | |
第2楽章: | (第1部) | |
主題 | Andante con moto 4/4 ホ長調 | |
第1変奏 | Andante con moto 4/4 ホ長調 | |
第2変奏 | Piu mosso 3/4 ホ長調 | |
第3変奏 | Allegro moderato 4/4 ホ長調 | |
第4変奏 | L'istesso tempo 4/4 嬰ハ短調 | |
第5変奏 | L'istesso tempo 4/4 嬰ハ長調 | |
第6変奏 | Tempo di Valse 3/4 イ長調 | |
第7変奏 | Allegro moderato 3/2 ホ長調 | |
第8変奏 | (フーガ) Allegro moderato 4/4 ホ長調 | |
第9変奏 | Andante flebile ma non tanto 9/8 ホ長調 | |
第10変奏 | Tempo di Mazurka 3/8 変イ長調 | |
第11変奏 | Moderato 4/4 ホ長調 | |
(第2部) | ||
変奏終曲とコーダ | Allegro risoluto e con fuoco 4/4 イ長調 |