「邦楽ジャーナル」1996年2月号掲載
現代邦楽を検証する@
われらの時代
倉 橋 義 雄
大学闘争
1960年代後半、それはビートルズの時代であり、男子長髪の時代であり、ミニスカートの時代であり、ベトナム戦争が泥沼化し、反戦運動が世界中で盛り上がり、アメリカ黒人公民権運動は激烈になり、フランス五月革命、プラハの春、フォークソングは全盛、中国は文化大革命、日本は高度成長、何が何だか分からないけれど私たちハイティーンが急激に自信をもちはじめ、大江健三郎の小説の題名ではないが《われらの時代》が確実に近づいているという実感が持てた、そのような時代でした。
私は68年に高校を卒業、いわゆる浪人暮し、昼夜が逆転した変則的な宅浪生活を2年も続けましたが、その時期、外の世界では私と同世代の若者たちが華々しい叛逆を開始していました。羽田、佐世保、新宿・・・・私はただテレビと新聞と雑誌で彼らの行動を見守るだけでしたが、心は完全に彼らとひとつになっていました。
そして大学闘争。右翼とか左翼とかいう問題ではありません。とうとう《われらの時代》がやって来たのです。
ふくろうみたいな生活に耐えられず、私も同志社大学のバリケードの中に出入りするようになりました。私だって《われらの時代》の一員なのです。
しかし、それはつかの間の幻想だったようです。
国家権力のものすごさを見せつけられたときの無力感、大人たちの“常識”の想像以上の強固さを思い知らされたときの脱力感は、私たちを虚無的にしてしまいました。
これが邦楽なのか!
こうして《われらの時代》の幻想もすっかり終息し、万国博が華々しく開幕した1970年、私は大阪のある大学に合格し、後ろめたさと自己嫌悪を感じつつ、かわいい新入生になりました。キャンパスでは、まるで何事もなかったかのように、学生たちがテニスを楽しんでいました。
いまさら学生運動なんか時代錯誤だと思って、何となく「邦楽」のクラブに入りました。父が琴古流尺八の師匠でしたから私には自然のなりゆきだったのかもしれませんが、ほんの少しながら、次のような気持ちがあったことも確かです。
「この時代に尺八を吹くということは、ひょとしたら“革命的”なことではなかろうか!」
確かに尺八は革命的に面白かったけれど、クラブ活動そのものには徹底的に不真面目でした。上級生を呼び捨てにし、師匠稽古はさぼり、定期演奏会には出演を拒否するという生意気でイヤな新入生でした。師匠から指定されたのは子供だましみたいな曲ばかり、アホらしくて吹けるかよ。あの闘争は何だったの? あらゆる権威を否定するために闘ったのだろう? それなのに、どうして邦楽の世界では権威にへつらうの? 邦楽の権威なんて国家権力と比べたらカスみたいなものだろう?
現状に不満な上級生もいて、こうつぶやいていました。
「うちの大学でも現代邦楽せんといかん」
「現代邦楽??? それは何や?」
やがて、私にも他の大学の様子が聞こえてきました。「現代邦楽」というものが嵐のように登場してきて、学生が熱烈に支持している。とくに京都がすごいらしい。京都では現代邦楽するために、どの大学も片っ端から師匠をクビにして、自分たちだけで研究しているらしい。京都以外でも師匠を取り替えた大学があるらしい。社中の師匠たちはひどく現代邦楽を嫌っていて、カンカンになっているそうだ。何か知らないけれど、よそでは“革命的”な事態が進行しているようだ。もし本当なら、すごいことではないか。
関西学生邦楽連盟は「日本音楽集団」とか「尺八三本会」とかいうグループを東京から呼んできて、初めて大阪に紹介した。関西学院大学邦楽クラブはある作曲家に依嘱して学生のための作品を作曲してもらった。同じ学生がしていることとは思えないすごい話に、私は圧倒されながらも、ふと、忘れかけていた《われらの時代》という言葉を思い出しました。私の父をはじめとして“体制的”な師匠たちが露骨に嫌悪感を示している現代邦楽という音楽、さらに師匠たちが「あんな奴ら、珍しいことをしているだけや」と不快感を隠さなかった東京の若き演奏家たち、そういうものを学生が周囲の圧力を排しながら支持しているなんて、まさに“革命的”でなくて何だろう。
あるとき、京都学生三曲連盟選抜メンバーによる演奏を聞きました。大勢で演奏していて、指揮者が棒を振ったり太鼓が鳴ったり、はじめは違和感を感じましたが、演奏が学生とは思えないくらいに見事だったので、びっくりしてしまいました。また関西学院大学の依嘱作品の演奏も聞きました。これまた従来の邦楽のイメージを吹き飛ばすような曲でしたが、それよりも、指揮する学生の後姿が格好よかったことと、箏を演奏する女子学生たちの視線が全員ピシッときまっていたことに感動しました。これが邦楽なのか!
そんな私がひょんなことから関西学生邦楽連盟の委員長に選ばれてしまいました。古典しか知らない世間知らずの私でしたから、何をすればいいのか迷っていましたが、酒井竹保師の言葉で目からウロコが落ちました。
「ええか倉橋くん、オリンピック見てみい、学生で世界の一流なっとる者がいっぱいいるぞ。邦楽でも学生が先駆者になるくらいの気概をもて!」
時代を動かす!
60年代末に幻想のまま消えてしまった《われらの時代》が、いま邦楽という世界で目の前に実現しているような気がしました。ようし、それなら古典も現代も区別ないぞ、学生のパワーを爆発させてやろうと考えて、とりあえず先駆的な企画として学生の「全国演奏大会」を開いてみることにしました。
世間知らずの私の全国大学回りが始まり、関西、四国、中部、関東のいろいろな大学に何度も足を運び、ときにはコンパにも参加して大会参加を呼びかけました。その過程で覚えきれないほど多くの学生たちと友達になりました。それは私にとって一生忘れられない体験でした。どの地方に行っても、あっと驚くような刺激的な学生が次から次から登場してきたのです。とにかく個性強烈、多士済々、人材豊富、百花繚乱、私のような清楚な学生はただあっけにとられるばかりで、ひょっとしたら各大学の“花形学生”がみんな邦楽のクラブに結集しているのではないだろうかと思ったほどでした。
いま思うと、それは学生邦楽全盛期のまことに華やかな夢のような一時期だったのです。コンパともなれば、カンカンガクガク議論百出、かつての大学闘争とは無縁のようなタイプの人たちばかりでしたが、あの闘争がいま形を変えて邦楽の世界で花開いているような、そんな気がしました。時代をオレたちが動かしているのだぞという気概と自信が私にも伝わってきました。
このような学生たちが現代邦楽に飛びつくのは当然のこと、また現代邦楽あればこそ彼らは邦楽のクラブに結集したのだ、と理解しました。《われらの時代》を表現する新しい感性の音楽が登場したのです。大人たちが嫌悪すればするほど、それはますます《われらの音楽》になるのです。私は古典も現代も区別はないと思っていましたが、やはり《われらの時代》には《われらの音楽》が必要だったのです。しかも、学生たちが支持した若きプロ演奏家たちというのが、史上空前ともいえる演奏技術と音楽性の持ち主ばかり。
「こんなにすごい演奏家たちをオレたちは味方につけたのだぞ。ヤイ大人ども、文句あっか!」
日本の楽器に可能性を見つけた作曲家たちのめざましい活躍・・・・
史上空前の技術を身につけた新進演奏家の登場・・・・
そして
過剰なくらいの自信をもって既成の価値観に挑戦する若者たちの大群・・・・
この3つが合体して、そこに「現代邦楽」というものが嵐のように台頭したのだと思います。そのとき若者に、とくに学生に、確かに《われらの時代》が存在しました。それは僅か3〜4年、ほんの短い間に過ぎませんでしたが、確かに存在し、その最後の1年と思われる年に、私もかろうじてその時代の風に触れることができました。
新たな体制に・・・
悪戦苦闘したあげく、50年ぶりといわれる「全国学生邦楽演奏大会」は何とか大阪で開くことができました。でも私は余りうれしくなく、むしろ苦い挫折感を味わっていました。開いてはみたけれど、私が期待していたものとは、何かちょっと違っていたのです。夢にまで見ていた大会だったのに、開いてしまえば、「なーんだ、こんなものだったのか」、何か納得できないものが残りました。
このあと現代邦楽があたりまえになり、権威と闘う若者たちが祭りあげていた若き演奏家たちが新たな権威者となったとき、すなわち新たな“体制”が出来上がったとき、私たちは知らず知らずのうちに体制に組み込まれ、いつのまにか、いかなる権威にも挑戦するという気概を失くしてしまったみたいです。そのような徴候が、すでに「全国大会」のとき見え隠れしていたように思われるのです。
(了)
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