1999年6月15日「京都三曲」第29号掲載

会員の広場

大平原のモウロウ

倉 橋 義 雄

 アメリカの「スパークリング・ビートニック」という冗談みたいな名前のレコード会社から、私の尺八本曲CDを出したいという話が舞い込んできました。私としては棚ボタみたいな話でしたので、快諾して、去る1月、さっそくアメリカへ渡ってきました。
 その会社はミズーリ州コロンビアという小さな町にありました。大平原のど真ん中のごく普通の町でしたが、その遠かったこと。関西空港からセントルイス空港まで直行便がないので、20時間以上もかかりましたが、さらに空港からコロンビアまで自動車で4時間もかかりました。もっとも、ローマ法王がセントルイスに来るということで、中西部のカトリック信者が殺到していて、我々の自動車はその渦中に巻き込まれたという事情もありました。
 やっとコロンビアにたどりついて案内されたのは、ホテルではなくて、社長ジェームズ氏の自宅でした。ジェームズ氏は大富豪だと聞いていたのに、それはそれは質素な家でした。留守中の娘さんの部屋で寝泊まりしてほしいと言われました。そのことには問題なかったのですが、たまたまアルゼンチンから来た女子高生がすでにホームステイしていて、その子と仕切り一枚隔てたところで寝てほしいということ。うれしいやら面食らうやらで、そわそわしてその夜はあまり眠れませんでした。
 おかげで翌日は最悪。24時間以上もかかった旅の疲れと時差ボケと睡眠不足で、スタジオでは地に足つかず息は乱れました。それでも死に物狂いで尺八を吹きました。気合いの勝利と言うべきか、最初は順調でした。さすがプロともなれば体調の悪さなんか問題ではないと自画自賛しました。ところがそれも束の間、だんだん意識がモウロウとしてきて、頭の中でセミが鳴き始めたのです。やっぱり俺はセミプロだったのかと、意気が徐々に消沈していきました。
 日没の頃、その日の予定が終了したとき、窓から見るコロンビアの町が、荒涼としたゴーストタウンのように見えました。
 さて夜は、愛くるしいアルゼンチンの女の子とお食事でも・・・・と考えてウキウキしたのは約5分間だけ。むりやり自動車に乗せられて、大きなキリスト教会へ連れて行かれました。この町に日本の尺八吹きが来たのは初めてだから、「ここでリサイタルをせよ」という社長命令。すでに気の長そうなコロンビア住民が少なからず集まっていました。カトリック信者は法王を見に行き、プロテスタント信者は尺八を見に行くというのが、その日のこの町の構図のようでした。疲れ切った心身でリサイタルとは酷な話でしたが、力をふりしぼって吹き通しました。「最後の曲は『鶴の巣籠』です」と言いながら『鹿の遠音』を吹いている自分に気がつきました。
 心底疲れて社長宅に帰ったら、留守だった17歳の令嬢が帰宅していて、しかもご機嫌が極めてナナメでした。何しろ自分の部屋が、見知らぬアルゼンチンの女子高生と、怪しげな日本のオッサンに占領されていたのですから、むりもありません。やむをえずアルゼンチンは仕切りのこちら側に引っ越してきました。アルゼンチンは、無邪気というか傍若無人というか、ケラケラ笑って、さすがエビータの末裔。こちらはビビってしまって、またまた睡眠不足。
 次の日の録音は、すっかり意識モウロウ、何をどう吹いたのか、記憶に残っていないのです。日没の頃、「録音終了」というジェームズ社長のかけ声にハッと我に返り、「いやまだ2曲残っている」と叫んだら、社長は変な顔をして、「それは昨日、何時間もかけて録音したではないか」・・・・今でも私にはその2曲を吹いた覚えがないのです。
 怪しげに苦労して録音した私のCD、さてどんな出来ばえだろうかと、インターネットで試聴してみました。コンピューターから流れ出てきたその音は、耳を塞ぎ、目を覆いたくなるような、悲惨無惨な音の砂嵐。
 発売開始から1ヶ月、ジェームズ氏からEメールが届きました。
 「喜べ! 貴氏のCDはスパークリング・ビートニック社創設以来のベストセラーになっている」