「邦楽ジャーナル」2002年5月号掲載

<続>異国見聞尺八余話 (12)最終回

一期一会

倉 橋 義 雄


ご愛読ありがとうございました

 あるカナダ男性が「貴方の教室は気楽なところだと聞きまし た」と言って尺八を習いに来た。面と向かって気楽と言われ、少 しムカッとしたけれど、確かに私の無住庵尺八教室ほど気楽な ところはないだろう。だーれが生徒か先生か、いばる人ひとり もいない。
 そのカナダ男性はスポーツマンで、ある種目の世界チャンピ オンになったことがあるという。だから「こんな気持ちは良くな いのですが」と恐縮しながら言うには「チャンピオンになった 人間が音楽教室で初心者でいるのは難しいのです。だから気楽 な教室を探していました。」
 日本の普通の音楽教室では、先生や先輩が大きな顔をしてい て、初心者は軽く扱われているらしい。初心者は何となく卑屈 になって愛想笑いなどしている。そういう雰囲気にチャンピオン としての誇りが傷つけられるのを、彼は恐れたのだろう。その 点、私の教室では誰もいばらないから、彼も安心したみたい。
 さて新人が来たと思って喜んでいたら、イギリス女性生徒が 急に帰国することになった。この人西洋人にしては珍しく可愛 い人で、私が長期旅行に出かけるときは「別れがつらい」と言 って必ず泣いてくれた。最後の稽古のときも、顔をクシャクシ ャにして泣き出した。たくましくて純真。どうしたらそういう 境地になれるのかなと、羨ましくもあった。彼女と比べたら、 私も充分にシラケ虫だものね。
 でも別れがつらいという気持ち、私にだって分かるけれど、 50年以上も人間してると、だんだん薄れてきたみたいだ。人 生というのは予想以上に長いもので、いろんな人との出会いと 別れを繰り返してきたら、いつの間にか悲しみに鈍感になって しまった。かつて別離を悲しんだ人とあとで何回も再会したり したから、「どうせまたどこかで会うさ」なんて思ってしまう。
 そのかわり最近思ってきたことは「一期一会」ということ。 毎日顔を合わす人でも、ひょっとしたらこれが最後かもしれな い、てなこと思ったら丁重にならざるを得ない。
 アメリカの小学校を巡回したときも、一期一会の精神を発揮 した。「これが最後だから、必ずこの子供達を喜ばせてやるぞ」 と性根を入れ万感こめて『鹿之遠音』を吹いた。そしたら鹿の 鳴き声のところで、子供達がクスクス笑い出した。並の尺八吹 きなら「笑うなんて失敬な」と怒るところだが、天才演奏家た る私は違った。逆に「これだ!」とひらめいたのである。万感こ めたら演奏者の顔はゆがむ。当然おかしい。それじゃ、もっと おかしな顔をして見せたら・・・・。
 さっそく次の小学校で実行してみた。出来る限り顔をしかめ て「ピューッ」。どっと爆笑。やったー!客席へ飛び降りて、 あちこち飛び跳ねながら「ピューッ」。一期一会だ。伝統もヘ ッタクレもないぞ。子供達は大喜びの拍手喝采。警備員や給食 調理員さんまで飛び出してきた。『鹿之遠音』が大受けするなん て、我ながら呆れたけれど、気持ちいいことこの上なし。
 ところが、その次の小学校ではうまくいかなかった。原因は 学校の先生。子供達が笑いかけたら「シーッ、笑ってはいけま せん」と制止したのだ。子供達は、かわいそうに顔を真っ赤に して、必死で笑いをこらえてた。
 思うに日本音楽のことを少し知っている先生が、いちばん子 供達を苦しめているみたいだ。尺八音楽は「ワビサビ」「禅」 なのだから、笑ってはいけないとくる。でも一期一会、感じる ままに聞いてもらわないとね。
 ある小学校で古典『虚鈴』を吹いたとき、子供達が曲の印象 を絵に描いてくれた。見れば、どれもこれも明るい絵ばかり。 太陽輝く海辺だとか、花咲き乱れる庭園だとか、私自身の『虚 鈴』の印象からは遠くかけ離れた絵ばかり。私は感動し、そし て先入観にガンジガラメになっている自分を恥じたね。
 あるアメリカ男性が『一二三鉢返し』を聞いていわく「故郷 のカリフォルニアの景色を思い出しました。ああ懐かしい。」 それでいいんだね。曲目解説なんて何の意味もない。その印象 がその人にとっての感じるままの『一二三鉢返し』なんだから。
 感じるままに、面白かったら笑おう。面白くなかったらアク ビしよう。いばるなんて最低。
 さて、続編もまた最終回を迎えた「異国見聞尺八余話」、ご 愛読くださった皆様に感謝のキスを送ります。またいつかお目 にかかりましょう。お暇なとき、ぜひメールをください。私のア ドレスは<mujuan@nifty.com>です。\(^O^)/

(第12話終)