科研費研究課題「信時潔に関する基礎的研究──作品・資料目録データベースの作成と主要作品の研究《の研究成果中間報告の第一弾として、信時潔(1887〜1965)のベルリン留学に至るまでの時期(1905〜19)に焦点を当て、彼の作曲家としての「出発《を、日本で初めて本格的な洋楽の「作曲家《という職業像が立ち上がってくる歴史的・社会的コンテクスト、とりわけ「国民楽《を巡る言説に照らし合わせながら検証する。後に「上野の西洋アカデミズム《としていわゆる「民族派《の批判の的となる東京音楽学校を中心とした作曲の営みの出発点及び根底に、いかなる形で「国民楽《を目指す思惟や実践があったのかを探る。以下に骨子を示すような報告や、花岡千春氏によるピアノ演奏を交え、フロアとの活発な議論を行いたい。
(1)信時作品資料研究の現状と課題(信時裕子)
東京藝術大学附属図書館「信時潔文庫《所収資料を始め、国内のオリジナル資料をほぼ網羅的に調査し、資料・作品情報のデータ入力が進みつつある現状を報告、そこから浮かび上がる最新の知見と課題について論及する。
(2)信時の作曲家としての出発とその背景を巡って(片山杜秀・大角欣矢)
東京音楽学校関係史料に基づき、信時が同校で受けた教育を検証するとともに、当時の彼を取り巻く社会状況、及び音楽に関する身近な言説(とりわけ「国民楽《を巡る議論)を、『音楽新報』『音楽界』等の雑誌から読み解き、最初期の作品群に結実する信時の作曲思想の基盤を推定する。
(3)信時の最初期の作品(1909〜19)を巡って(花岡千春・大角欣矢)
独唱曲・合唱曲と並んで、特に信時の「国民楽《への取組みを推測させる作品の一つ、ピアノ曲《Variationen(越天楽)》(1917)を取り上げ、分析と実演(恐らく公開演奏としては世界初?)を通じその特徴を明らかにする。
ラジオやテレビといった放送メディアは近代以降の日本において多様な音楽の発信・受容に大きな役割を果たしてきたが、音楽放送に関する歴史研究は実際のところそれほど多くはない。その理由として、関連の資料が非常に少ないことや、戦前・戦中期の音楽放送を扱ったこれまでの研究が国家統制や戦意昂揚といった文脈の中で論じられ、それ以外の見方が提示されにくいこと、などがある。
本ラウンドテーブルは、日本の音楽放送の歴史研究に関心を持つ 研究者を対象に、最新の成果や課題を共有することを通じ、研究テ ーマや手法に関する新たな可能性を探ることを目的とする。今回は、時期を戦前から終戦期に限定し、最初に、特にクラシック音楽をはじめとした洋楽放送の歴史研究がどの程度行われてきたか、また音楽放送研究を行うにあたって必要な資料の保存・公開状況に関して確認する(武田)。次に、ここ数年の音楽放送研究で実績を挙げている 3 名より、自らの関心?ローカリティ(関西のオーケスト ラ放送、西村)及び個別ジャンル(オペラ関連番組、佐藤。音楽教育番組、大地)の観点?から得られた成果を報告する。最後に、各発表を受け、今後の音楽放送研究の可能性についてフロアと議論を深める。
今年(2014 年)は、テリー・ライリーの記念碑的な作品《InC》が誕生して50 年目にあたる。この作品がきっかけとなり、その後、スティーブ・ライヒやフリップ・グラスなどの多くの作曲家たちの音楽実践に影響を与えながら、いわゆる「ミニマリズム《とよばれる音楽的な概念や様式、手法が生み出されていった。このようなミニマリズムの展開が「50 年《というひとつの時代の区切りのなかでどのような変容していったのか。現在という視点から、あるいは日本という文脈も絡めながら、各方面の方々と議論を展開していく。
まず、作曲という領域を中心にコーディネーター(藤枝守)から70 年代以降、ミニマリズムが創作の態度をどのように方向づけたのか、自らの体験を通じての問題が提起される。それを受けて、アメリカを中心としたデジタル・テクノロジーの進展との関わり(カール・ストーン)、民族音楽とも呼応したあらたな演奏行為や身体感覚(高田みどり)、60 年代のフルクサスとの隣接性(柿沼敏江)、当時の政治・社会状況との関連における検証(福中冬子)など,ミニマリズムをめぐるさまざまなテーマを中心に討議が展開していくことを期待している。
そして、ミニマリズムとは、すでに過去の音楽語法として位置づけられるものなのか。あるいは、現在でもその価値を保持するとしたら、どのような側面においてなのか。50 年という節目においてミニマリズムの再考を試みるとともに、21 世紀の作曲の状況も浮き彫りにしていく。
なお、このパネルに関連して、福岡を拠点とする演奏家たちによる《InC》のコンサートが大会のなかで実施される予定である。
日本音楽研究における資料、なかでも一次資料については、その多くが当然ながら日本国内に存在してきた一方で、国内では出会うのが難しくなったような稀少資料や国内の資料とは異なる情報を携えた貴重資料が国外に存在するケースもあり、研究対象によっては国外の資料の中に研究上の大きな手がかりが期待できる例も少なくない。こうしたいわゆる在外資料との出会いや在外資料から得られる可能性のある研究成果にはおおいに期待が膨らむ一方で、日本国内に研究拠点をおく日本音楽研究者の多くにとって、在外資料の調査・研究には言語や文化や制度そして資料に対する価値判断や意識などの違いに起因する多方面の困難や課題が伴うことも事実であろう。このパネルでは、日本音楽研究における在外資料の存在や扱いをめぐり、その諸々の課題や可能性について、欧米やアジアの様々な地で資料調査を手がけた研究者の経験やノウハウの情報を交換すると同時に、日本国内の資料の調査・研究のケースとも照合し、フロアの各方面の研究者からの質疑や意見も交えて、その問題点や可能性を共有し議論する場としたい。
具体的には、欧米でE.S.モースのコレクションの日本音楽資料や関連資料を中心に悉皆調査をされた茂手木潔子氏に北米や英・蘭での資料調査の展開を、また九州を主要な舞台の一つとして展開したイエズス会の宣教に伴う音楽活動をめぐって資料調査を行った深堀彩香氏にイタリアでの調査の経験談を、そして日本の音楽史や音楽研究史と密接な関係を持つ韓国の音楽史をめぐって調査を続けている山本華子氏に日韓双方の在外資料にまつわる話題等をご提供戴き、それらを受けて日本国内での一次資料調査を手がける前原恵美氏も交え、国内外の問題点の比較や日本音楽研究ならではの資料調査・研究上の諸課題の整理し、日本音楽研究のグローバルな展開の促進に繋がる議論としたい
本シンポジウムは、西洋芸術音楽以外の音楽、すなわち諸民族の音楽やポピュラー音楽の分析研究のあり方について、考察する。中でも西洋芸術音楽に由来する理論によってこれらの音楽を分析しようとする研究に、焦点を当てる。
従来、世界の民俗音楽やポピュラー音楽は、あまり音楽として分析されてこなかった。特に西洋芸術音楽の和声、リズム、旋律、形式等の諸理論を適用した分析は、概して退けられてきた。なぜなら、それは西洋中心主義・芸術至上主義につながりかねず、結果として分析対象の真の独自性を見落としかねないとの懸念が、多くの学者に抱かれていたからである。
ところが近年、民俗音楽やポピュラー音楽の分析研究、それも西洋芸術音楽の理論を直接・間接に用いた分析が増えつつある。また欧米では、そのような分析研究の発展を促す学会や研究グループまで発足してきている。これは、この種の研究の中に、懸念どころかむしろ、積極的な意味を見いだそうとする学者の数が増えてきていることを意味する。
こうした新傾向を受けて、本シンポジウムでは、非西洋・非芸術音楽の分析研究に取り組む4名のパネリストが、論題を提供する。大西秀明はフィリピンのクリンタン音楽分析、藤田隆則は能のリズム分析、田村和紀夫は西洋音楽からのポピュラー音楽分析、川本聡胤はJ-POP分析をそれぞれ試み、その積極的な意味について論じる。
といっても、この企画は決して、西洋芸術音楽的分析理論もしくは何らかの分析理論に関して、その優位性や汎用性を主張するものではない。むしろさまざまな楽曲分析理論が混在する今日、分析理論と楽曲様式との関係をどう捉えるべきか、一度立ち止まって熟考し、ひいては、楽曲分析とは何か、音楽の研究とは何か、という大きな問題に新たな光を当てようとするものである。
フロアを含めた活発なディスカッションを通して、多様な視点から、この目的を果たしたい。
16世紀から 17世紀にかけて西洋で十二平均律が考案され、実用にも供されたのとほぼ時期を同じくして、東洋においても中国の朱載?(1536〜 1610)、日本の中根元圭(1662〜 1733)が十二平均律を算出した。しかし十二平均律算出に至る背景や動機は東西で異なっている。西洋においては、ピタゴラス音律での響きの上調和を解消するために中全音律など様々な音律が試行される中で平均律が提示され、最終的に広く普及することになったのに対し、東洋の十二平均律は三分?益法で生成された十二律に内在する問題点を解消するために、三分?益法から平均律算出に理論的に飛躍したものであった。東洋の十二平均律の算出の動機も一様ではない。中国では朱載?が律暦合一思想にもとづき、循環する十二月の暦の運行に合わせるために「循環無端《の音律として考案したものであったのに対し、日本の中根元圭は当時の和算の発達のなかで、十二律の各音程を数値の上で文字通り「平均《にするために算出したものであった。こうした算出に至る背景や動機の相違を反映して、当時の音楽や人々の受け入れ方も西洋、中国、日本で異なったものになった。その結果、西洋では十二平均律が実用に結びついてきたのに対し、中国や日本では当時の実際の音楽で実用されることはなく、十二平均律の普及は近代の西洋音楽の導入を介してのこととなった。 本パネルは、奇しくもほぼ同時期に考案された西洋、中国、日本の十二平均律について、近年の東洋の楽律に関する研究の進展を踏まえた上で、算出法、算出に至る背景や思想、受容の様相などを洗い直し、三者を比較することで、西洋音楽史、東洋音楽史の特質の一端を浮かび上がらせようとするものである。先ずは、現代日本の平均律の実態を確認し(島添)、西洋の平均律(吉川)、中国の平均律(田中)、日本の平均律(遠藤)のそれぞれについての基調報告を行った上で、比較考察を試みる。
[Panel-7] 5号館2階524室数学は古代ギリシャ以来音楽の思考を拡張しあるいは精緻化を促してきた。今日の音楽学においても、音律や協和性の数学的理論、演奏研究にみる統計学を用いた定量分析、作曲技法のための数学的音楽理論、楽曲の形式的分析やパターン分析の枠組みとしての数学的理論、音楽の数理哲学等のさまざまな領域で数学が使われており、数学を用いることの有効性は、音楽学者に広く認識されていると思われる。しかし、これまでに音楽学関連学会で、数学的思考が音楽研究にどれだけ貢献し得るのかについて、周到に議論されたことはない。このシンポジウムでは、数学者と音楽学者をパネリストに迎え、それぞれの立場から最新の動向を踏まえ、現代において両者を交差させることの意義について検討する。まず、亀岡理論を用いてH.Riemann等の下方?音列が物理的に存在することを導いた小畑が、協和性理論および音律論の数学を用いた展開可能性について述べる。次に、GTTMのコンピュータ実装等音楽情報科学分野で数学を用いてきた平田が、情報科学で用いられる数学の考え方をわかりやすく説明したうえ、認知的リアリティが保証された構成論的な音楽理論について論ずる。次に、演奏研究において数学手法を実践しかつ問題提起してきたゴチェフスキが、音楽にみる連続と離散、数学手法の音楽創作への応用事例について報告する。さらに、圏論・トポス理論・数理論理学を専門とする丸山が、G.MazzolaのTopos of Musicに言及しつつ、数学者の視点から、音楽理論のための普遍言語と音楽存在論について論ずる。発表内容を踏まえ、音楽ルールの数学モデル化、音楽のなかの曖昧さの認識と記述、音楽理論のなかの虚数、音楽の上可知性の認識、数学の哲学と音楽の哲学における並行性等について議論を交わし、新しい数学を用いることにより可能になる音楽研究領域について問題提起していく。音楽学者と数学者との連携、音楽学者に求められる数学力についても議論を試みたい。
[Panel-8] 5号館3階531室 音楽文化を活性化させる動きは、現在各地で行われている。コンサートホールやオーケストラなどは、次世代の聴衆育成に関わる課題でもあり、ホールや練習場に招くなど、実に様々な手法がとられている。これらについて取り上げられるのは、主として教育やマネージメントの観点からの議論が多いが、今回はそこで提示される「作品《を、場を含めた「コンテンツ《として捉え直し、音楽学の観点から議論を進めたい。
コーディネーターは、2011年度から2013年度までの3年間、「学校・文化施設による<持続可能な地域文化力>を育む『連携型プログラム』の開発研究《(科学研究補助金基盤研究B 対象研究 課題番号23330234)とのテーマでチーム研究を進めてきた。本研究では、抽象性の高い総合芸術を扱う教育プログラム用のコンテンツ制作「悲しみの島プロジェクト《を行ったが、これは一般のコンサートでも通用する新しい芸術作品を生み出すものとなった。そこで見えてきたのは、他者と積極的に関わろうとすることによって、音楽作品そのものの有り様が多様な側面で影響を受けるという、当たり前のことでありながら、意識して共有されることの少ない事実である。同時に本研究過程では、どのような作品でも、「提示の仕方《が重要であること、また作品提示に携わる「人《に関する課題も改めて顕在化した。
本パネルでは、コミュニケーション力を有する作品創造やコンテンツ形成をめぐり、「作品《「コンテンツ《「方法論《「しくみ《「人材《などについて、作曲家、音響学者、企画者、演奏団体などといったそれぞれの立場で、経験を通して得られた事柄を共有したい。それらを契機としてさらにフロアからの意見も得て、地域と共にあって変容する音楽芸術を、その実態や相互作用的関係性を取り込んで議論する機会となることを目指す。