THE SWEET'S HISTORY

The beginning

ミック・タッカーとブライアン・コノリーが初めて会ったのはポップグループ(訳注:バンド名ではない)の Wainwright's Gentlemen のメンバーとしてであった。このバンドの初代ヴォーカリストは後に Episode Six そして Deep Purple に加入するイアン・ギランであった。彼は 1965 年に脱退する。Wainwright's Geltlemen は 1968 年にレコーディングをすることなく分裂する。

タッカーとコノリーはアンディ・スコットとスティーブ・プリーストを迎え入れ、The Sweet の前身である The Sweet Shop を結成した。1968 年の暮れに Fontana と契約しシングル "Slow Motion" をリリースするがこれは不発に終わった。 そのため Fontana からはもうレコードを出すことができず、次に Parlophone と契約するまでおよそ1年かかった。Parlophone からは7ヶ月で3枚のシングル "Lollipop Man", "All You'll Ever Get From Me", "Get On The Line" を出している。しかしこれらのシングルもコケてしまった。

The "Pop" years

プロデューサーのフィル・ウェインマンは 1970 年にニッキー・チンとマイク・チャップマンという二人のソングライターの協力を得てバンドの立て直しを図った。チンとチャップマンによりバンドは RCA と契約し、ヒットチャート上での成功をできるだけ早く得るため、全くの「一連の即席のキャッチーで、すぐに忘れられるようなバブルガムシングル」(ニック・ローガン)をスタジオミュージシャンの助けを得て録音していった。

最初にヒットしたシングルはチンとチャップマンの手による "Funny Funny" という曲で、これはイギリスのチャートの13位まであがった。The Sweet は彼らのファーストアルバムである Music For Pleasure から 1971 年に出た "Gimme Dat Ding" が示すように完全なバブルガムバンドとして評価された。The Sweet の曲はこのアルバムの片面にのみ収録されていて、それには Parlophone 時代の曲が入っていた。もう片面に収録されていたのは The Pipkins(*1) の曲であった。

次のシングルは "Co-Co" で、これはチャートの2位まで上昇した。これに便乗して Parlophone は "All You'll Ever Get From Me" を再発するがこれはチャートに上ることはなかった。チンとチャップマンは次々とバブルガムヒットを飛ばしていった。この時期にチャートヒットしたシングルは次の通りである。 1972 年:"Poppa Joe", "Little Willie", "Wig Wam Bam"、1973 年:"Blockbuster", "Hell Raiser", "Ballroom Blitz"、1974 年:"Teenage Rampage", "The Six Teens"

1972 年、グラムロックブームが巻き起こり、デビッド・ボウイやゲイリー・グリッターが時の人となった。バブルガムバンドというレッテルを快く思っていなかったバンドはこのムーブメントに乗り、初めて "Top Of The Pops" に出演し、アメリカインディアンの恋の物語のシングル "Wig Wam Bam" を演奏したときのいでたちは羽根やポンチョをまとったものであった。楽器演奏能力が欠けていたにもかかわらず The Sweet は熱狂的な10代のファンたちで大きなコンサートホールをいっぱいにした。

最初の2枚のアルバム "Funny How Sweet CoCo Can Be" と "Sweet's Biggest Hits" は単なるチャートヒットしたシングルのコンピレーションであった。続くアルバム "Sweet Funny Adams" と "Desolation Boulevard" によってバンドは3分間ポップの枠に収まらない可能性を示そうとした。しかしそれらのミュージシャンとしての「まじめな」試みは失敗に終わった。"Desolation Boulevard" はチャート上ではまったく振るわなかった。The Sweet は子供向けのグループというイメージから脱却し、単なるチンとチャップマンの操り人形ではないことをなんとかして証明しようとした。そしてハードロックグループとなるためにチンとチャップマンと袂を分かつこととなった。

The "Hard Rock" years

先のアルバム "Desolation Boulevard" の中の自作の曲 "Fox On The Run" は彼らが自力でやって行けることを証明した。この曲はチャート2位に達し、アメリカのマーケットにおいてもチャートに食い込んだ。シンガーのブライアン・コノリーが重傷を負いイギリスでのツアーが中止となったのを機に、バンドは米英どちらのマーケットも睨んだ活動に集中するようになった。シングル "Action", "Lies In Your Eyes" 及びアルバム "Give Us A Wink" はイギリスではそれほど売れなかった。そしてその後にいくつかの不発シングルが続き、RCA を離れることとなった。1979 年のはじめにバンドは Polydor からのシングル "Love Is Like A Oxygene" の9位に達するヒットでシーンに戻ってくるがアルバム "Level Headed" は売れなかった。

1979 年の中頃ブライアン・コノリーはバンドを離れる。アンディ・スコットがヴォーカルを担当し、キーボーディストのゲイリー・モバリーを迎えた新しいラインナップでバンドは存続した。それから4年の間に The Sweet は3枚のハードロック・アルバムをリリースした。そして 1982 年にバンドは2つに分裂する。

Ulf Marquardt



訳注

この文は Repertoire Records から出ている The Sweet First Recordings 1968-1971 のライナーノートを(いいかげんに)訳したものです。誤訳がかなり多いと思います。また直訳風で日本語としてもおかしいです。

あと、ほかの資料では The Sweet Shop 時代のギタリストはフランク・トーピーで、彼がアンディ・スコットと交代する時点でバンド名を The Sweet と変えたとするものがあります。どうもそっち資料の方が正しい気がしますがあえて原文通り訳しておきました。

(*1) この The Pipkins というグループの "Gimme Dat Ding" という曲が "Bubblegum Classics - THE VOICE OF Tony Burrows" というコンピレーションに収録されていました。リードヴォーカルがトニー・バロウズとロジャー・グリーナウェイで、アメリカのポップチャートで9位まで上がったそうです


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