1928年4月にアメリカ旅行を終えて帰国したラヴェルは、体調の不良に悩みながらも、
同年の夏から秋口にかけて、彼の代表作のひとつとなるバレエ曲ボレロ Boléro を作曲し、
次いでイギリスへ旅行、オックスフォード大学で名誉音楽博士号を授与されるなど、忙しい
日々を送っていた。翌29年に入ると再びイギリスへと楽旅し、次いでスイス、春には
オーストリアを訪れることとなる。オーストリア訪問の目的は自らのオペラ、子供と魔法
L'Enfant et les Sortiléges の上演準備にあったのだが、ヴィーンでラヴェルは
パウル・ヴィトゲンシュタインと会い、左手のピアノのための協奏曲の作曲を持ちかけられる
こととなった(話自体は以前からピアニストのマネージャーを介してあった。)。ピアニストとの
午後の長い会話の後、ラヴェルは作曲を快諾する。Je me joue de difficulté.( I make a
game of difficulty. )――ラヴェルはこのときヴィトゲンシュタインに対してこう述べたという。
({Kim-Park} S.152,
{Wechsberg} S.27-28)
しかしラヴェルには自分自身がソリストとして弾くピアノ協奏曲の作曲の計画も、そのしばらく
前からあった。初めは、若い頃に手を付けて後そのままになっていたあのバスク風の協奏曲を
完成させようと考えていたらしいが、しかしアメリカへの楽旅などによりそれも再び放棄され、
なかなか作曲の着手に至らなかった。あるいは、アメリカで接したジャズの刺激を消化しつつ、
ゆっくりかつ慎重に構想を練っていたのかもしれない(アイデアを温めるのに長い時間を要する
のは、彼の通例だった。Siehe {Long}
S.112-113)。29年の夏から秋にかけ、ラヴェルはバスク地方で長い休暇を過ごす。そして年末、
ラヴェルは終に作曲を開始する――それは、自ら弾くための協奏曲とヴィトゲンシュタインのための
協奏曲の2曲の作曲の同時進行という、彼自身凡そこれまで経験したことのなかった試みと
なった。
左手のピアノのための作品の作曲は、実はラヴェルにとって初めてのことではなかった
(1918年作曲の5手2台のピアノのための作品、口絵 Frontispice 。)。しかし事実上――
また当然ながら――本格的な左手のピアノ曲の作曲は彼にとってこれが初めてだったと言える。
もちろん他の作曲家による同種の作品の前例もまだこの時点ではそう多くはなかったわけだが、
その中でもラヴェルが参考にしたのは、アルカン、チェルニー、ゴドフスキ、サン=サーンス、
スクリャービンの作品だったと言われる
(Siehe {Edel} S.111)。
ただし、他の作曲家からの影響がそうあからさまに自作に現われることのないのがラヴェルの
常でもあった。実際にこれらの作品の研究がヴィトゲンシュタインのための協奏曲にどのように
作用したのかははっきりしないが、恐らくラヴェルはこれら先行作品を研究することにより
技術的な問題の所在を確認したうえで、あくまでも独自の観点から協奏曲の構成や性格を決定
したのであろう。彼自身の「両手の」協奏曲との対比による次の発言は、わりによく
知られている。
「 二曲の協奏曲を同時に構想し現実化することは興味深い体験でした。第一の曲は、
わたしが自分で演奏しようと思っているものなのですが、厳密な意味での協奏曲で、モーツァルトと
サン=サーンスの精神で書いたものです。わたしの信じるに、協奏曲というものは、必ずしも深遠で
あったり劇的な効果を狙ったりすることなく、快活で輝かしいものでありうるものです。何人かの
偉大なクラシックの作曲家たちは、ピアノのために書く write for piano というのとはほど遠く、
むしろピアノに逆らって書いた write against piano のだ、と言われてきました。
そしてわたしの思うに、そうした批判は全くもってもっともなものなのです。
最初、わたしは[ト長調の協奏曲の方を]「ディヴェルティメント( Divertissement,
嬉遊曲)」と呼ぼうと思っていましたが、しかし後になってからそれは必要ないと考えました。
何しろ協奏曲 concerto という呼称そのものがこの作品の含む音楽の種類を適切に記述している
わけですから。ある意味ではわたしの[ト長調の]協奏曲はわたしのヴァイオリン・ソナタとは
似ていないでもありません。この協奏曲はジャズから借りてこられたある種の作用を用いては
いますが、しかしそれはあくまでも適当な程度にです。
左手のみのための協奏曲はそれとは全く違っていて、こちらはジャズの影響を多く持つ単一楽章作品
であり、その書法はそれほど単純ではありません。この種の作品では、二手のソロ・パートと対照
してピアノの響きの質感に厚みが不足しているとの印象を与えるのを避けることが肝心です。
ですからわたしは伝統的な協奏曲の持つ堂々たる印象を与えるスタイルの方により釣り合うような
スタイルを用いたわけです。
こうしたフィーリングがしみわたった導入部の後で、即興のごときエピソードが来るのですが、
それにジャズの部分が続きます。このジャズのエピソードが実際には冒頭部分の主題から
できあがっていることは、後になってから初めてわかります。」(ロンドンでのインタヴューにおける
発言。1931年7月16日付け『デイリー・テレグラフ』誌掲載。Notiz von CDX2 5507 VLADO
PERLEMUTER PLAYS RAVEL ( VOX ), 1992, S.9,
{Ongakunotomo b} S.44, 49)
ラヴェルがヴィトゲンシュタインのための協奏曲を両手のための協奏曲とは対照的なものと見なして
いたのは明白である。しかしこの発言からはその対照性が本来的なものであったということを直接に
読み取ることは実はできない――要するにたとえば、前者の重厚さは後者の軽やかさの対として
与えられている、と言われているのではなくて、むしろ左手のみという演奏上の制約に起因している
というのであるから。なるほど響きが薄くならないようピアノの響きに特にボリュームを盛ろうとする
ならば、曲想自体をそのような意図に見合った重厚なものとするのが適切なのかもしれない。しかし
それで事柄の理解は十分であるか。ここでわれわれがさらにひとつ踏み込んだ理解を求めるとする
ならば、そのひとつのポイントは作曲家が、両手のための協奏曲がまさにディヴェルティメントであり、
協奏曲である、と言うその意味にやはりあるように思われる。
「協奏曲 Konzert, Concerto 」という語は、元々はラテン語の certare (争う、競争する)に由来する
と言われ、そこから、独奏部と伴奏部が等しい立場で(一方が他方に従属することなく)一種の対立に
おいて音楽を展開する形態を指す見方が出てくる
(Siehe {Koizumi} S.114)。競争、と言うと
いささかニュアンスとしては強すぎるきらいがあるが、両手のための協奏曲はまさにピアノを中心と
しつつも各楽器の響きが比較的自由にぶつかり交錯し、色彩豊かで華やかな総体的調和を実現する作品で
あると言うことができる(その意味では、ヴァイオリン・ソナタと両手の協奏曲は確かに似ているで
あろう――それがラヴェルの本来の意味であるかはともかくも。)。そしてこうした性格こそ、
左手のための協奏曲にまさに備わっていないもの、乃至は左手のための協奏曲が積極的な関心を抱いて
いないものであると言うことができるであろう。
左手のための協奏曲は、協奏曲の本来的な意味を上に述べたようなものととるならば、実はそれほど
「協奏」しているわけではない。ピアノの見せ場である開始部の入りや終結部のカデンツァはオケのほぼ
沈黙する中で演奏されるわけであるし(後述するようにここにヴィトゲンシュタインの不満の原因が
あると見ることもできるであろう。)、なるほど中間部の「ジャズ」においてならば両手の協奏曲に
聴かれるような自由な響きのやりとりが見出されるのであろうが、むしろ音楽全体は湧き立つような
発散的性格よりもむしろドイツ・ロマン主義の面影を感じさせるような主観的収束的性格を示している
のである。
このように考えるなら、ラヴェルの「何人かの偉大なクラシックの作曲家たち」への批判
(ブラームスが念頭にあったと言われている。
{Ongakunotomo b} S.49,
{Orenstein} S.140)は、必ずしもその
スタイルに対する批判ではなかったのではないかとも思えてくる。上で引用した発言で問題視されて
いるのは、ピアノに見合った書法がなされているかどうかという点である。深刻な曲想の表現を優先する
あまりにピアノがその犠牲になるというような行き方への批判なのである。とすると、ラヴェルが
左手のための協奏曲において暗く劇的な展開を盛り込んだのは、ロマン主義と同じ土俵に敢えて乗り、
なおかつロマン主義を彼なりの仕方で出し抜くという挑戦的な意図もあったのではないだろうか。まさに
ラヴェルは本来の意味での古典的な協奏曲のスタイルとロマン主義的な協奏曲のスタイルを同時に
征服しようとしたのではないだろうか(ここにわれわれはラヴェルの「代行」的意識を見出すことが
できるのかもしれない。)。左手のための協奏曲と両手のための協奏曲との間に本質的な対照性が
想定されるとするならば、その意味はまさにこうしたところにあるように思われるのである。
(とはいえわれわれは、主観的収束的性格、と評しはしたものの、同時にこの作品が目くるめく多彩な
表現を使用していることも強調しておかなければならない。オレンシュタインが伝えているところでは、
ラヴェルはこの曲のオケ・パートのピアノ譜に「混じり合ったミューズたち musae mixtatiae 」と
書き込み、「異なる様式を意図的に並置することを示唆して」いたということである
({Orenstein} S.248, 33)。作品冒頭の主題の
提示とピアノの入りに見られる伝統的な協奏的ソナタ形式を思わせる展開、思わず息を呑むほどに
磨き上げられた美しさを持つ第三主題の提示箇所、そしてそこから突如として始まる「ジャズ」の
運動的な響きと、そこに絶妙な仕方で忍び入り回帰する物憂げな主題、……これだけの多様な表現を
これだけ巧みに手際よくまとめ上げる作曲家の手腕は、ただただ見事という他はない。そして作品全体に
漲る意思の力の強さが、なおいっそうわれわれの驚嘆を誘うのである。)
ラヴェルは左手のための協奏曲の作曲作業におよそ9ヶ月を要した。これはラヴェルにとっては
わりに短い方ではあったが(両手のための協奏曲よりも1年以上完成が早かった。)、それでも当初の
予定よりはいくぶん遅れたらしく、途中でヴィトゲンシュタインから催促も受けている
({Stuckenschmidt} S.302-303
ちなみにヴェクスベルクは作曲に没頭していたこの時期にラヴェルが一日4時間しか睡眠をとらなかった
ことを伝えているが
({Wechsberg} S.28)、しかしラヴェルは
第一次世界大戦終結後あたりから不眠症に悩んでいたので
({Stuckenschmidt} S.238)、4時間と
いうこの数字はたいして特筆すべきものでもなかったのかもしれない。)。
1930年8月、ラヴェルは完成した作品を披露するため、ヴィトゲンシュタインをパリから50キロ
離れた村モンフォール・ラモリにある自宅に招く。作曲家はヴィトゲンシュタインを前にこの新作を
ピアノで弾いてみせた。そのときのことをヴィトゲンシュタインは30年近く後にこう回想している。
「 ラヴェルは自らの仕事部屋へとわたしを招き、新作の協奏曲をわたしのために弾きました。彼は
ソロ・パートをもちろん両手で弾き、そしてまたオーケストラ・スコアも弾いたのです。彼は卓越した
ピアニストであるというわけではなく、わたしはこの作品に圧倒されもしませんでした。難しい作品に
慣れるのにしばらくの時間を要するのは、わたしにはいつものことなのです。ラヴェルはがっかりしたと
思いますし、それにわたしも残念ではあったのですが、しかしわたしはふりをすることをかつて学んだ
ことがありませんでした。だいぶ後になって、この協奏曲を数ヶ月研究してからようやく、わたしは
この曲に魅せられ、この曲がどれだけ偉大な作品であるのかを理解したのです。」
({Wechsberg} S.28)
難しい作品――それがヴィトゲンシュタインの印象だった。さてそれはいかなる難しさだったのか。
この協奏曲が技巧的に極めて困難なものを含んでいたことは言うまでもない。あるいはそれは作曲家の
技巧ではとても太刀打ちできないほどのものであったのかもわからないが、しかしラヴェルがこの曲を
両手で弾いたということに関して言うなら、それは技巧的な難しさゆえというよりはむしろ――
マルグリット・ロンの場合と同様――彼自身の手がこの曲を弾きこなすには小さすぎたがゆえであったの
だろうと思われる(Siehe
{Stuckenschmidt} S.54,
{Long} S.87)。そしてそのことはもちろん
ヴィトゲンシュタインにもよくわかっていたであろう。
ヴィトゲンシュタインにとってこの曲が技巧的に難しすぎたという評もよく見られる(z.B.
{Léon} S.131,
{Oka} S.10 また後述する有名なロンの証言にも
そのようなニュアンスが感じられなくはない。)。しかしそれよりも、われわれはそれが「慣れるのに
しばらくの時間を要する」類の難しさだったことに注意すべきであろう。Kim-Park はそれをピアニスト
自身のモダニズムへの違和感――ジャズ風の響きへの違和感と解釈しており
({Kim-Park} S.153)、おそらくそれが最も
無難な理解なのではないかと思われる(あるいはヴィトゲンシュタインには、そのすぐ後の10月に
初演することとなるコルンゴルトの組曲作品23の、あのヴィーン風のところがある親しみやすい
雰囲気と比較して見てしまうところもあったのかもしれない。)。
とにかくピアニストは作品を受け取り、じっくり研究してみることにした――しかしもちろん、
事はそう単純なものではなかった。作品への濃厚な介入を躊躇しないヴィトゲンシュタインのごとき
音楽家にとっては、作品の「研究」は単なる「解釈」にとどまらないからである(これについては、
近年利用可能となったヴィトゲンシュタインの遺品の綿密な調査に基づく Georg A.Predota の研究
({Predota})を参照しなければならない。)。
結局初演は当初の予定から遅れ、作品の完成から1年以上を経た1932年1月5日、ロベルト・
ヘーガー指揮のヴィーン交響楽団の演奏会にて――ピアニストにより手を加えられ、すっかり本来
からかけ離れたかたちで――ようやく行われることとなる(Siehe
{Predota} S.83-85)。
(初演日を1931年11月27日とする資料も少なからず存在するが(z.B.
{Flindell 1969} S.127,
{Léon} S.174,
{Oka} S.10,
{Ongakunotomo b} S.43,
{Ravel})、ここでは
{Stuckenschmidt} S.lxxiv,
{Orenstein}(S.33)、
{Kim-Park}(S.154, Anm.139)、
{Predota}(S.84-85)などに従うことに
する。ちなみに Kim-Park によると、初演は当初ベルリンにてエーリヒ・クライバーを指揮に迎えて
行われる予定であったらしい(クライバーはラヴェルお気に入りの指揮者だった。
Siehe {Rosenthal} S.55-56)。)
ここでしばし、ヴィトゲンシュタインがこの作品について実際のところどう思っていたのかについて
考えてみたい――まず、彼の趣味が極めて保守的なものだったのは確かである。ヴィーンの芸術的
伝統に深く関与するところのあった家に生まれつき、19世紀ヴィーンの「一流」に常に触れながら
成長してきた彼にとって、確かに「ジャズ」は異質である以外の何物でもなかったであろう。しかし
結局、彼はこの作品を「偉大な作品」と認めたのである。そのことと彼がこの作品を改変したこととは
一応事柄としては区別しなければならないのであろう。一般に彼が採りうる道はまず大きくはふたつ
あった。演奏するか、しないか、である。それなりの価値が(彼にとって)認められない作品は、
そもそもプログラムに載せられることはなかった(ヒンデミットの協奏曲の場合のように)。そして
ひとたび価値が認められたとしても、彼においてはそれを作曲家が楽譜に記したままに演奏することは
まずなかったと言ってよい――ラヴェルの協奏曲も例外ではなかったということである。
とはいえもちろん、そもそも音楽の価値と音楽の内容とをどの程度区別できるのかということは
必ずしも明らかなことではないのであるが、いずれにせよとにかくヴィトゲンシュタインは
実際にそれらを彼なりの仕方で区別したのである。まず何より協奏曲として見た場合、
ヴィトゲンシュタインにはラヴェルの協奏曲に対して大きな不満があった。すなわちオケとピアノの
真正面からの対峙の少なさである。ヴィトゲンシュタインは率直にこう述べている。「もしも
オケなしで演奏したかったのなら、わたしはオケとの協奏曲を注文したりはしなかったでしょう!」
({Kim-Park} S.154)
またヴィトゲンシュタインが左手のための協奏曲に加えた具体的な改変箇所については、彼の
使った楽譜を調査した Predota が挙げているものを紹介すると、だいたい次のようなものがあった
({Predota} S.81-92)。
@ 中間部の第2主題の回帰部分
打楽器パートをティンパニ以外削除({Predota}
は楽譜の練習番号37−38の箇所の写真を掲載している。Siehe S.83-84)。
A 終結部のカデンツァ
ピアノの演奏音域を鍵盤上限にまで拡張。原曲では主旋律を高音、伴奏音形を低音に配置している
箇所で、主旋律を高音と低音の伴奏音形で挟むかたちに改変している。「二本の腕を要するがごとき
印象を与えようとする悪魔的な技巧を、ラヴェルは既にカデンツァに配していた。
ヴィトゲンシュタインのヴァージョンでは、今や三本の腕を要するがごとき印象をもたらす配分を
演奏者が与えることにより、この幻惑はいっそう強められている。」
({Predota} S.86 掲載されている写真は楽譜の
練習番号51のあたり。)
B 開始部のピアノの導入部分(第1カデンツァ)とその先
({Predota} S.86-87 ただし詳細な言及は
ない。)
C 終結部冒頭の第1主題の回帰箇所
オケ・パートとピアノ・パートの両方をピアノのみで演奏するようにし、オケ・パートを12小節
削除({Predota} S.87-88 掲載されている
写真は楽譜の練習番号46−52の箇所。)。
われわれは、これらの改変箇所から、ヴィトゲンシュタイン自身のそもそもの意識の置き所をも
ある程度伺うことができるのかもしれない。たとえば Predota は、カデンツァの改変と
バッハ/ブラームスのシャコンヌのヴィトゲンシュタインによる再編曲との類似を指摘し、「彼は
第一に鍵盤の範囲を拡張することに執心しているように見える」と述べている
({Predota} S.85)。左手は当然鍵盤の右端に
近づけば近づくほどキーを叩きにくくなるわけで(そのためいすに座る位置からして工夫が必要と
なると言われる。Siehe {Patterson} S.7-8)、
逆にヴィトゲンシュタインとしてはそうした一種フィジカルな条件に屈したかのような印象を
与えるのに我慢ならなかったのではないか。そしてこうした対応はヴィトゲンシュタインにとっては
通例だったのである(彼の編曲による「愛の死」(ヴァーグナー)に見られる際立ったレンジの
広さもそのよい例であろう。)。
だが何よりもヴィトゲンシュタインの傾向を表しているのは終結部冒頭の改変ではなかったか。この
どれだけ贔屓目に見ても度を過ぎているとしか思えない改変の意図は、一体どのあたりにあったのか。
実はこれには既に前例があった――R.シュトラウスの家庭交響曲のパレルゴン作品73である。この
作品のチャーミングな第3主題の提示箇所は元来オケのみで演奏されることになっていたのだが、
ヴィトゲンシュタインはこの箇所をまずはオケではなくピアノのみで演奏するよう改変していた
のである(そのことは現存する録音から確認できる)。家庭交響曲のパレルゴン作品73の白眉とも
言えるこの箇所を何としてもオケから奪い取りたかった気分は、なるほど理解できなくもない。しかし
それによって果たしてこの音楽の「本質」が損なわれはしなかったかは大きな問題であろう。
ラヴェルの協奏曲のこの箇所の改変も、全曲の盛り上がりの最高潮でピアノを際立たせたいという
気持ちからだったのではないかと推測されるのである。だが、この箇所は確かに最高潮であるとはいえ、
しかしピアノに与えられた役割はあくまで伴奏的なものにほぼ限定されており、ピアノに
とってそれほど演奏効果の期待できる箇所でないのもまた事実である(録音でもこの箇所でピアノが
はっきりと存在感をもって聴き取れる場合はそう多くはない。)。それに、ピアノが聴こえるように
するためオケの響きを薄くするという処理も、最高潮であるだけにやりにくいため、ここでピアノの
ために思い切った采配を振るおうとするなら、目先を変えていっそのことピアノだけにしてしまおうと
考えるのもひとつの道ではあったのかもしれない――しかしこのような処理はオケとの「協奏」に
対する彼自身の本来の意欲とどう両立するのか。そして何より、それは誰が見てもやり過ぎでは
ないか。
しかしとにかく1932年1月5日のヴィーンでの初演は、猛烈に改変を加えられた版による演奏
ではあったにせよ、大成功に終わった。そしてその3日後には早くもベルリン初演が行われたのだが
({Kim-Park} S.xii-xiii, iv)、同月の末、
今となっては半ば伝説的ともなっているある事件が起こる。マルグリット・ロンと共にヴィーンを
訪れたラヴェルが、ヴィトゲンシュタインの私邸で彼によるこの曲の演奏を耳にすることと
なったのである。演奏は2台ピアノ版、伴奏を弾いたのはフランツ・シュミットの弟子のヴァルター・
ブリヒトだった({Kim-Park} S.154 ちなみに
ブリヒトもヴィトゲンシュタインのためにいくつかの作品を書いている。)。ロンはそのときの様子を
次のように伝えている。
「 私たちは夜会とその後の盛大な晩餐会に招かれていました。《四重奏曲》が演奏され、招待主が
《協奏曲》を第二ピアノの伴奏付きで弾くことになりました。ようやくラヴェルが自分の作品を聴く
ことができるのです。私はちょっと心配でした。というのは食事のとき、私はヴィットゲンシュタインの
右隣にすわっていて、彼から或ることを打ち明けられていたのでした。それは、作品の中でいくつかの
“編曲”をしなければならなかったというのです。私は心の中で彼を許しながらも、というのは彼には
肉体的欠陥があるのだからこうした自由もやむをえないと思っていたので、彼に前もってラヴェルに
そのことを言っておくよう勧めましたが、彼は何も言いませんでした。演奏の間、私は楽譜で、まだ
知らないこの《協奏曲》を追っていましたが、ラヴェルの顔がこの演奏者の勝手な演奏にだんだん
曇ってゆくのが感じられました。
演奏が終わるやいなや、クローゼル大使と一緒に私は、何か起こるのを避けるため“気をそらそう”
としてみました。ところがああ、なんということでしょう! ラヴェルはゆっくりと
ヴィットゲンシュタインに歩み寄りこう言いました。『違うんだよ、全然そうじゃないんだ!』。すると
相手は弁解して、『私は老練なピアニストですけれど、でもこれでは弾けませんよ』。それはまさに
言ってはならないことでした。『私は老練なオーケストラ作曲家だ。それは弾けます!』。ラヴェルは
言い返しました。その気まずいことといったら! 私は思い出すのですが、ラヴェルはあまりに
苛立った状態だったので、大使館からの車を送り返すと、私たちは歩いて帰ったのです。それは、
厳しい寒さが彼の悔しさを和らげてくれることをあてにしてのことでした。」
({Long} S.88-89)
ロンはさらに、二人がその後手紙で厳しいやりとりを交わしたことを伝えている。
ヴィトゲンシュタインはラヴェルに「演奏家というものは奴隷であってはならないのです」と言い、
それに対してラヴェルは「演奏家は奴隷なのです」とやり返したというのである。この手紙のやり取り
についてはその真実性に疑いを抱いている論者もあるが(Siehe
{Fukuda} S.77)、とにかくロンによる
上記のような報告がおおむね事実であることは確かであろう。ラヴェルはこのヴィーン訪問の1ヶ月
あまり後、ヴィトゲンシュタインに正式契約書を送付する。その内容は、この作品を楽譜に忠実に
演奏するようピアニストに義務付けるものだった。それに対してヴィトゲンシュタインは断固とした
返事を書き送っている。
「 今後あなたの作品を厳密に書かれたとおりに演奏することを誓約するということについては、
完全に問題外です。何しろ自尊心ある芸術家がそのような条件を受け入れることはありえないのですから。
ピアニストは皆、われわれが演奏するような協奏曲において、程度の差こそあれ変更を加えています。
……[中略]……あなたは憤然と、かつ皮肉を込めてこう仰いましたね。あなたは「スポットライトの
下に出」たがっているのだ、と。しかし、親愛なる先生、あなたは完璧に説明してくださいました。
それこそまさにわたしが他ならぬあなたに協奏曲を書くことをお願いした格別の理由だったのです。
確かに、わたしはスポットライトの下に出ることを望んでいるのです。それ以外のいかなる理由を
わたしは持ちえたでしょう? それゆえわたしにはこの目的を達するために必要な変更を要求する権利が
あるのです。…[中略]…あなたにお手紙したとおり、わたしがこだわっているのは前にあなたに
提案した変更の内のいくつかだけなのであって、その全てではありません。わたしは決してあなたの
作品の本質を変えたりはしませんでした。わたしはただ楽器の編成を変更しただけなのです。不可能な
条件を受け入れるわけにはまいりませんので、当分のところ、わたしはパリでの演奏をお断り
いたしました。」(以上の契約に関するやりとりは、
{Predota} S.90-91 から引用(ただし、アービー・
オレンシュタインの著作からの再引用(Siehe ebd. S.100, Anm.35)))
このピアニストの主張の正当性についての検討は措くことにする。驚くべきなのは、ここに伺える
ような一種根本的な対立を二人が結局のところ乗り越え、世界初演から一年余り後のパリでの共演にまで
こぎつけることができたということである。二人がいかにして和解することができたのか、その詳細は
よくわからない。あるいはそれは単なる妥協であったのかもしれないのだが、しかしラヴェルが――
芸術に関しては手を抜くことを知らなかったあのラヴェルが、仮初の妥協で満足しえたとも思われない
のである(Siehe {Fukuda} S.77)。
二人を比べた場合、より強い立場にあったのはあるいはヴィトゲンシュタインの方だったのかも
しれない。何しろ彼は作曲の依頼主として高額の作曲料(6000ドル)を支払い、1936年までの
独占演奏権を持っていたのだから
({Kim-Park} S.153)。その一方ラヴェルは
というと、あの伝説的なファッションへのこだわりなどから往々に想像されるのとは逆に、実は決して
裕福な方ではなかったから
(Siehe {Rosenthal} S.10)、
ヴィトゲンシュタインからの報酬を完全に度外視して話を進めるのはいささか難しかったのではないか。
それに、別の演奏家を立ててフランス初演を実現させることが法的にできない以上、自ら心血を注いで
書き上げた作品を世に公にするという作曲家としての欲求を満たすためには、ヴィトゲンシュタインに
演奏させる他に選択肢がなかったのは確かであろう。
とはいえ上の手紙の記述からわかるように、少なくともピアニストの側には歩み寄りの用意があったし、
ラヴェルの考えを承認するつもりはなかったにしても、かといってラヴェルの承認のないまま自分の
ヴァージョンによる演奏をパリで強行するつもりもなかった。恐らくは、ラヴェル自身もピアニストの
意見を徒に全否定して話をこじれさせるのは避けようと考えて歩み寄り、最終的には双方ある程度
納得ずくのわりきった――後から文句をつけっこなしの――合意を取り結ぶことができたのであろうと
思われる。Predota は、このパリでのフランス初演について報じたニュース映画に
ヴィトゲンシュタインによる改変されたカデンツァの演奏が記録されていること、その一方で、
1937年のアムステルダム・コンセルトヘボウの演奏会におけるヴィトゲンシュタインの演奏の
録音で、オケ・パートがラヴェルの作曲したとおりに演奏されていることを指摘している
({Predota} S.91)。
1933年1月17日、パリでのオール・ラヴェル・プログラムの演奏会において、この二人により
終に左手のための協奏曲のフランス初演が行われた(協奏曲以外のプログラムはロジェ・
デゾルミエールが振った。)。演奏会は大成功に終わり、批評はラヴェルの普段見せることのない
意外な一面がこの作品において見事に現われていることを指摘し、そしてまたピアニストの卓越した
演奏ぶりについて書きたてた
({Orenstein} S.135)。聴衆が深い感銘を受けた
様子を、ある批評家は次のように報じている。
「 ヴィトゲンシュタインがカデンツァを演奏し始めると、驚愕が聴衆の間を走った。彼の演奏には
権威と感性があった。…[中略]…それはひとつの奇蹟だった――彼の左手は二本の手になり、一方は
歌い、他方は伴奏したのである。…[中略]…彼の手はわれわれの心に触れたのだ。」
( Le Menestrel 誌における批評。
{Wechsberg} S.28)
パリでの大成功を受けて、ラヴェルとヴィトゲンシュタインは4月にモンテ・カルロでも共演
しようと計画したが、しかしラヴェルの体調がそれを許さなかった。既に第一次世界大戦後から
ラヴェルは健康を害していたが、前年1932年の10月に遭った交通事故以後、徐々に体調は悪化の
度を増し、さらに脳機能にも著しい障害を来たすこととなり、よく知られた悲劇的な晩年を迎えることと
なる――この時点でのラヴェルはまさにその一歩手前にいたと言ってよい。結局モンテ・カルロでは
ポール・パレーが指揮台に立ち、ラヴェルは演奏会場に臨席するにとどまった
({Orenstein} S.135)。そして、ラヴェルと
ヴィトゲンシュタインとの共演は、パリでの演奏会以後、二度と実現することはなかったのである。
1934年の秋、ヴィトゲンシュタインは楽旅のため初めてアメリカ大陸へと向かった。この楽旅の
目玉は何と言ってもラヴェルの協奏曲で、ヴィトゲンシュタインは11月4日にモントリオールで、
11月9日と10日にはボストンで、11月17日にはニュー・ヨークのカーネギー・ホールで
この曲を演奏し、大変な成功を収めた
({Kim-Park} S.v,156)。以後
ヴィトゲンシュタインはこの作品を行く先々で演奏し、聴衆の喝采を浴びることとなる。
ただし当のヴィトゲンシュタインは、この曲に相当の愛着を持っていたにしても、自らがこの
協奏曲に最高度の評価を与えていないことも公言してはばからなかった(Siehe
{Flindell 1969} S.123)。)。
大作曲家の傑作に対するこうした態度があるいは世人には不遜なものに見えるところがあったのか、
既にヴィトゲンシュタインの生前から、彼の演奏技術を疑い、彼がラヴェルの協奏曲を技巧的に平易に
なるように改変したと評する向きがあったようである。かくしてヴィトゲンシュタイン自身も
次のように抗弁せざるを得なかった。
「 わたしはこの協奏曲が難しすぎると文句をつけたことなどありませんでした(実際、わたしの
ために書かれた協奏曲全てに関して言うと、ラヴェルのそれはその中でも最も難しくないものなの
です。)。
わたしが変更を提案したのは本当ですが、でもそれは簡単にするためではありませんでした。
最後のカデンツァのピアノの入りの前のところです。しかしラヴェルは拒否しましたから、わたしは
彼に従わねばならず、また実際従ったのです!
ラヴェルの指揮によりこの曲をパリで最初に演奏したのはわたしでした。ラヴェルは
わたしの解釈に対してこれっぽっちの反対もしませんでした。仮に彼がわたしの解釈に満足して
いなかったならば、彼は確かに反対したことでしょう。……」
(1948年8月の手紙。
{Flindell 1969} S.123)
フランス初演を終えた1933年の夏、ラヴェルに深刻な運動機能の混乱の兆候が現われる。やがて
言語機能の障害も出現、症状は一進一退を繰り返し、ラヴェルは思うに任せぬ健康状態のまま仕事の
全くできない日々を送ることとなった(医師は彼の状態を次のように記録している。「不眠、記憶の
混濁、疲労、集中力の欠如、不安状態、正字法の誤り、書き方のわからなくなった文字がある。彼は
頑固である。不安が不快感の大きな要因になっている。……」
({Stuckenschmidt} S.307))。
幸いラヴェルには献身的な友人が多くいたが、しかし誰の目から見ても、彼が内心深く苦しみ、
孤独感を強めているのは明らかだった。弟子のロザンタールは彼が最期まで精神の明晰さを
失わなかったと述べる一方、ときにほとんど錯乱状態に陥ることもあった様子を伝えている
({Rosenthal} S.218-229)。
1937年、左手のための協奏曲に対するヴィトゲンシュタインの独占演奏権が切れたことにより、
フランスのピアニストによるこの曲の演奏がようやく可能となった。マルグリット・ロンの弟子で
ラヴェルお気に入りの若手ピアニスト、ジャック・ファブリエが起用されることとなり、演奏会に
向けてはラヴェル自らがピアニストの指導にあたった。シャルル・ミュンシュ指揮による
ミュンヘンでの演奏会は大成功に終わり
({Orenstein} S.138,
{Long} S.89)、以後、この作品は速やかに
コンサートのスタンダード・ナンバーにその名を連ねることとなる。同年12月、ラヴェルは
脳手術後の昏睡の中で死去。享年62歳。改変されていないかたちでの左手ための協奏曲の演奏が
生前に実現したことは、ラヴェル晩年の悲劇の中でもわずかばかりの幸いだったと言えるのかも
しれない。
**未完**
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