SLH - PW_Werke_Ravel
        
        
    
    


Maurice Joseph Ravel  (1875-1937)

モーリス・ジョゼフ・ラヴェル
1875年生(フランス・シブール)−1937年没(フランス・パリ)


 ラヴェルは若いときにピアノ協奏曲を書こうとしたことが一度あった。それは彼が生涯 惹かれ続けたバスク地方の旋律に題材を採った作品であったのだが、結局はスケッチの状態で 残された(単一楽章のピアノ協奏曲「サスピアク・バト Zazpiak Bat 」。 1906年頃?〜?。)。それから後、作曲家としての最晩年に、彼はピアノ協奏曲を一気に 2曲完成させる。オーケストラと独奏楽器のための協奏的作品として彼が完成させ得た作品は、 ヴァイオリンとピアノのための演奏会用狂詩曲ツィガーヌ Tzigane の管弦楽編曲版 (1924年初演)を除けば、この2曲が全てである。

 この2曲の作曲に先立つ1927年の末、ラヴェルはアメリカへの楽旅に向かっている。およそ 5ヶ月にわたるこの旅の中で、ラヴェルは指揮をし、ピアノを弾き、各地で大変な喝采を浴びた。 おそらく彼の生涯の中でも際立った成功を収めたイベントだったと言ってよいであろう。既に ヨーロッパにおいては当代随一の作曲家として知られてはいたが(但しロザンタール曰く 「フランスでは、ラヴェルの生前には、ルーセルの方が評価されていた」。 {Rosenthal} S.21)、彼の名前が 真に世界的となるきっかけになったのは、このアメリカ旅行だった。

 このアメリカ旅行の終わり頃に、ラヴェルはヒューストンでレクチャー・コンサートを 行っている。1928年4月6日と7日の二日間にわたるこのコンサートで、ラヴェルは 自作のピアノ曲を弾き、声楽曲とヴァイオリン曲を伴奏しているが、二日目の演奏に先立って、 「現代音楽について」と題して講演が行われた。その原稿がマルグリット・ロンの回想録に 収録されており({Long} S.97-120)、 彼の音楽論を伺い知る上でこの上ない貴重な資料となっているのだが、ラヴェルはそこで、 音楽家の創作の源泉、「芸術家の感受性と個人的反応の限りなく繊細な根っ子」について 次のように述べている。

 「 このような根っ子というか、とらえ難い繊細な源泉には、二重の特徴があることに、 しばしば気付きます。その一つは、どちらかといえば広い意味で民族的意識とでも言えるものです。 もう一つは個人的意識であり、自己中心的な発展過程の産物であるように思われます。この二つ は、分析だけでなく分類にも挑戦します。けれども、感受性に富んだ芸術家なら、真の芸術作品 の創造に当って、この両意識が及ぼす作用の値打を感知しているものです。……」 ({Long} S.99-100)

 芸術的価値というものについては、ラヴェルは本質的に不可知論者だった。「個人的次元で 到達された完成度を判定するため、きちんとした法則を示すことなんかできない」のであって、 「音楽において同国人を含め同時代人につき相対的な評価を精密に下そうとすれば、困難さが やはりつきまと」うのだから、「いやしくも芸術作品に対して正確な判断を下そうとするどんな 試み」も、「気狂い沙汰としか思えない」というのである ({Long} S.100,101)。こうした不可知論は、 一見すると伝統や確固とした方法論といったものとは相反するものである。しかし、ラヴェルの 場合は違った。彼はあくまでもストイックなまでに厳格であり、己の方法論に忠実であり、 アカデミックな意味で優秀な教師ですらあった。ここにラヴェルという人物の面白さがある ように思える。

 しかしそれはそれとして、この民族的意識と個人的意識なるものは、いったいいかにして働く ものなのか。まず根本的なこととして、個々の芸術家には「己れの存在に特有の諸法則」が備わって いるのだという。そしてこの法則の発展していく過程、そこに民族的意識と個人的意識が関与すると される。

 「 民族性というものは、作曲家から自己の魂を奪うものでもなければ、各自の個別的表現を 奪うものでもありません。なぜならどんな創造的な芸術家でも、己れの存在に特有の諸法則を、 自分の中にちゃんと持っているのですから。芸術家に固有のこれらの法則は恐らく、音楽を 創り出す全過程において最高の働きをする要素でしょう。こうした法則は、個人的意識と民族的 意識とが結合した結果によって決定づけられるように思われます。そして、どんな師によっても 芸術家に伝えることはできないのです。というのもそれは、芸術家が個人的に受け継いでいく ものの中から湧き出るであって、先ず最初は芸術家自身によってしか感知されないものだからです。」 ({Long} S.106)

 かくして芸術家は個人的意識と民族的意識とに導かれながら、自己を徐々に作り上げていく ことになる。そして恐らくこれら二つの意識は芸術の客観的条件であると同時に相当程度に主観的な 要素としてはたらくものであろう。ある意味では、自己や自己の民族的出自は生まれながらに 与えられているものであるが、しかし反面、われわれはそれらに意識的であり忠実であることも できるからである。あるいはその格好の実例こそ、他ならぬラヴェルそのひとだったのかもしれない。 ラヴェルの芸術論の原型が彼自身の自己形成の過程にこそ見いだされるとするならばどうか。

 もっとも、ラヴェルの芸術にダイナミックな展開を見出さない類の評も少なからず存在する。 ラヴェルの音楽は「際立った進展をはっきりとは見せなかった」と言う論者もある(Siehe {Monma} S.310)。確かに彼の作風は初期 から晩年に至るまである意味変わらなかったと言うことはできる。たとえば、初期のソナチネ Sonatine や第一次世界大戦の時期のピアノ三重奏曲 Trio pour piano, violon et violoncelle 、 晩年のヴァイオリン・ソナタ Sonate pour violon et piano にわれわれは、その性格的な違い にもかかわらず、何か共通するものを――結局、他ならぬラヴェルの作品としての刻印を、感じは しないだろうか。それほどまでに、彼の「固有の法則」は強いものだったようにも思えるのである。

 ドイツの著名な音楽評論家、故ハンス・ハインツ・シュトゥッケンシュミットの所説は、 この点に関連してわれわれの興味をひく。彼はその著書の中でラヴェルの音楽が「簡素化」という 方向で進展したことを論じている。ラヴェルの創作は常に簡素を旨としていたわけではない。 ありあまる技術と過激なまでの先鋭性をあからさまに誇示することも、当初は確かにあった (たとえばダフニスとクロエ Daphnis et Chloé や夜のガスパール Gaspard de la Nuit 。 Siehe {Stuckenschmidt} S.185)。 しかしラヴェルの音楽は「簡素化」を目指す方向で徐々に変わっていったのだという。そして 問題はその変化の性格――何を目指す「簡素化」であったのかという点にある。そしてその際の キー・ワードは「放棄」と「代行」である。たとえばシュトゥッケンシュミットはピアノ組曲 クープランの墓 Le Tombeau de Couperin についてこう述べている。

 「 〈放棄〉は必ずしも後退と同じことではない。急進的なモダニストのラヴェルは、この 舞曲を書いた時、安楽にくつろいだ聴き手の大多数と和平を結ぶ気は決してなかった。 『クープランの墓』は決して“ばらの騎士”ではなかった。すでにこの曲の和声を見ただけでも、 『高雅で感傷的なワルツ』で始められた試みが、どれだけ洗練された計画的な技法で継続されて いるかを知ることができよう。ラヴェルが、かつては楽しい集会や男女の交遊に使われていた 音楽形式に、自分の最も暗い感情を盛り込もうとしたのは、ラヴェルの間接的な目的思考や 〈代行〉という逆説的美学にいかにもふさわしい。……」

 「 この組曲全体が、どの楽章でも、極端な洗練と、そして同時に完全な〈放棄〉の美学を 示している。ここには舞踏曲『ダフニスとクロエ』の陶酔的な響も、『夜のガスパール』の 超験的な名人芸も見られない。ましてや劇的な頂点と押し寄せるようにダイナミックな流れを 持つあのピアノのためのワルツ曲の、ややコケットな優美などは皆無である。……」 ({Stuckenschmidt} S.225,229)

 「放棄」とはまず「超過激な美学」の放棄、革新的な手法の放棄を――ひいては表現の自己 抑制一般を――意味する。それはリヒャルト・シュトラウスの「サロメ」から「ばらの騎士」 への「後退」、革新を捨てて大衆への迎合へと向かう(とシュトゥッケンシュミットが見なす) 行き方とはあくまで対置されるものである ({Stuckenschmidt} S.185)。 なるほど、ラヴェル自身が言うように「作曲家というものは自分が感じたことを自分の感じた ように五線紙にのせるものだ」 ({Stuckenschmidt} S.286) というのであるなら、革新的な方法はあくまでも手段に過ぎない。そんなものなしでも 十分に語れるのなら、ことさらに方法にこだわる理由はない――表現主義者である必要は ないというわけである。

 しかし「放棄」するだけでは必ずしも創造は成就しない。ラヴェルがそこから行く先は、 「代行」、すなわち民族的な旋律や表現形式への自己の仮託である。その場合、民族的なもの それ自体が目的となるわけではない。「彼は、ある民族あるいは民謡の精神から何かを 見つけ出すことは決してなく、民族音楽の旋律法から小形式や小さなモチーフを利用し、それを 自分自身の様式の面隠しとして表に出しておくのである」 ({Stuckenschmidt} S.161-162)。

 やや注意が要るのは、これが先に言及した講演における「民族的意識」に直接に結びつくものと 考えることはできないということである。ラヴェルにおける民族的意識は当然フランス的―― あるいはその母の生まれにまで遡るスペイン的乃至バスク的意識である他はないのであって、 ここで言われている「代行」はそれらに限らず、他にもギリシア、ヘブライ、オーストリア、 アメリカなど、まさに種々様々な民族、国家と関わるからである。むしろラヴェルの本懐は、 まさにこうした様々な民族的なものを徹底的にものにしながら、さらになおそこに自らの個人的・ 民族的意識を反映させることにあったと思われる。ラヴェル自身、自らのヴァイオリン・ソナタ に「ブルース」を取り入れたことに関して、次のように述べている。

 「……あなた方の音楽のあのポピュラーな形式[ブルース]を採用しながらも、私が書いた のはやはりフランスの音楽でありラヴェルの音楽である、と敢て申し上げたいのです。そうです!  これらのポピュラーな形式は構成の素材にすぎないのであり、芸術作品は成熟した構想の 中にしか生まれないのであって、そこではどんな細部もいい加減にしておかれることは ありませんでした。それになお、これらの素材を取り扱うに当っては、綿密な様式化が全体に 必要です。」({Long} S.111-112)

 少なくともラヴェルにとっては、こうした民族的な形式は芸術的創造にとって偶然的な、外的な 条件とはなるべきものではなかった。むしろそれは、音楽家の芸術的要求の満足に寄与する限りに おいて、創作の本質的な契機となりうるものなのである(Vergleiche {Long} S.112)。音楽を導くのはあくまでも 作曲家の個性である。その個性が創作において形式を要求するとき、問題となるのはその形式を どれだけ活かしきることができるかである――あるいはそこにラヴェルの音楽の「進展」の意味が 見出されるのではないか。つまり、「代行」された意欲と形式との完全な一致を追求する過程が、 彼の進展ではなかったのかということである。

 シュトゥッケンシュミットが見るように、おそらくこのような行き方のひとつの結実が、 第一次世界大戦末期に作曲された「クープランの墓」であったのだろう。あくまでも古典的で静謐な 姿を持ちながら、それでいてこの上なく深く切実な情感を示すこの作品において、「ラヴェルの心は、 いまや全く音楽そのものになった」 ({Stuckenschmidt} S.229)ので ある。そこにはラヴェル自身の深刻な戦争体験が当然何らかの役割を果たしてもいたであろうが (戦争をめぐる一連の出来事はラヴェルにとって決定的な体験であったと論者は見ている。Siehe {Stuckenschmidt} S.221, {Nichols} S.136-138, {Orenstein} S.99-100)、とにかく この戦争の前後から晩年に至るまでのそれほど多くない彼の作品群は、表現主義的な意識を排した 一種間接的な表現傾向がひたすらにその表現の精度を高めようとしていった過程を示しているように 思える。

 たとえば、1920年初演のラ・ヴァルス La Valse はどうか。言うまでもなくヴィーンの 優雅なワルツを直接に題材としたこの作品は、見事までにヴィーン的な味わいを示しつつも、単なる ウィンナ・ワルツへのオマージュに留まらず、むしろ本来のウィンナ・ワルツの精神とはまるで 逆のものであった筈の恐るべき悲劇的な展開を見せ、デモーニッシュな印象すらある結末を導く。 にもかかわらずこの作品には決して奇を衒ったような要素や、あるいは冷めたカリカチュア的な 性格は存在しない。この作品の描写しているのがオーストリア=ハンガリー帝国の没落の運命なのか、 あるいは戦争による文化の蹂躙の姿なのか、それは今となってはわからない。いずれにせよ われわれは作曲家自身の真剣で深刻な想念がこの曲に直接に表現されているのを感じないでは いられないのである。

 そして、最晩年のピアノ協奏曲ト長調 Concerto pour piano et orchestre G-Dur 。 作曲家自身はこの作品について「モーツァルトとサン=サーンスの精神にのっとって作曲」したと 語っているが ({Ongakunotomo b} S.49)、 確かにこの作品は後期ロマン派の膨大さやや新ヴィーン楽派の峻厳さとはまるで無縁な、古典的とも 言えるがごとき均整を見事なまでに保っている。だがこの作品は、やはり紛れもなくラヴェルの作品 なのである。ジャズの影響やスペイン=バスク的な要素を指摘する評は夙にあった。だが影響関係云々 以前にわれわれの耳に飛び込んでくるのはラヴェルの裏のない快活さなのであって、またあの 素晴らしい第2楽章の旋律は最早人間的な感情そのもの、あるいはマルグリット・ロンに言わせれば 「人生の縮図そのもの」({Long} S.79)なので ある。やはりこの作品はラヴェルの「進展」の紛れもない最終的な結実であったように思える―― これを「際立った進展」と呼ぶべきか否かは、最早単なる言葉の問題でしかないであろう。

 ところで、ラヴェルの弟子ロザンタールは、ラヴェルの最高の才能を「優しさ」の表現に見出して いた。「ラヴェルのあらゆる音楽には、どんな時期に書かれたものであろうと、心地よい、無垢な 優しさの輝きを見いだすことができる。彼がこういった若々しい精神を持ち続けていられたのは、 なぜだろう。人並みに病気にもなり、戦争も体験しており、友人や両親の死に際して悲しむことも あっただろうに。だが彼は、こういった優しさをけっして失うことはなかった」 ({Rosenthal} S.6-9)。 ロザンタールの見解が万人の首肯し得るものであるかどうかは問題かもしれない――とりわけ 彼の音楽に怜悧な知性が刻印されているのを常に感じる者にとっては。しかしラヴェルが心底において 向き合っていたもの――彼の「固有の法則」が究極において表現しようと欲していたものの一解釈と しては、いくぶんかの興味が感じられはしないだろうか。

 

**未完**




Concerto pour la main gauche
Konzert für die linke Hand

左手のための協奏曲

〇作曲
1929−1930年
〇初演
1932年1月5日、ヴィーンにて。指揮、ロベルト・ヘーガー。ヴィーン交響楽団。 独奏、パウル・ヴィトゲンシュタイン。
(フランス初演:1933年1月17日、パリにて。指揮、モーリス・ラヴェル。パリ交響楽団。 独奏、パウル・ヴィトゲンシュタイン。 アメリカ初演:1934年11月9日、ボストンにて。 指揮、セルゲイ・クーセヴィツキー。ボストン交響楽団。独奏、パウル・ヴィトゲンシュタイン。)
〇出版
Durand, Paris, 1931.
Durand, Paris, 1937 (2台ピアノ版).
〇編成
フルート2、ピッコロ、オーボエ2、イングリッシュホルン、ファゴット2、コントラファゴット、 クラリネット(Es)、クラリネット2、バス・クラリネット、トランペット3、トロンボーン3、 ホルン4、テューバ、ティンパニ、トライアングル、小太鼓、大太鼓、シンバル、ウッド・ブロック、 タム・タム、ハープ、弦楽
〇演奏時間
約18分
〇構成
単一楽章形式。
Lento - Allegro - Lento


#  作品概観

 左手のための協奏曲は、単一楽章の作品ではあるが、全曲を3つに分けて考えられることが多い。 ここでもこの通例に従って曲を見ていくことにしたい。

開始部
 分割されたチェロとコントラバスの低く這いずるような響きを序奏に、コントラファゴットが 重苦しく第1主題を提示、そしてそれに応答するかのようにホルンが第2主題を続ける (前者を第1主題の a 、後者を b とする解説もある。Z.B. {Ongakunotomo b} S.46)。 コントラファゴットが旋律線を引き継ぎ、第1主題により徐々にオケの響きが白熱し増大して ゆくが、その頂点において唐突に止み、独奏ピアノがフォルティッシモで決然とドラマティックな 響きを叩きつけて現われる。
 独奏ピアノは分散和音を駆使してカデンツァ風に展開し、次いで、曲頭のテンポに戻って 静かに第一主題を提示する。この部分では主旋律と低音の伴奏部が明確にして自然な仕方で分離 され、力強くスケール大きく展開していく。そして鍵盤上の幅広い跳躍と「猛烈 Strepitoso 」な 早い走句の後で一気にグリッサンドで上昇し、オケによる第一主題の壮大な回帰となる。
 オケの大きな盛り上がりがやがて静まると、再び独奏ピアノの見せ場。ゆったりとした序奏に 続けて、極めてラヴェル的な透明な美しさを持つ息の長い第3主題が提示されるのだが、 伴奏音形もそれと同時に重ね合わせに弾かれ(前者は4分の3拍子、後者は8分の9拍子。)、 その対位法的な精妙さは筆舌に尽くしがたいものがある。続けてイングリッシュ・ホルンや クラリネットなどによる第1主題の展開が始まる。ピアノはそれに細やかな伴奏音形を合わせ、 徐々に巧みに変容させていく。やがてオケがテンポを速めて盛り上がり、最高潮に達した ところで唐突にアレグロの中間部が始まる。

中間部
 中間部はオケによる特徴的でいかにも「ジャズ」な下降音形によって始まる(この音形と 第2主題の冒頭の下降音形との関連が指摘される。Siehe {Ongakunotomo b} S.47)。 オケの刻むリズムに、ピアノによるこの下降音形やこれまたジャズ風の即興的な旋律がしばし 交錯する。やがてフルートやピッコロ、ハープのきらめくような響きとピアノの分散和音が 絶妙に重なるエピソードを経て、弦のやや重い刻みを伴いファゴットが物憂げに第2主題を 歌いだす。ピアノはジャズの旋律により応答するが、この箇所の弦楽五部はそれぞれが精緻に 分割され(楽譜上では最大で13段)、それに小太鼓やウッド・ブロックなどの打楽器に よるアクセントが彩り豊かに添えられるところなどは、作曲家の音色感覚の抜群の冴えを 感じさせる。再びピアノがジャズの下降音形、次いで分散和音によるエピソードを回想。そして おもむろにテンポを早めて跳躍するピアノとオケがクレッシェンドし、またしてもピアノの 凄まじい一気の上昇グリッサンド。

終結部
 開始部のあのピアノによる第1主題の展開音形がオケの強奏により回帰。ピアノが伴奏音形を 激しく叩きつけ、轟然とした響きとなり、やがて激しい頂点を築く。すると急速にオケの響きが 弱まり、終に独奏ピアノによる「凄絶なカデンツァ」 ({Oka} S.10)が始まる。このカデンツァは 細やかな音の流れ(16分音符〜64分音符)の中に主要主題を潜みこませて浮かび上がらせる もので、恐るべき響きの緻密さで圧倒する、全曲のハイ・ライトと言える。カデンツァ冒頭でまず 曲頭の低弦の音形が与えられ、それを序奏に第2主題が低く提示される。次いで音高を上げて 第3主題が提示されるが、主題の後半部分では、高声の主題と中声の細やかな伴奏音形に、更に 低声部の動きが加えられている。そして第1主題の音形が訴えかけるように繰りかえされ、やがて また第2主題に戻ったところでオケが密やかに第1主題を歌い始め、響きを増しつつ盛り上がり、 ピアノの激しい音階の上下行を経て、唐突に中間部のジャズのリズムが回帰。最後にピアノが 件の下降音形を示し、オケが強奏で答えて終わる。

 



#  コメント

 1928年4月にアメリカ旅行を終えて帰国したラヴェルは、体調の不良に悩みながらも、 同年の夏から秋口にかけて、彼の代表作のひとつとなるバレエ曲ボレロ Boléro を作曲し、 次いでイギリスへ旅行、オックスフォード大学で名誉音楽博士号を授与されるなど、忙しい 日々を送っていた。翌29年に入ると再びイギリスへと楽旅し、次いでスイス、春には オーストリアを訪れることとなる。オーストリア訪問の目的は自らのオペラ、子供と魔法 L'Enfant et les Sortiléges の上演準備にあったのだが、ヴィーンでラヴェルは パウル・ヴィトゲンシュタインと会い、左手のピアノのための協奏曲の作曲を持ちかけられる こととなった(話自体は以前からピアニストのマネージャーを介してあった。)。ピアニストとの 午後の長い会話の後、ラヴェルは作曲を快諾する。Je me joue de difficulté.( I make a game of difficulty. )――ラヴェルはこのときヴィトゲンシュタインに対してこう述べたという。 ({Kim-Park} S.152, {Wechsberg} S.27-28)

 しかしラヴェルには自分自身がソリストとして弾くピアノ協奏曲の作曲の計画も、そのしばらく 前からあった。初めは、若い頃に手を付けて後そのままになっていたあのバスク風の協奏曲を 完成させようと考えていたらしいが、しかしアメリカへの楽旅などによりそれも再び放棄され、 なかなか作曲の着手に至らなかった。あるいは、アメリカで接したジャズの刺激を消化しつつ、 ゆっくりかつ慎重に構想を練っていたのかもしれない(アイデアを温めるのに長い時間を要する のは、彼の通例だった。Siehe {Long}  S.112-113)。29年の夏から秋にかけ、ラヴェルはバスク地方で長い休暇を過ごす。そして年末、 ラヴェルは終に作曲を開始する――それは、自ら弾くための協奏曲とヴィトゲンシュタインのための 協奏曲の2曲の作曲の同時進行という、彼自身凡そこれまで経験したことのなかった試みと なった。

 左手のピアノのための作品の作曲は、実はラヴェルにとって初めてのことではなかった (1918年作曲の5手2台のピアノのための作品、口絵 Frontispice 。)。しかし事実上―― また当然ながら――本格的な左手のピアノ曲の作曲は彼にとってこれが初めてだったと言える。 もちろん他の作曲家による同種の作品の前例もまだこの時点ではそう多くはなかったわけだが、 その中でもラヴェルが参考にしたのは、アルカン、チェルニー、ゴドフスキ、サン=サーンス、 スクリャービンの作品だったと言われる (Siehe {Edel} S.111)。

 ただし、他の作曲家からの影響がそうあからさまに自作に現われることのないのがラヴェルの 常でもあった。実際にこれらの作品の研究がヴィトゲンシュタインのための協奏曲にどのように 作用したのかははっきりしないが、恐らくラヴェルはこれら先行作品を研究することにより 技術的な問題の所在を確認したうえで、あくまでも独自の観点から協奏曲の構成や性格を決定 したのであろう。彼自身の「両手の」協奏曲との対比による次の発言は、わりによく 知られている。

 「 二曲の協奏曲を同時に構想し現実化することは興味深い体験でした。第一の曲は、 わたしが自分で演奏しようと思っているものなのですが、厳密な意味での協奏曲で、モーツァルトと サン=サーンスの精神で書いたものです。わたしの信じるに、協奏曲というものは、必ずしも深遠で あったり劇的な効果を狙ったりすることなく、快活で輝かしいものでありうるものです。何人かの 偉大なクラシックの作曲家たちは、ピアノのために書く write for piano というのとはほど遠く、 むしろピアノに逆らって書いた write against piano のだ、と言われてきました。 そしてわたしの思うに、そうした批判は全くもってもっともなものなのです。
 最初、わたしは[ト長調の協奏曲の方を]「ディヴェルティメント( Divertissement, 嬉遊曲)」と呼ぼうと思っていましたが、しかし後になってからそれは必要ないと考えました。 何しろ協奏曲 concerto という呼称そのものがこの作品の含む音楽の種類を適切に記述している わけですから。ある意味ではわたしの[ト長調の]協奏曲はわたしのヴァイオリン・ソナタとは 似ていないでもありません。この協奏曲はジャズから借りてこられたある種の作用を用いては いますが、しかしそれはあくまでも適当な程度にです。
 左手のみのための協奏曲はそれとは全く違っていて、こちらはジャズの影響を多く持つ単一楽章作品 であり、その書法はそれほど単純ではありません。この種の作品では、二手のソロ・パートと対照 してピアノの響きの質感に厚みが不足しているとの印象を与えるのを避けることが肝心です。 ですからわたしは伝統的な協奏曲の持つ堂々たる印象を与えるスタイルの方により釣り合うような スタイルを用いたわけです。
 こうしたフィーリングがしみわたった導入部の後で、即興のごときエピソードが来るのですが、 それにジャズの部分が続きます。このジャズのエピソードが実際には冒頭部分の主題から できあがっていることは、後になってから初めてわかります。」(ロンドンでのインタヴューにおける 発言。1931年7月16日付け『デイリー・テレグラフ』誌掲載。Notiz von CDX2 5507 VLADO PERLEMUTER PLAYS RAVEL ( VOX ), 1992, S.9, {Ongakunotomo b} S.44, 49)

 ラヴェルがヴィトゲンシュタインのための協奏曲を両手のための協奏曲とは対照的なものと見なして いたのは明白である。しかしこの発言からはその対照性が本来的なものであったということを直接に 読み取ることは実はできない――要するにたとえば、前者の重厚さは後者の軽やかさの対として 与えられている、と言われているのではなくて、むしろ左手のみという演奏上の制約に起因している というのであるから。なるほど響きが薄くならないようピアノの響きに特にボリュームを盛ろうとする ならば、曲想自体をそのような意図に見合った重厚なものとするのが適切なのかもしれない。しかし それで事柄の理解は十分であるか。ここでわれわれがさらにひとつ踏み込んだ理解を求めるとする ならば、そのひとつのポイントは作曲家が、両手のための協奏曲がまさにディヴェルティメントであり、 協奏曲である、と言うその意味にやはりあるように思われる。

 「協奏曲 Konzert, Concerto 」という語は、元々はラテン語の certare (争う、競争する)に由来する と言われ、そこから、独奏部と伴奏部が等しい立場で(一方が他方に従属することなく)一種の対立に おいて音楽を展開する形態を指す見方が出てくる (Siehe {Koizumi} S.114)。競争、と言うと いささかニュアンスとしては強すぎるきらいがあるが、両手のための協奏曲はまさにピアノを中心と しつつも各楽器の響きが比較的自由にぶつかり交錯し、色彩豊かで華やかな総体的調和を実現する作品で あると言うことができる(その意味では、ヴァイオリン・ソナタと両手の協奏曲は確かに似ているで あろう――それがラヴェルの本来の意味であるかはともかくも。)。そしてこうした性格こそ、 左手のための協奏曲にまさに備わっていないもの、乃至は左手のための協奏曲が積極的な関心を抱いて いないものであると言うことができるであろう。

 左手のための協奏曲は、協奏曲の本来的な意味を上に述べたようなものととるならば、実はそれほど 「協奏」しているわけではない。ピアノの見せ場である開始部の入りや終結部のカデンツァはオケのほぼ 沈黙する中で演奏されるわけであるし(後述するようにここにヴィトゲンシュタインの不満の原因が あると見ることもできるであろう。)、なるほど中間部の「ジャズ」においてならば両手の協奏曲に 聴かれるような自由な響きのやりとりが見出されるのであろうが、むしろ音楽全体は湧き立つような 発散的性格よりもむしろドイツ・ロマン主義の面影を感じさせるような主観的収束的性格を示している のである。

 このように考えるなら、ラヴェルの「何人かの偉大なクラシックの作曲家たち」への批判 (ブラームスが念頭にあったと言われている。 {Ongakunotomo b} S.49, {Orenstein} S.140)は、必ずしもその スタイルに対する批判ではなかったのではないかとも思えてくる。上で引用した発言で問題視されて いるのは、ピアノに見合った書法がなされているかどうかという点である。深刻な曲想の表現を優先する あまりにピアノがその犠牲になるというような行き方への批判なのである。とすると、ラヴェルが 左手のための協奏曲において暗く劇的な展開を盛り込んだのは、ロマン主義と同じ土俵に敢えて乗り、 なおかつロマン主義を彼なりの仕方で出し抜くという挑戦的な意図もあったのではないだろうか。まさに ラヴェルは本来の意味での古典的な協奏曲のスタイルとロマン主義的な協奏曲のスタイルを同時に 征服しようとしたのではないだろうか(ここにわれわれはラヴェルの「代行」的意識を見出すことが できるのかもしれない。)。左手のための協奏曲と両手のための協奏曲との間に本質的な対照性が 想定されるとするならば、その意味はまさにこうしたところにあるように思われるのである。

 (とはいえわれわれは、主観的収束的性格、と評しはしたものの、同時にこの作品が目くるめく多彩な 表現を使用していることも強調しておかなければならない。オレンシュタインが伝えているところでは、 ラヴェルはこの曲のオケ・パートのピアノ譜に「混じり合ったミューズたち musae mixtatiae 」と 書き込み、「異なる様式を意図的に並置することを示唆して」いたということである ({Orenstein} S.248, 33)。作品冒頭の主題の 提示とピアノの入りに見られる伝統的な協奏的ソナタ形式を思わせる展開、思わず息を呑むほどに 磨き上げられた美しさを持つ第三主題の提示箇所、そしてそこから突如として始まる「ジャズ」の 運動的な響きと、そこに絶妙な仕方で忍び入り回帰する物憂げな主題、……これだけの多様な表現を これだけ巧みに手際よくまとめ上げる作曲家の手腕は、ただただ見事という他はない。そして作品全体に 漲る意思の力の強さが、なおいっそうわれわれの驚嘆を誘うのである。)

 ラヴェルは左手のための協奏曲の作曲作業におよそ9ヶ月を要した。これはラヴェルにとっては わりに短い方ではあったが(両手のための協奏曲よりも1年以上完成が早かった。)、それでも当初の 予定よりはいくぶん遅れたらしく、途中でヴィトゲンシュタインから催促も受けている ({Stuckenschmidt} S.302-303  ちなみにヴェクスベルクは作曲に没頭していたこの時期にラヴェルが一日4時間しか睡眠をとらなかった ことを伝えているが ({Wechsberg} S.28)、しかしラヴェルは 第一次世界大戦終結後あたりから不眠症に悩んでいたので ({Stuckenschmidt} S.238)、4時間と いうこの数字はたいして特筆すべきものでもなかったのかもしれない。)。 1930年8月、ラヴェルは完成した作品を披露するため、ヴィトゲンシュタインをパリから50キロ 離れた村モンフォール・ラモリにある自宅に招く。作曲家はヴィトゲンシュタインを前にこの新作を ピアノで弾いてみせた。そのときのことをヴィトゲンシュタインは30年近く後にこう回想している。

 「 ラヴェルは自らの仕事部屋へとわたしを招き、新作の協奏曲をわたしのために弾きました。彼は ソロ・パートをもちろん両手で弾き、そしてまたオーケストラ・スコアも弾いたのです。彼は卓越した ピアニストであるというわけではなく、わたしはこの作品に圧倒されもしませんでした。難しい作品に 慣れるのにしばらくの時間を要するのは、わたしにはいつものことなのです。ラヴェルはがっかりしたと 思いますし、それにわたしも残念ではあったのですが、しかしわたしはふりをすることをかつて学んだ ことがありませんでした。だいぶ後になって、この協奏曲を数ヶ月研究してからようやく、わたしは この曲に魅せられ、この曲がどれだけ偉大な作品であるのかを理解したのです。」 ({Wechsberg} S.28)

 難しい作品――それがヴィトゲンシュタインの印象だった。さてそれはいかなる難しさだったのか。 この協奏曲が技巧的に極めて困難なものを含んでいたことは言うまでもない。あるいはそれは作曲家の 技巧ではとても太刀打ちできないほどのものであったのかもわからないが、しかしラヴェルがこの曲を 両手で弾いたということに関して言うなら、それは技巧的な難しさゆえというよりはむしろ―― マルグリット・ロンの場合と同様――彼自身の手がこの曲を弾きこなすには小さすぎたがゆえであったの だろうと思われる(Siehe {Stuckenschmidt} S.54, {Long} S.87)。そしてそのことはもちろん ヴィトゲンシュタインにもよくわかっていたであろう。

 ヴィトゲンシュタインにとってこの曲が技巧的に難しすぎたという評もよく見られる(z.B. {Léon} S.131, {Oka} S.10 また後述する有名なロンの証言にも そのようなニュアンスが感じられなくはない。)。しかしそれよりも、われわれはそれが「慣れるのに しばらくの時間を要する」類の難しさだったことに注意すべきであろう。Kim-Park はそれをピアニスト 自身のモダニズムへの違和感――ジャズ風の響きへの違和感と解釈しており ({Kim-Park} S.153)、おそらくそれが最も 無難な理解なのではないかと思われる(あるいはヴィトゲンシュタインには、そのすぐ後の10月に 初演することとなるコルンゴルトの組曲作品23の、あのヴィーン風のところがある親しみやすい 雰囲気と比較して見てしまうところもあったのかもしれない。)。

 とにかくピアニストは作品を受け取り、じっくり研究してみることにした――しかしもちろん、 事はそう単純なものではなかった。作品への濃厚な介入を躊躇しないヴィトゲンシュタインのごとき 音楽家にとっては、作品の「研究」は単なる「解釈」にとどまらないからである(これについては、 近年利用可能となったヴィトゲンシュタインの遺品の綿密な調査に基づく Georg A.Predota の研究 ({Predota})を参照しなければならない。)。 結局初演は当初の予定から遅れ、作品の完成から1年以上を経た1932年1月5日、ロベルト・ ヘーガー指揮のヴィーン交響楽団の演奏会にて――ピアニストにより手を加えられ、すっかり本来 からかけ離れたかたちで――ようやく行われることとなる(Siehe {Predota} S.83-85)。

 (初演日を1931年11月27日とする資料も少なからず存在するが(z.B. {Flindell 1969} S.127, {Léon} S.174, {Oka} S.10, {Ongakunotomo b} S.43, {Ravel})、ここでは {Stuckenschmidt} S.lxxiv, {Orenstein}(S.33)、 {Kim-Park}(S.154, Anm.139)、 {Predota}(S.84-85)などに従うことに する。ちなみに Kim-Park によると、初演は当初ベルリンにてエーリヒ・クライバーを指揮に迎えて 行われる予定であったらしい(クライバーはラヴェルお気に入りの指揮者だった。 Siehe {Rosenthal} S.55-56)。)

 ここでしばし、ヴィトゲンシュタインがこの作品について実際のところどう思っていたのかについて 考えてみたい――まず、彼の趣味が極めて保守的なものだったのは確かである。ヴィーンの芸術的 伝統に深く関与するところのあった家に生まれつき、19世紀ヴィーンの「一流」に常に触れながら 成長してきた彼にとって、確かに「ジャズ」は異質である以外の何物でもなかったであろう。しかし 結局、彼はこの作品を「偉大な作品」と認めたのである。そのことと彼がこの作品を改変したこととは 一応事柄としては区別しなければならないのであろう。一般に彼が採りうる道はまず大きくはふたつ あった。演奏するか、しないか、である。それなりの価値が(彼にとって)認められない作品は、 そもそもプログラムに載せられることはなかった(ヒンデミットの協奏曲の場合のように)。そして ひとたび価値が認められたとしても、彼においてはそれを作曲家が楽譜に記したままに演奏することは まずなかったと言ってよい――ラヴェルの協奏曲も例外ではなかったということである。

 とはいえもちろん、そもそも音楽の価値と音楽の内容とをどの程度区別できるのかということは 必ずしも明らかなことではないのであるが、いずれにせよとにかくヴィトゲンシュタインは 実際にそれらを彼なりの仕方で区別したのである。まず何より協奏曲として見た場合、 ヴィトゲンシュタインにはラヴェルの協奏曲に対して大きな不満があった。すなわちオケとピアノの 真正面からの対峙の少なさである。ヴィトゲンシュタインは率直にこう述べている。「もしも オケなしで演奏したかったのなら、わたしはオケとの協奏曲を注文したりはしなかったでしょう!」 ({Kim-Park} S.154)

 またヴィトゲンシュタインが左手のための協奏曲に加えた具体的な改変箇所については、彼の 使った楽譜を調査した Predota が挙げているものを紹介すると、だいたい次のようなものがあった ({Predota} S.81-92)。
 @ 中間部の第2主題の回帰部分
 打楽器パートをティンパニ以外削除({Predota} は楽譜の練習番号37−38の箇所の写真を掲載している。Siehe S.83-84)。
 A 終結部のカデンツァ
 ピアノの演奏音域を鍵盤上限にまで拡張。原曲では主旋律を高音、伴奏音形を低音に配置している 箇所で、主旋律を高音と低音の伴奏音形で挟むかたちに改変している。「二本の腕を要するがごとき 印象を与えようとする悪魔的な技巧を、ラヴェルは既にカデンツァに配していた。 ヴィトゲンシュタインのヴァージョンでは、今や三本の腕を要するがごとき印象をもたらす配分を 演奏者が与えることにより、この幻惑はいっそう強められている。」 ({Predota} S.86 掲載されている写真は楽譜の 練習番号51のあたり。)
 B 開始部のピアノの導入部分(第1カデンツァ)とその先{Predota} S.86-87 ただし詳細な言及は ない。)
 C 終結部冒頭の第1主題の回帰箇所
 オケ・パートとピアノ・パートの両方をピアノのみで演奏するようにし、オケ・パートを12小節 削除({Predota} S.87-88 掲載されている 写真は楽譜の練習番号46−52の箇所。)。

 われわれは、これらの改変箇所から、ヴィトゲンシュタイン自身のそもそもの意識の置き所をも ある程度伺うことができるのかもしれない。たとえば Predota は、カデンツァの改変と バッハ/ブラームスのシャコンヌのヴィトゲンシュタインによる再編曲との類似を指摘し、「彼は 第一に鍵盤の範囲を拡張することに執心しているように見える」と述べている ({Predota} S.85)。左手は当然鍵盤の右端に 近づけば近づくほどキーを叩きにくくなるわけで(そのためいすに座る位置からして工夫が必要と なると言われる。Siehe {Patterson} S.7-8)、 逆にヴィトゲンシュタインとしてはそうした一種フィジカルな条件に屈したかのような印象を 与えるのに我慢ならなかったのではないか。そしてこうした対応はヴィトゲンシュタインにとっては 通例だったのである(彼の編曲による「愛の死」(ヴァーグナー)に見られる際立ったレンジの 広さもそのよい例であろう。)。

 だが何よりもヴィトゲンシュタインの傾向を表しているのは終結部冒頭の改変ではなかったか。この どれだけ贔屓目に見ても度を過ぎているとしか思えない改変の意図は、一体どのあたりにあったのか。 実はこれには既に前例があった――R.シュトラウスの家庭交響曲のパレルゴン作品73である。この 作品のチャーミングな第3主題の提示箇所は元来オケのみで演奏されることになっていたのだが、 ヴィトゲンシュタインはこの箇所をまずはオケではなくピアノのみで演奏するよう改変していた のである(そのことは現存する録音から確認できる)。家庭交響曲のパレルゴン作品73の白眉とも 言えるこの箇所を何としてもオケから奪い取りたかった気分は、なるほど理解できなくもない。しかし それによって果たしてこの音楽の「本質」が損なわれはしなかったかは大きな問題であろう。

 ラヴェルの協奏曲のこの箇所の改変も、全曲の盛り上がりの最高潮でピアノを際立たせたいという 気持ちからだったのではないかと推測されるのである。だが、この箇所は確かに最高潮であるとはいえ、 しかしピアノに与えられた役割はあくまで伴奏的なものにほぼ限定されており、ピアノに とってそれほど演奏効果の期待できる箇所でないのもまた事実である(録音でもこの箇所でピアノが はっきりと存在感をもって聴き取れる場合はそう多くはない。)。それに、ピアノが聴こえるように するためオケの響きを薄くするという処理も、最高潮であるだけにやりにくいため、ここでピアノの ために思い切った采配を振るおうとするなら、目先を変えていっそのことピアノだけにしてしまおうと 考えるのもひとつの道ではあったのかもしれない――しかしこのような処理はオケとの「協奏」に 対する彼自身の本来の意欲とどう両立するのか。そして何より、それは誰が見てもやり過ぎでは ないか。

 しかしとにかく1932年1月5日のヴィーンでの初演は、猛烈に改変を加えられた版による演奏 ではあったにせよ、大成功に終わった。そしてその3日後には早くもベルリン初演が行われたのだが ({Kim-Park} S.xii-xiii, iv)、同月の末、 今となっては半ば伝説的ともなっているある事件が起こる。マルグリット・ロンと共にヴィーンを 訪れたラヴェルが、ヴィトゲンシュタインの私邸で彼によるこの曲の演奏を耳にすることと なったのである。演奏は2台ピアノ版、伴奏を弾いたのはフランツ・シュミットの弟子のヴァルター・ ブリヒトだった({Kim-Park} S.154 ちなみに ブリヒトもヴィトゲンシュタインのためにいくつかの作品を書いている。)。ロンはそのときの様子を 次のように伝えている。

 「 私たちは夜会とその後の盛大な晩餐会に招かれていました。《四重奏曲》が演奏され、招待主が 《協奏曲》を第二ピアノの伴奏付きで弾くことになりました。ようやくラヴェルが自分の作品を聴く ことができるのです。私はちょっと心配でした。というのは食事のとき、私はヴィットゲンシュタインの 右隣にすわっていて、彼から或ることを打ち明けられていたのでした。それは、作品の中でいくつかの “編曲”をしなければならなかったというのです。私は心の中で彼を許しながらも、というのは彼には 肉体的欠陥があるのだからこうした自由もやむをえないと思っていたので、彼に前もってラヴェルに そのことを言っておくよう勧めましたが、彼は何も言いませんでした。演奏の間、私は楽譜で、まだ 知らないこの《協奏曲》を追っていましたが、ラヴェルの顔がこの演奏者の勝手な演奏にだんだん 曇ってゆくのが感じられました。
 演奏が終わるやいなや、クローゼル大使と一緒に私は、何か起こるのを避けるため“気をそらそう” としてみました。ところがああ、なんということでしょう! ラヴェルはゆっくりと ヴィットゲンシュタインに歩み寄りこう言いました。『違うんだよ、全然そうじゃないんだ!』。すると 相手は弁解して、『私は老練なピアニストですけれど、でもこれでは弾けませんよ』。それはまさに 言ってはならないことでした。『私は老練なオーケストラ作曲家だ。それは弾けます!』。ラヴェルは 言い返しました。その気まずいことといったら! 私は思い出すのですが、ラヴェルはあまりに 苛立った状態だったので、大使館からの車を送り返すと、私たちは歩いて帰ったのです。それは、 厳しい寒さが彼の悔しさを和らげてくれることをあてにしてのことでした。」 ({Long} S.88-89)

 ロンはさらに、二人がその後手紙で厳しいやりとりを交わしたことを伝えている。 ヴィトゲンシュタインはラヴェルに「演奏家というものは奴隷であってはならないのです」と言い、 それに対してラヴェルは「演奏家は奴隷なのです」とやり返したというのである。この手紙のやり取り についてはその真実性に疑いを抱いている論者もあるが(Siehe {Fukuda} S.77)、とにかくロンによる 上記のような報告がおおむね事実であることは確かであろう。ラヴェルはこのヴィーン訪問の1ヶ月 あまり後、ヴィトゲンシュタインに正式契約書を送付する。その内容は、この作品を楽譜に忠実に 演奏するようピアニストに義務付けるものだった。それに対してヴィトゲンシュタインは断固とした 返事を書き送っている。

 「 今後あなたの作品を厳密に書かれたとおりに演奏することを誓約するということについては、 完全に問題外です。何しろ自尊心ある芸術家がそのような条件を受け入れることはありえないのですから。 ピアニストは皆、われわれが演奏するような協奏曲において、程度の差こそあれ変更を加えています。 ……[中略]……あなたは憤然と、かつ皮肉を込めてこう仰いましたね。あなたは「スポットライトの 下に出」たがっているのだ、と。しかし、親愛なる先生、あなたは完璧に説明してくださいました。 それこそまさにわたしが他ならぬあなたに協奏曲を書くことをお願いした格別の理由だったのです。 確かに、わたしはスポットライトの下に出ることを望んでいるのです。それ以外のいかなる理由を わたしは持ちえたでしょう? それゆえわたしにはこの目的を達するために必要な変更を要求する権利が あるのです。…[中略]…あなたにお手紙したとおり、わたしがこだわっているのは前にあなたに 提案した変更の内のいくつかだけなのであって、その全てではありません。わたしは決してあなたの 作品の本質を変えたりはしませんでした。わたしはただ楽器の編成を変更しただけなのです。不可能な 条件を受け入れるわけにはまいりませんので、当分のところ、わたしはパリでの演奏をお断り いたしました。」(以上の契約に関するやりとりは、 {Predota} S.90-91 から引用(ただし、アービー・ オレンシュタインの著作からの再引用(Siehe ebd. S.100, Anm.35)))

 このピアニストの主張の正当性についての検討は措くことにする。驚くべきなのは、ここに伺える ような一種根本的な対立を二人が結局のところ乗り越え、世界初演から一年余り後のパリでの共演にまで こぎつけることができたということである。二人がいかにして和解することができたのか、その詳細は よくわからない。あるいはそれは単なる妥協であったのかもしれないのだが、しかしラヴェルが―― 芸術に関しては手を抜くことを知らなかったあのラヴェルが、仮初の妥協で満足しえたとも思われない のである(Siehe {Fukuda} S.77)。

 二人を比べた場合、より強い立場にあったのはあるいはヴィトゲンシュタインの方だったのかも しれない。何しろ彼は作曲の依頼主として高額の作曲料(6000ドル)を支払い、1936年までの 独占演奏権を持っていたのだから ({Kim-Park} S.153)。その一方ラヴェルは というと、あの伝説的なファッションへのこだわりなどから往々に想像されるのとは逆に、実は決して 裕福な方ではなかったから (Siehe {Rosenthal} S.10)、 ヴィトゲンシュタインからの報酬を完全に度外視して話を進めるのはいささか難しかったのではないか。 それに、別の演奏家を立ててフランス初演を実現させることが法的にできない以上、自ら心血を注いで 書き上げた作品を世に公にするという作曲家としての欲求を満たすためには、ヴィトゲンシュタインに 演奏させる他に選択肢がなかったのは確かであろう。

 とはいえ上の手紙の記述からわかるように、少なくともピアニストの側には歩み寄りの用意があったし、 ラヴェルの考えを承認するつもりはなかったにしても、かといってラヴェルの承認のないまま自分の ヴァージョンによる演奏をパリで強行するつもりもなかった。恐らくは、ラヴェル自身もピアニストの 意見を徒に全否定して話をこじれさせるのは避けようと考えて歩み寄り、最終的には双方ある程度 納得ずくのわりきった――後から文句をつけっこなしの――合意を取り結ぶことができたのであろうと 思われる。Predota は、このパリでのフランス初演について報じたニュース映画に ヴィトゲンシュタインによる改変されたカデンツァの演奏が記録されていること、その一方で、 1937年のアムステルダム・コンセルトヘボウの演奏会におけるヴィトゲンシュタインの演奏の 録音で、オケ・パートがラヴェルの作曲したとおりに演奏されていることを指摘している ({Predota} S.91)。

 1933年1月17日、パリでのオール・ラヴェル・プログラムの演奏会において、この二人により 終に左手のための協奏曲のフランス初演が行われた(協奏曲以外のプログラムはロジェ・ デゾルミエールが振った。)。演奏会は大成功に終わり、批評はラヴェルの普段見せることのない 意外な一面がこの作品において見事に現われていることを指摘し、そしてまたピアニストの卓越した 演奏ぶりについて書きたてた ({Orenstein} S.135)。聴衆が深い感銘を受けた 様子を、ある批評家は次のように報じている。

 「 ヴィトゲンシュタインがカデンツァを演奏し始めると、驚愕が聴衆の間を走った。彼の演奏には 権威と感性があった。…[中略]…それはひとつの奇蹟だった――彼の左手は二本の手になり、一方は 歌い、他方は伴奏したのである。…[中略]…彼の手はわれわれの心に触れたのだ。」 ( Le Menestrel 誌における批評。 {Wechsberg} S.28)

 パリでの大成功を受けて、ラヴェルとヴィトゲンシュタインは4月にモンテ・カルロでも共演 しようと計画したが、しかしラヴェルの体調がそれを許さなかった。既に第一次世界大戦後から ラヴェルは健康を害していたが、前年1932年の10月に遭った交通事故以後、徐々に体調は悪化の 度を増し、さらに脳機能にも著しい障害を来たすこととなり、よく知られた悲劇的な晩年を迎えることと なる――この時点でのラヴェルはまさにその一歩手前にいたと言ってよい。結局モンテ・カルロでは ポール・パレーが指揮台に立ち、ラヴェルは演奏会場に臨席するにとどまった ({Orenstein} S.135)。そして、ラヴェルと ヴィトゲンシュタインとの共演は、パリでの演奏会以後、二度と実現することはなかったのである。

 1934年の秋、ヴィトゲンシュタインは楽旅のため初めてアメリカ大陸へと向かった。この楽旅の 目玉は何と言ってもラヴェルの協奏曲で、ヴィトゲンシュタインは11月4日にモントリオールで、 11月9日と10日にはボストンで、11月17日にはニュー・ヨークのカーネギー・ホールで この曲を演奏し、大変な成功を収めた ({Kim-Park} S.v,156)。以後 ヴィトゲンシュタインはこの作品を行く先々で演奏し、聴衆の喝采を浴びることとなる。

 ただし当のヴィトゲンシュタインは、この曲に相当の愛着を持っていたにしても、自らがこの 協奏曲に最高度の評価を与えていないことも公言してはばからなかった(Siehe {Flindell 1969} S.123)。)。 大作曲家の傑作に対するこうした態度があるいは世人には不遜なものに見えるところがあったのか、 既にヴィトゲンシュタインの生前から、彼の演奏技術を疑い、彼がラヴェルの協奏曲を技巧的に平易に なるように改変したと評する向きがあったようである。かくしてヴィトゲンシュタイン自身も 次のように抗弁せざるを得なかった。

 「 わたしはこの協奏曲が難しすぎると文句をつけたことなどありませんでした(実際、わたしの ために書かれた協奏曲全てに関して言うと、ラヴェルのそれはその中でも最も難しくないものなの です。)。
 わたしが変更を提案したのは本当ですが、でもそれは簡単にするためではありませんでした。 最後のカデンツァのピアノの入りの前のところです。しかしラヴェルは拒否しましたから、わたしは 彼に従わねばならず、また実際従ったのです!
 ラヴェルの指揮によりこの曲をパリで最初に演奏したのはわたしでした。ラヴェルは わたしの解釈に対してこれっぽっちの反対もしませんでした。仮に彼がわたしの解釈に満足して いなかったならば、彼は確かに反対したことでしょう。……」 (1948年8月の手紙。 {Flindell 1969} S.123)

 フランス初演を終えた1933年の夏、ラヴェルに深刻な運動機能の混乱の兆候が現われる。やがて 言語機能の障害も出現、症状は一進一退を繰り返し、ラヴェルは思うに任せぬ健康状態のまま仕事の 全くできない日々を送ることとなった(医師は彼の状態を次のように記録している。「不眠、記憶の 混濁、疲労、集中力の欠如、不安状態、正字法の誤り、書き方のわからなくなった文字がある。彼は 頑固である。不安が不快感の大きな要因になっている。……」 ({Stuckenschmidt} S.307))。 幸いラヴェルには献身的な友人が多くいたが、しかし誰の目から見ても、彼が内心深く苦しみ、 孤独感を強めているのは明らかだった。弟子のロザンタールは彼が最期まで精神の明晰さを 失わなかったと述べる一方、ときにほとんど錯乱状態に陥ることもあった様子を伝えている ({Rosenthal} S.218-229)。

 1937年、左手のための協奏曲に対するヴィトゲンシュタインの独占演奏権が切れたことにより、 フランスのピアニストによるこの曲の演奏がようやく可能となった。マルグリット・ロンの弟子で ラヴェルお気に入りの若手ピアニスト、ジャック・ファブリエが起用されることとなり、演奏会に 向けてはラヴェル自らがピアニストの指導にあたった。シャルル・ミュンシュ指揮による ミュンヘンでの演奏会は大成功に終わり ({Orenstein} S.138, {Long} S.89)、以後、この作品は速やかに コンサートのスタンダード・ナンバーにその名を連ねることとなる。同年12月、ラヴェルは 脳手術後の昏睡の中で死去。享年62歳。改変されていないかたちでの左手ための協奏曲の演奏が 生前に実現したことは、ラヴェル晩年の悲劇の中でもわずかばかりの幸いだったと言えるのかも しれない。

 

**未完**



#  録音について

 ラヴェルの左手のための協奏曲は、数多い左手のピアノのための作品の中でも、早くから群を 抜いて録音の数に恵まれてきた作品である。優秀な演奏や個性的な演奏も多く、強いてこれと いったひとつを代表盤として挙げることにはあまり意味がないのかもしれない。ここでは 特徴的な録音についていくつかを紹介するにとどめる他はない。

 シャルル・ミュンシュの指揮による3人のフランス系ピアニストの初期の録音については、 CD1枚にまとめられてダンテからリリースされており、便利である (Dante)。ジャクリーヌ・ブランカール、 アルフレッド・コルトー、ジャック・ファブリエの演奏はそれぞれ毛色が異なり、既に演奏史の 最初期からこの作品が多様な解釈を許すものとしてあったことを伺わせている。これらの中では コルトーの演奏がこのピアニストならではの幻想の深さにより高く評価されているようである。 ヴラド・ペルルミュテールの録音 (Vox)はラヴェルの権威の演奏として たいへんに貴重な記録であり、かつ今なお傾聴に値するもの。

 同じくフランスのピアニストでありマルグリット・ロンの最後の弟子であったサンソン・ フランソワの録音(EMI)は、ステレオ 初期の録音ではあるが、際だったセンスのよさが評価され、現在に至るまで長く聴き継がれている もの。このピアニストが1950年代に示した感性と表現の見事な調和の例としては、最良のもので あろう。フランソワのこの作品の演奏には映像も残されており (EMI)、優れた演奏と共にその美しい 手さばきを実際に確認することができる。ジャン・ドワイアンもまたロンの弟子であるが、 フランソワとはある意味で対照的な、懐の深い力強い演奏を遺している (Philips)。パスカル・ロジェの演奏 (Decca)は確実な技巧を駆使し硬派に 全曲をまとめ上げる一方、随所でいくぶん独特なフレージングも聴かれるところが面白い好演。

 ドイツ系ピアニストによる演奏は意外に多くなく、左手のピアニストとして東独で活躍した ジークフリート・ラップの録音が貴重である (edel)。卓越した技巧を感じさせるものでは 必ずしもないが、作品に対する誠実な献身には聴く者の心を強く打つものがある。アメリカの名手 レオン・フライシャーには2つ録音があるが、セルジウ・コミッシオーナと組んだ演奏 (Philips)は、このピアニストが未だ 両手で演奏することのできた60年代初頭の、あの集中力のあるテンションの高い演奏ぶりを髣髴と させる素晴らしい熱演である。

 世界初演者のヴィトゲンシュタインは2つの録音を遺している。1937年のブルーノ・ ヴァルターとの共演は、この協奏曲のほとんど最初の録音として、また1930年代の数少ない ライヴ録音として、そして珍しいヴァルターのラヴェル演奏の記録として、大変貴重なもの。 近年その資料的価値の高さのせいかいくつものレーベルからリリースされているため、入手は 必ずしも困難ではない。それらの中では、アムステルダム・コンセルトヘボウの年代別の録音を 収めたシリーズに収録されたもの (Radio Netherlands Music)が 最も問題が少ないであろうが(これのみが終演後の拍手と歓呼までを収録している。)、いずれに しても音質はあまりよくはない。上のコメントで触れたように、ピアニストは独自の改変を 施したピアノ・パートを演奏している一方で、オケ・パートはそれらしい改変もなく演奏されて いる様子が一応確認できる。ライヴであるだけにところどころ弾き間違いも見られ、技巧的に そう満足できるものではないが、他の録音では聴かれない猛烈なアッチェレランドなどもあり、 それなりの面白さがある。晩年のアメリカでのスタジオ録音 (Period)は、音質は多少改善 されてはいるものの、衰えは最早隠しようもなく、特筆すべきものではない。演奏解釈は戦前の録音と 特に違いは見られない。

 

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