SLH - PW_Werke_R.Strauss
        
        
    
    


Richard Strauss  (1864-1949)

リヒャルト・シュトラウス
1864年生(ドイツ・ミュンヘン)−1949年没(ドイツ・ガルミッシュ・パルテンキルヘン)


 幼い頃からピアノに才能を見せ、ピアニストとしてコンサートステージに立ったこともあった大作曲家 リヒャルト・シュトラウスが生涯に作曲したピアノとオーケストラのための協奏的作品は、意外なことに、 さほど目立たない3曲しかなく、それらはどれもフォーマルな「協奏曲」としての形式を持ったものでは ない。1曲目は、1885年から1886年にかけて作曲されたブルレスケ二短調、2曲目は1925年 作曲の家庭交響曲のパレルゴン作品73、3曲目が1927年作曲のパンアテネ行進曲作品74である。 後者2曲がヴィトゲンシュタインに捧げられた左手のピアノのための作品となっている。

 ブルレスケニ短調 Burleske D-Moll は、指揮者として初めて職を得たマイニンゲンで作曲された。 リヒャルト・シュトラウスをマイニンゲン伯に推挙し、代理指揮者に据えたのは、当時マイニンゲンの 宮廷オーケストラを指導していた名指揮者にしてピアニスト、ハンス・フォン・ビューローだった。 彼が仲の悪かったミュンヘンのホルン奏者フランツ・シュトラウスの息子リヒャルトをわざわざ招聘した のは、既に作曲家として名を挙げ始めていたリヒャルトに、並々ならぬ指揮の才能も見出していたからで あった。マイニンゲンでリヒャルトは巨匠の芸をつぶさに学ぶ機会を得、生涯にわたる影響を受けることと なる。ブルレスケニ短調は、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番の初演者としても知られるこの巨匠の ピアノを想定して書かれたものであった。

 ブルレスケは、ティンパニによる主要音形の提示に始まる、極めて独創的な構成を持つ単一楽章作品で あるが、しかし論者によってブラームスの影響の濃さを指摘されている ({Ahn & Yagi} S.25、 {Ongakunotomo a} S.117)。実際、 父親によって厳格な古典的音楽中心の教育を受けたリヒャルト・シュトラウスが、当時問題のひとで あったヴァーグナーの影響を受けて進歩的作風を見せ始めるのはこのマイニンゲン時代以降であり、 ブルレスケは古典と前衛との間で揺れる微妙な時代に作曲された作品だったわけである。

 1885年11月にブルレスケは作曲を開始され、翌86年2月に完成したが、しかし初演はすぐ には行われなかった。作曲者自身、試演の段階で作品に問題を感じ、またフォン・ビューロー自身 の拒否もあり、しばしお蔵入りとなったのである ({Ongakunotomo a} S.116)。初演は ようやく1890年6月21日に、作曲者自身の指揮とオイゲン・ダルベールのピアノによって行われた (死と浄化作品24と同時初演)。結局シュトラウスはこの曲に作品番号を与えることはなかったが、 しかし晩年に自らこの曲を指揮していることからして、全く無価値な作品と見なしていたわけでも ないようである ({Ongakunotomo a} S.117)。また、 彼の死後も演奏される機会はなくなったわけではなく、少なくともパレルゴン作品73やパンアテネ行進曲 作品74と比べれば、ある程度のポピュラリティを得ている作品であると言ってよいであろう。実際、 ひねりの効いた曲想、弾けるような生命感と随所に覗く叙情には、強い印象を残さずにはおかないものが あるのである。

 1886年、シュトラウスは交響的幻想曲「イタリアより」ト長調作品16を作曲する。言うなれば 交響詩の時代の始まりであり、以後1915年のアルプス交響曲作品64に至るまで、彼は次々と 交響詩というテーマで作品を発表していくことになる(1904年の家庭交響曲作品53やアルプス 交響曲作品64は「交響曲」と銘うたれてはいるが、論者はこれらを実質的に交響詩と見なしている。 Siehe {Ahn & Yagi} S.122)。 この時代にはピアノ協奏曲どころかそもそも協奏的作品が作曲されることはなく、続く一連の絢爛たる オペラの時代もそれは同じだった。ただそのわずかの例外が、パレルゴン作品73、パンアテネ行進曲 作品74だったのであり、彼が自らの芸術的要求によって協奏曲を作曲するのは、さらに進んで 第2次大戦中から戦後にかけての最晩年、1940年代のことだったのである。

 家庭交響曲のパレルゴン作品73とパンアテネ行進曲作品74が作曲されたのは、ブルレスケニ短調が 作曲されてから実に40年を経た1920年代中頃だった。また、さらに次なる協奏曲作品群の作曲まで 10数年を待たねばならなかったのだから、要するにこの2作品はシュトラウスの作品群の中では 孤立して存在していると言うこともできるわけで、この2作品の持つ意味は――それらが特に ヴィトゲンシュタインの希望を受け、彼を想定して作曲された、言うなればオーダーメイドの作品である という事情を考慮しても――ある程度興味あるテーマとなることであろう。




Parergon zur Sinfonia Domestica Op.73

家庭交響曲のパレルゴン 作品73

〇作曲
1924−1925年
〇初演
1925年10月6日、ドレスデンにて。指揮、フリッツ・ブッシュ。ドレスデン・シュターツカペレ。 独奏、パウル・ヴィトゲンシュタイン。
(アメリカ初演:1934年12月14日、シンシナティにて。指揮、ユージン・グーセンス。 シンシナティ交響楽団。独奏、パウル・ヴィトゲンシュタイン。)
〇出版
Boosey & Hawkes, London / Paris, 1964.
〇編成
フルート2、オーボエ2、イングリッシュ・ホルン、クラリネット(A)2、バス・クラリネット(A)、 ファゴット2、コントラファゴット、ホルン(E&F)4、トランペット(E&C)2、 トロンボーン3、バステューバ、ティンパニ、ハープ、弦楽
〇演奏時間
約22分
〇構成
単一楽章形式。


#  作品概観

 家庭交響曲のパレルゴン作品73は、カール・マリア・フォン・ヴェーバーの佳曲、 コンツェルトシュトゥックヘ短調作品79 Konzertstück F-Moll Op.79 を思い起こさせる、 悲劇的な前半部/喜びに沸く後半部、というわりに明快な構成をとる作品である。以下に夫々について 概観する。

前半部
 冒頭部分。ホルンとトランペットの警告のような響き(嬰ハ調)と弦のトレモロがクレッシェンドし、 やがて、下降音形を背後にして家庭交響曲作品53の「子供の主題」が――原曲とは対照的に ――悲劇的な色彩濃く提示される。冒頭の管による警告は、その後随所に現われ、全曲に一種基調的な 気分を与えている(まさに固定楽想 idée fixe ({Edel} S.112)として。)。やがてオケが静まった ところでピアノが指を慣らすかのようにラプソディックな楽句を奏でて登場。オケの悲劇的な響きの中で ピアノは細やかで即興的な旋律を刻んでゆき、いくつかの主要な動機を提示する。また下降音形がしきりに 顔を覗かせ、重苦しい雰囲気を醸しだす。
 やがてオケとピアノが大きく盛り上がりを見せたところで、強烈なティンパニの打撃を伴ってピアノに よる華やかな第2主題の提示となる(その音形は既に提示済みの動機に暗示されている)。この主題は さらにピアノにより技巧的に展開され(左手のピアノによる複リズム的進行。 Siehe {Kim-Park} S.133)、活発なピアノをオケが 支える精力的な箇所となる。しかしやがてオケの響きが暗転し、再び重苦しい曲想となる。ピアノは 執拗に低音を叩きつける。悩み迷うような混沌とした響きが続いた後、管により強烈に第1主題 冒頭音形が叫ばれ、やがてオケの響きは静まっていく。次いで、ピアノがトリルと細やかな旋律を奏でる 短いカデンツァ。

後半部
 平安な響きの中でクラリネットが極めて美しい牧歌的な第3主題を提示し、鮮やかに全曲の 雰囲気の転換を告げる。続いてピアノが変形された第2主題を提示し、オケとともに活発に展開する。 気分を高揚させるような上昇音形による第4主題も提示され、ピアノとオケが華やかにかけ合う。
 管の警告が突然鳴り、雰囲気の暗転。管による警告と、暗く重い響きが背景で繰り返され、 ピアノは逡巡しつつ進む。やがてふいにまた明るい雰囲気が戻り、ピアノが第3主題をリズミカルに 歌いだす。第2主題の音形によりピアノとオケが華やかに盛り上がり、オケによる情熱的な第4主題の 提示。この一連の部分の曲想処理は実に見事である。そして平安な雰囲気の中でオケが第3主題を 歌い上げ、終結部分に続く。
 ピアノが第2主題の音形によって活発に歌い出し、オケが強烈に咆哮。ピアノの輝かしい上昇音形の後、 再び管による警告が戻るが、オケにより回帰する第1主題の音形は力強くピアノを支え、見事な凱歌と なる。最後にオケとピアノが、これまでの主題の音形を暗示させつつ激しく盛り上がり、豪快に和音を 鳴らして終わる。



#  コメント

 タイトルの「パレルゴン Parergon 」は、ラテン語経由でドイツ語に入ってきたギリシア語 (πάρεργον)であり、Neben-werk すなわち付随的作品、 付録の意である。近時は美学の文脈において、ジャック・デリダの議論などとの関連で注目されている概念 であるようではあるが、この作品のタイトルとしては、家庭交響曲作品53から最も重要な第1主題が 採られているという以上の含意を見出す必要はさしあたりないであろう。

 (なお、タイトル Parergon zur Sinfonia Domestica の中の前置詞 zu ( zur は前置詞 zu と定冠詞 der の縮約形)については、「ための」「への」という訳があてられる場合があるが、ここでは さしあたり「の」という訳を採ることにする。Grosses Deutsch-Japanisches Wörterbuch , Shogakukan, 1985 (1990), S.2627 より、der Text zu einer Oper 「オペラの台本」。)

 シュトラウスがパウル・ヴィトゲンシュタインからいつ作曲の依頼を受けたのかについては、詳しくは わからないし、そもそもシュトラウスとヴィトゲンシュタインの交流がいつ始まったのかも、明らか ではない。1882年のヴィーン旅行の際にヴィトゲンシュタイン家と初めて接触を持った可能性が 指摘されてはいるが、確かではない ({Werbeck 1999} S.17)。 ただいずれにしても、このときシュトラウスは演奏会で自作のヴァイオリン協奏曲のピアノ伴奏をし、 ハンスリックの賞賛を得るほどの成功を収めたため、ヴィーンの音楽愛好家たち――当時産業界に急速に 頭角を現しつつあったパウルの父、カール・ヴィトゲンシュタインを含め――にある程度の印象を残した ことは容易に想像できよう(Siehe {Ongakunotomo a} S.121)。 間違いないのは、後年、一流作曲家の評価を勝ち得たシュトラウスがヴィトゲンシュタイン家にしばしば 出入りすることがあったということであり、著名な指揮者・音楽学者であるノーマン・デル・マーに よると({Kim-Park} S.127, Anm.121)、その際 シュトラウスは若きヴィトゲンシュタインとピアノの連弾を楽しむこともあったようである。とにかく、 シュトラウスがヴィトゲンシュタインからピアノ協奏曲の作曲を依頼された時期としては、他の作曲家たち にも集中的に左手のための作品の作曲が委託されている1920年代初め頃を想定する他はないように 思われる(Siehe {Kim-Park} S.127)。

 作曲時期についてもあまり判然としないところがあるが、作曲家は1924年の後半には作曲に 従事していて、翌25年1月に総譜が完成をみたことが一応知られている ({Werbeck 1999} S.18-19)。しかしその後 ピアニストとの楽譜の検討の段階でピアノとオーケストラのバランスについて再度調整が行われ、 同年10月6日、名指揮者フリッツ・ブッシュ(ヴァイオリニストのアドルフとチェリストのヘルマンの 兄)と、シュトラウスとゆかりの深いドレスデン・シュターツカペレにより初演された。同月 下旬にはハンブルク(オイゲン・パプスト指揮)で、翌11月にはベルリンとライプツィヒ (ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団/ライプツィヒ・ ゲヴァントハウス管弦楽団)、そしてアムステルダム(ピエール・モントゥー指揮、王立コンセルトヘボウ 管弦楽団)で再演。翌26年2月にはヴィーン初演(パウル・ブライザッハ指揮、ヴィーン交響楽団)が 行われた({Kim-Park} S.ii , {Flindell 1971b} S.115 Anm.44)。

 パレルゴン作品73の作曲が、ヴィトゲンシュタインからの依頼ということを抜きにすれば、作曲家の 息子フランツの大病に動機付けられていたことはほぼ間違いがない。1924年に結婚したフランツは、 新婚旅行先のエジプトで重いチフスに罹患し、危うく命を落とすところだった。息子が命に関わる重病を 患い、奇跡的に回復を見たこと――単純に言えばこのことがパレルゴン作品73に描かれているわけ である(言うまでもなく、パレルゴン作品73の第1主題として使われている家庭交響曲作品53の 「子供の主題」は、このフランツと結び付けられるものである。)。

 だがこれはやはり単純に過ぎる理解なのかもしれないのであって、病と回復、そしてエジプトという この3つは、この息子フランツのエピソードを超えてシュトラウスの心底に響くものを持っていたと 考えることもできる。もちろんわれわれは既に1890年初演の交響詩、死と変容作品24において 病者の苦しみと救い(それは必ずしも「回復」を意味するものではないのだが)が見事なまでに描き 出されていたことを知っている。しかしシュトラウスが真に現実に深刻な病に脅かされたのはさらに その後の1892年だった。シュトラウスは過労のせいもあり深刻な肺病を患い、指揮活動ができなく なるほどにまでなったのである。遂に彼はギリシアそしてエジプトへと環境を替え、静養することと なる。

 幸い暖かい気候が効を奏したのか、シュトラウスは――エジプトで1作目のオペラ、グントラム 作品25の作曲に集中的に取り組めるようになるまでに――心身共に健康を取り戻すことができた。だが シュトラウスがドイツへ帰国した後、1894年2月、既に死病を患っていた師ハンス・フォン・ ビューローが、療養先のカイロで没する。フォン・ビューローは、エジプト旅行がシュトラウスに もたらした好影響を自らにも期待してカイロに向かったのだった。シュトラウスは複雑な思いを抱いた に違いない。そして、そのおよそ30年後の息子フランツのエジプト旅行での重病――このエジプトと いう地を鍵にした偶然の符丁がシュトラウスにインスピレーションをもたらし、この作品に結実した ものと思われるのである(Siehe {Ahn & Yagi} S.37-41, {Werbeck 1999} S.18-19)。

 作品の完成までには、他のヴィトゲンシュタインのために作曲されたいくつかの作品と同様、多少の 曲折があったと想像される。総譜の一応の完成後に、さらにヴィトゲンシュタインとの検討の過程が あったことは既述した。ヴィトゲンシュタインの言い分、ピアノ・パートは輝かしいものである必要が あり、曲の最高潮においてオケと対峙してなお聴き取れるものでなければならない、という意見は、 いささか無理難題めいてはいたが、しかしそれは「協奏曲」である以上ピアニストとしては簡単には 譲り難い条件であった ({Flindell 1971b} S.121)。 最終的に出来上がったかたちは、ピアノとオケのバランスが相当に考えぬかれ、細心の注意を払って 演奏すればピアノの力強さが十分に際立つものとなったが、管弦楽法の大家たるシュトラウスにしても、 かなりの苦心があった筈である(シュトラウスは完成後もなお不満を抱いていたと言われるが、それには ヴィトゲンシュタインの要求をいささか意に反するかたちで呑むことになったためという事情も絡んでいた ことだろう(Siehe {Flindell 1971b} S.121 Anm.64)。こうした技術的問題への関心が、次なる作品、パンアテネ行進曲作品74の作曲につながって いったと言われている。)。

 また、こうしたこととは全く異なる事情の問題もあった。当時シュトラウスは出版社との間で著作権の 問題を抱えており、自作の主題の引用についてデリケートな判断をせざるを得ない状況にあった。要するに 作品の本質上、作曲家としては何としても家庭交響曲作品53の主題を使う必要があったにも関わらず、 それが法を犯す可能性があることを考慮せざるを得なかったのである。そのためシュトラウスは 家庭交響曲作品53からは主題をひとつしか引用できず、それも4小節以上は引用できなかった (あるいは家庭交響曲作品53の「子供の主題」の落ち着きと温かみのある性格が極めて悲劇的なものに 変えられているということすらも、このことと関係していたのであろうか??)。それでも出版社側は 作曲家のこうした措置に納得せずに演奏の差し止めを図ったが、幸いにしてそれは認められなかった ようである({Kim-Park} S.131, {Roy} Abschn.8)。著作権法の制定は実は若きシュトラウス が情熱を傾けて取り組んだ活動のひとつであったのだが (Siehe {Ahn & Yagi} S.54-55)、それが皮肉にも 自らの創作を脅かすことになったわけである。

 1925年10月のドレスデンでの初演はある程度の歓迎を受けたようではあるが、批評家の高踏的な 趣味には合わないところがあったらしく、醒めた評価が下されている。

 「ヴィトゲンシュタインは最高度の音楽性と技巧的至芸を完全に示してこの作品を演奏した。聴衆には すばらしく好評だった。」
 「[シュトラウスは]精神的な深みを揺さぶることのない、刺激的で絢爛たる上等な娯楽音楽を 作り上げた。」
 「[おそらくシュトラウスは]交響詩作曲家・オペラ作曲家として活動するうちにこのような作品を 構築するのに要する感性を失ってしまったのだ。」
(共に『音楽 Musik 』誌、1925年12月発行、第18巻3号掲載の世界初演評。 {Kim-Park} S.xi, {Werbeck 1999} S.21)

 初演の出来については、ピアニスト自身も実は満足していなかった。しかし同月のハンブルクでの再演は 大成功に終わったし、批評家の反応も否定的なものだけが続いたわけではなく、翌年2月のヴィーン初演の 際には『新自由新報 Neue Freie Presse 』に(おそらくユリウス・コルンゴルトのものと思われる) 好意的な批評が掲載された ({Kim-Park} S.128, xi)。ヴィトゲンシュタインは 大いに意を強くしたことだろう。

 それはそれとしても――この作品が娯楽音楽 Unterhaltungsmusik であるというのは、ある意味で当を 得た評だった。明確な構成、起伏ある曲想、旋律の美しさ、終始活躍を見せるピアノの華麗な技巧と、 管弦楽の色彩感、表情の豊かさ――こうしたパレルゴン作品73の特徴はまさに「上等な娯楽音楽」に 相応しいものであろうから。だが聴衆を素直に喜ばせ楽しませる類の音楽が絶対的な価値において劣ると 考えられるならば、それはあまりに偏狭な意見であると言わねばならない。それはたとえば、モーツァルト の素晴らしい長調作品の数々を想起しても明らかである。むしろわれわれは、この作品に見られるような 一種の明朗さがリヒャルト・シュトラウスの一面であること(それが最も昇華されたかたちで現われる のが、晩年の一連の協奏曲作品群であろう)を認め、あのような重いテーマをかくも率直に語りえた彼の 手腕に驚くべきであろう。もっとも前述のとおり、彼が作曲の過程で相当に苦労し試行錯誤を重ねたことは 確かで、彼の遺稿にはこの作品についての夥しい量の草稿が含まれていると言われている ({Flindell 1971b} S.121)。

 実はヴィトゲンシュタインは、作曲家による書き直しを経ても、なおこの作品のピアノ・パートと オケとのバランスについて問題を感じつづけていたようで、晩年に至っても不満を漏らしていた ({Kim-Park} S.128 Anm.123)。しかし1934年の アメリカへの最初の楽旅の際にラヴェルの協奏曲と共にアメリカ初演を果たしており、また最晩年には ステレオ録音まで行っていることなど、この作品に対する並々ならぬ愛着を伺わせるに足る事実もある。 ちなみにヴィトゲンシュタインはこの作品の対価としてシュトラウスに25000ドルを支払っており ({Kim-Park} S.129)、他の委託作品と同様に、 独占演奏権を保持していた。そのため彼以外のピアニストがこの作品を演奏できるようになるには、 1950年まで待たねばならなかったのであり ({Krause} S.30)、この独占演奏権なるものが―― これまた他の委託作品と同様――作品の普及を阻害した1要因となったことは、ほぼ間違いがないで あろう。

**未完**



#  録音について

 家庭交響曲のパレルゴン作品73の録音は他のシュトラウス作品と比べてそう多いわけではないが、 その要因としては、作品自体の知名度の低さと共に、演奏と録音の両面の技術的困難さがあったのでは ないかと思われる。レーゼルとケンペ、そして初演団体のドレスデン・シュターツカペレによる演奏 (EMI) は、その点で信頼のおけるものであり、規範的な価値が認められよう。ゴウラリとリッケンバッハー、 バンベルク交響楽団の演奏(KOCH) は、ピアノの誠実さが好ましい印象を与える佳演。共感の深さや力強さ、録音のバランスのよさなど、 ホブソン、デル・マー、フィルハーモニア管弦楽団の録音 (Arabesque)は驚嘆すべきものが ある。

 初演者ヴィトゲンシュタインの録音 (Boston)は、最晩年の演奏 であり、ピアノの音色の美しさが見事ではあるが、弾き間違いやたどたどしい打鍵など、技術的に非常に 問題が多いものである。だがそれ以上に、ほとんど改竄版と言ってよいほどに至るところで独奏部に手が 加えられており、低音の追加、音形の変更が顕著である。何と言っても最大の問題は、カデンツァの拡大と 第3主題の提示箇所の書き換え(オケではなくピアノ独奏による提示。楽譜どおりの提示はピアノ独奏の あとに初めて行われており、それにピアノの伴奏音形が付加されている。)であり、同時期のラヴェルの 協奏曲の録音に見られる独奏部の変更は、これと比べるとまだ全然ましであるとすら言える(ただし サイモンとボストン・レコード管弦楽団による伴奏は、テンポ、音色、表情共に極めて理想的であり、特に 終結部分の表現など、これ以上のものは求めがたい。)。むしろこのレコードの価値は、併録の左手の ための編曲集(特にレシェティツキとヴァーグナー)にあるように思われる。

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Panathenäenzug, Sinfonische Etüden in Form einer Passacaglia für Klavier und Orchester  Op.74

パンアテネ行進曲、ピアノと管弦楽のためのパッサカリア形式による交響的練習曲 作品74

〇作曲
1926−1927年
〇初演
1928年1月16日、ベルリンにて。指揮、ブルーノ・ヴァルター。ベルリン・ フィルハーモニー管弦楽団。独奏、パウル・ヴィトゲンシュタイン。
〇出版
Waldheim-Eberle A.G., Wien, 1928(手稿複写版・2台ピアノ譜)
Hawkes & Son, London, 1953.
〇編成
フルート(ピッコロ持ち替え)3、オーボエ2、イングリッシュ・ホルン、クラリネット2、 バス・クラリネット、ファゴット3、ホルン4、トランペット3、トロンボーン3、テューバ、 ティンパニ、打楽器、チェレスタ、弦楽
〇演奏時間
約27分
〇構成
単一楽章形式(パッサカリア形式)。


#  作品概観

 パンアテネ行進曲作品74は「パッサカリア形式による in Form einer Passacaglia 」と銘打たれて はいるが、必ずしも明確にそうなっているわけではなく、変奏は曲の進行の中でやがて自由な―― 不明瞭な――展開を見せるようになる。むしろ単一楽章の交響曲乃至交響詩のごときものとして見る ほうが簡単であり、全体の気分に大まかな区切りを見出すことを試みる方がよいのかもしれない ({Edel}が紹介しているノーマン・デル・マーによる 区分(S.113)では、導入部、ふたつの間奏曲、コーダ、となっている。)。

 開始部分。重々しい管のファンファーレが古代ギリシアのアテナ神の祝祭の開始を告げ、豪快な左手の ピアノの第1カデンツァがすかさず続く。単旋律的ではあるが鍵盤を力感をこめて走り抜ける強烈な カデンツァで、ピアニストには技術的体力的に極めて大きなものが要求される。やがてピアノが音階を 一気に駆け上がったところで、オケの和音の一撃と共にパッサカリアが始まる。
 チェロとコントラバスのピツィカートによるパッサカリア主題は、前半4小節で音階を下降し後半 4小節で上昇するシンプルなもの。この主題の反復にオケとピアノの語らいを乗せて、しばし厳格な パッサカリアが進行する({Kim-Park}によると (S.141)、最初の20変奏には楽譜に二重線の区切りが記されているという。)。この一連の変奏は 穏やかな雰囲気を保って変転に乏しく、一見すると単調なものであるが、その実、オケの各楽器が効果的 に用いられ、ピアノのきめの細かな響きと見事にとけあう職人芸的な美しさを持つ箇所となっている。

 パッサカリアは第19変奏あたりから崩れ始める。やがて静かな感動のこもった響きに至るが、 突如ティンパニとピアノの活発な動きによって転回し、交響曲におけるスケルツォ楽章的な箇所に移る。 この箇所のピアノの音形に含まれる跳躍や和音の進行は、オーケストラの快活な響きと相俟って非常に 面白いが、恐らく単純に受ける印象以上に弾きにくいものであろう。管により冒頭のファンファーレが 途中で回想されて盛り上がりをつくり、急転して静かにハープとピアノが絡む平安な箇所となる。やがて チェレスタも加わり、弦の響きと共に清澄な色彩感が醸され、ピアノは静かに細やかに伴奏音形を 奏でる。だが突如ピアノが低音を鳴らし、シンバルや管が鋭く合いの手を入れて緊迫する。そして ファンファーレが再び荘重に回帰し、ピアノの第2カデンツァが始まる。

 冒頭のカデンツァとは異なり、第2カデンツァは穏やかなもの。ファンファーレの音形を鍵にしつつ、 対位法的に、感情を静めて展開される。やがて雰囲気をそのままにオケが静かにピアノに和し、暖かく 優しい響きとなるとなる。ピアノが徐々に感情を高め、訴えかけるように和音を響かせたところで、 またしてもファンファーレが回帰し、最終部分へ。ピアノが第1カデンツァの音形を強烈に響かせ、 オケがひととおり輝かしく歌う。その後ピアノが活発に豪快に展開し始め、オケと唱和して盛り上がり、 最後にファンファーレが響く中で(第1カデンツァの終わりと同様に)ピアノが音階を駆け上って力強く 終わる。



#  コメント

 タイトル Panathenäenzug は「アテナ神の祭典」の意の名詞 Pan-Athenäen と「進行」 「行列」の意の名詞 Zug から成る造語である。ドイツ語 Pan-Athenäen の元のギリシア語 Παν-αθήναια は古代アテネにおける大小ふたつの 祭典をあわせて指す言葉であり(中性複数形)、つまりオリンピア紀第3年に開催される大祭とそれ以外の 毎年開催される例祭のことを意味する(AN INTERMEDIATE GREEK-ENGLISH LEXICON , Oxford University Press, 1889 (1999), S.589)。さしあたり訳としては「パンアテネ行進曲」として おきたいが、これとは違った訳のつけ方もありうるであろう(上記のギリシア語の意味からすると、たまに 見かけられる「アテネの大祭」という訳は適切ではないことになるが、英語やドイツ語における対応語、 Panathenaea や Panathenäen が――複数形であるとしても――特に「大祭」を意味する可能性は 残る。)。

 パンアテネ行進曲作品74は家庭交響曲のパレルゴン作品73の作曲からあまり期間を置かずに作曲 された。しかもパウル・ヴィトゲンシュタインの依頼を抜きにしてであり、要するに作曲家はこの作品を 「自発的に」作曲したのである。その動機がどこにあったのかは問題であるのだが、ピアニスト自身は 1939年に次のように証言している。

 「だがリヒャルト・シュトラウスがわたしのために10年前にピアノとオーケストラのための 『パンアテネ行進曲』を書いたことを知っているひとはほとんどいない。わたしが楽旅に出ている ときに、シュトラウスがわたしのマネージャーに電話をしてこう告げたのである。わたしは自分の書いた 作品のピアノの登場機会に彼が完全に満足していないのを知っている、わたしにアイデアがあって、 それは低音部での一連の変奏――パッサカリア――に関するものなのだが、この一連の変奏は音域により ゆとりがあってより輝かしいものとなるだろう、と。この曲をわたしは後にブルーノ・ヴァルターの 指揮で演奏した。」 ({Flindell 1971b} S.122)

 だがピアニストのみならず、作曲家自身も家庭交響曲のパレルゴン作品73の出来に完全に満足して いなかったことは確かである(そうでなければピアニストの不満など黙殺すればよいのだから。)。 想像するにそれは当代随一の管弦楽法の大家としてのプライドに関わる問題だった。あるいは左手の ための作品に挑戦した他の作曲家たちも共通に感じていたであろう、言わば「不可能への挑戦」に対する 意欲も、これに関係していたであろうか (Vergleiche {Ongakunotomo b} S.44) 。

 とにかくシュトラウスは次なる新作の構想を恐らく家庭交響曲のパレルゴン作品73の初演後すぐに 練り始めた。それはやがてひとつの主題を巡る変奏曲というかたちを取りはじめる。マネージャーから の知らせを聞いたヴィトゲンシュタインは再会を待ち望む旨の手紙をノルウェーのベルゲンから作曲家に 対してしたため(1926年3月14日付け。 {Werbeck 1999} S.25, Anm.21)、その数日後、 ふたりはプラハで会見する。シュトラウスはそこで新作に使われるべきパッサカリア主題をピアニストに 提示し、意見の交換が行われた ({Flindell 1971b}には、この会見の際に シュトラウスがヴィトゲンシュタインに贈った楽譜の写真が掲載されていて(3月23日と注記。 S.114)、そこにあるメロディはパンアテネ行進曲作品74のパッサカリア主題とほぼ同じもので ある。)。その後シュトラウスは本格的に作曲作業に入ったものと思われる。作品は翌1927年2月 14日に完成する({Werbeck 1999} S.20)。

 パンアテネ行進曲作品74については、さしあたりふたつの点が問題になろう。ひとつめはどうして パッサカリア形式なのかということ、ふたつめはどうして古代ギリシアの祭典を題材にとったのかと いうことである。

 後者の点について言うと、古代ギリシアから創作の題材を得ることはシュトラウスにとっては珍しい ことではなかったということがある。歌劇、エレクトラ作品58、ナクソスのアリアドネ作品60、 エジプトのヘレナ作品75、ダフネ作品82、ダナエの愛作品83などがそれにあたる。これらの作品の 多くが作曲家の盟友フーゴー・フォン・ホーフマンスタールの台本に拠るものであったが、パンアテネ 行進曲作品74に関しても、フォン・ホーフマンスタールから直接的なインスピレーションを受けたらしい ことが論者によって指摘されている(作曲家がベートーヴェンの劇音楽アテネの廃墟作品113の改作に 取り組んでいた時期のフォン・ホーフマンスタールからの手紙(1922年)に、有名なパルテノン神殿 のフリースに描かれた祝祭行列についての記述があるという。)。また、パンアテネ行進曲作品74の 作曲時期にちょうど当たる1926年に作曲家がギリシア旅行をしているということも、この問題と いかにも関係がありそうである ({Werbeck 1999} S.21-22, 25, Anm.29)。

 パッサカリア形式――変奏曲形式の選択ということについては、いくつかのことが指摘されうる。まず その副題「交響的練習曲 Sinfonische Etüden 」がシューマンの同題の変奏曲(作品13と遺作。 前者は主題と12の練習曲(9変奏)、後者は5変奏。)を想起させるということ、また、マイニンゲン 時代に交流したブラームスの交響曲第4番作品98(1885年10月25日、マイニンゲンにて初演) の第4楽章がパッサカリア形式を採用しているということ ({Werbeck 1999} S.22)。これらの作品が シュトラウスの作曲に何らかの示唆を与えたということはおそらく確かであろう。またこれら過去の 名作の他にも、1924年に初演されたばかりのフランツ・シュミットの作品、ベートーヴェンの主題に よる協奏的変奏曲が、既に左手のピアノとオーケストラによる変奏曲というものの可能性を見事に 例証していたということも、当然彼の意識にはあったと思われる。これら先立つ範例をシュトラウスが 具体的にどのように生かしたかは明らかではないが、結果としてパッサカリア形式の導入は、無闇にオケと ピアノを競わせることなく、自然な仕方で様々な楽器の色彩とピアノの響きをとけあわせることを 可能にした。もっともパンアテネ行進曲作品74は明確なパッサカリアに終始せず、一種交響曲的な 展開をも含みこむ作品とはなったのだが(この形式における動揺をどう評価すべきかはひとつの問題で あろう)、しかし作品の全体ににわたりこの絶妙な響きのバランスが保たれているのは見事と言う 他はない。

 作曲家としては、左手のピアノとオーケストラという編成の扱いについて、ひとつの理想形に達したとの 思いがあったのかもしれない。そのためか、今回はヴィトゲンシュタインの方も、内心バランスに関して 相変わらずの不満を抱きはしたものの、楽譜の再検討を強力に主張はしなかったようである (ピアニストの不満については、Siehe {Kim-Park} S.130 あるいは大作曲家による自発的な作曲ということに多少の遠慮を感じていた、ということも あったのかもしれない。ヴィトゲンシュタインがこの作品の対価を作曲家に支払ったかどうかは定か ではない。)。そしてこの作曲家の自信の深さは――失敗に終わった1928年1月16日のベルリン での初演後にピアニストに宛てた手紙の中で、一種の不満をにじませて表白されることとなる。

 「……新聞でベルリンのポズヴィッツ氏があなたのためにわたしが書いた作品をあのようにずたずたに してしまったことは、とても残念なことでした。パンアテネ行進曲が悪い作品ではないということは、 わたしにはわかっていましたし、もちろんこの作品を、一方的な拒絶の洗礼を浴びるような、 そのようなものと見なしていたわけではありませんでした。……」 (1928年2月8日付け。{Flindell 1971a} S.426)

 世界初演における批評家の評価の厳しさは、家庭交響曲のパレルゴン作品73のときと同様で あったようである。今回はヴィーン初演(3月11日、フランツ・シャルク指揮、ヴィーン・ フィルハーモニー管弦楽団)についての批評も、ピアニストに対しては好意的であったものの、 作品自体に対しては全面的な賞賛とはいかなかった (『新自由新報 Neue Freie Presse 』、3月15日掲載のユリウス・コルンゴルトによる批評。 Siehe {Kim-Park} S.xii, {Werbeck 1999} S.21)。演奏を重ねるにつれ 好評を得るようにはなったが、結局のところ再演はそう長く続いたわけではないようである (先に引用したヴィトゲンシュタインの1939年の発言を見る限り、少なくともその時点までに アメリカでこの作品を演奏したことはなかったように思われる。)。

 家庭交響曲のパレルゴン作品73もパンアテネ行進曲作品74も、周囲から全面的に歓迎された作品で あったわけではなかった。特に初演の不評は特徴的で、それには様々な要因が関係していたのであろうが、 そもそもの問題として、ひとびとが当時シュトラウスに対して期待していたのは協奏曲ではなくオペラ だった、ということもあった。1905年のオペラ、サロメ作品54の成功以来、シュトラウスは軸足を 交響詩からオペラへと移し、オペラ以外の大作はほとんど作曲してこなかったのであり、当代最高の オペラ作曲家として、ひとびとは彼に次なる傑作オペラの発表を待ち望んでいたわけだから、そのような 状況で突然立て続けに奇妙な形式の協奏曲を2曲も発表するというのは、聴衆にとってみれば一種 冷や水をかけられるようなものだったのかもしれない。とはいえシュトラウスにとっては当然いきさつの あることであったし、ある程度の芸術的意欲も伴った仕事だったのだが、それは聴衆にとってはおそらく あまりに個人的な事情でありすぎた。しかしともかくもパンアテネ行進曲作品74の作曲後、 シュトラウスは速やかに声楽曲の世界に戻る。パンアテネ行進曲作品74がひとつの芸術的課題に対する 彼の最終的な答案だったとするならば、それもまた至極当然のなりゆきだったであろう。要するに シュトラウスは一貫して自己の道を進んだだけだったのかもしれない――それが聴衆の道と合致して いたかどうかはともかく。

 シュトラウスの作品に対するヴィトゲンシュタインの高い評価は、ピアノの扱いに相当に不満を つのらせていたにせよ、晩年に至るまで揺るぎなかった。ヴィトゲンシュタインにとって、シュトラウスは ラヴェルと比べても「どこまでもより重要な作曲家」だったのである ({Flindell 1971b} S.122)。 ヴィトゲンシュタインはシュトラウスの指揮でパンアテネ行進曲作品74を演奏することを望んでいた ようであるが、それが果たして実現したかどうかは定かではない ({Kim-Park}は実現しなかったとしているが (S.130)、{Flindell 1971b}に挙げられている ヴィトゲンシュタインの競演リスト(S.115, Anm.44)からは、ブダペストとプラハでシュトラウスとの 競演の機会があったことが一応わかる(日付やオーケストラ名、曲目は不明)。)。ところで シュトラウスの方は、ヴィトゲンシュタインへの手紙の中でトスカニーニに指揮を勧める内容の手紙を 送ったことを伝えているが、トスカニーニは「目が悪いせいで」最早自分の作品の総譜に進んで取り組み はしないと思う、とも言い添えているのが面白い ({Flindell 1971a} S.427)。

**未完**



#  録音について

 パンアテネ行進曲作品74は、現在に至るまで録音の機会にあまり恵まれておらず、シュトラウスの 作品の中ではほとんど秘曲的な扱いとなっている。そうした状況において、レーゼルの優れた演奏 (EMI)が―― 家庭交響曲のパレルゴン作品73の演奏と共に――有名なケンペによるシュトラウスの管弦楽作品全集に 含まれていることは、幸運と言うべきであろう。ゴウラリの演奏 (KOCH)も、多少地味な 印象はあるが、安心して聴くことができる立派なものである。




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