タイトルの「パレルゴン Parergon 」は、ラテン語経由でドイツ語に入ってきたギリシア語
(πάρεργον)であり、Neben-werk すなわち付随的作品、
付録の意である。近時は美学の文脈において、ジャック・デリダの議論などとの関連で注目されている概念
であるようではあるが、この作品のタイトルとしては、家庭交響曲作品53から最も重要な第1主題が
採られているという以上の含意を見出す必要はさしあたりないであろう。
(なお、タイトル Parergon zur Sinfonia Domestica の中の前置詞 zu ( zur は前置詞 zu
と定冠詞 der の縮約形)については、「ための」「への」という訳があてられる場合があるが、ここでは
さしあたり「の」という訳を採ることにする。Grosses Deutsch-Japanisches Wörterbuch ,
Shogakukan, 1985 (1990), S.2627 より、der Text zu einer Oper 「オペラの台本」。)
シュトラウスがパウル・ヴィトゲンシュタインからいつ作曲の依頼を受けたのかについては、詳しくは
わからないし、そもそもシュトラウスとヴィトゲンシュタインの交流がいつ始まったのかも、明らか
ではない。1882年のヴィーン旅行の際にヴィトゲンシュタイン家と初めて接触を持った可能性が
指摘されてはいるが、確かではない
({Werbeck 1999} S.17)。
ただいずれにしても、このときシュトラウスは演奏会で自作のヴァイオリン協奏曲のピアノ伴奏をし、
ハンスリックの賞賛を得るほどの成功を収めたため、ヴィーンの音楽愛好家たち――当時産業界に急速に
頭角を現しつつあったパウルの父、カール・ヴィトゲンシュタインを含め――にある程度の印象を残した
ことは容易に想像できよう(Siehe
{Ongakunotomo a} S.121)。
間違いないのは、後年、一流作曲家の評価を勝ち得たシュトラウスがヴィトゲンシュタイン家にしばしば
出入りすることがあったということであり、著名な指揮者・音楽学者であるノーマン・デル・マーに
よると({Kim-Park} S.127, Anm.121)、その際
シュトラウスは若きヴィトゲンシュタインとピアノの連弾を楽しむこともあったようである。とにかく、
シュトラウスがヴィトゲンシュタインからピアノ協奏曲の作曲を依頼された時期としては、他の作曲家たち
にも集中的に左手のための作品の作曲が委託されている1920年代初め頃を想定する他はないように
思われる(Siehe {Kim-Park} S.127)。
作曲時期についてもあまり判然としないところがあるが、作曲家は1924年の後半には作曲に
従事していて、翌25年1月に総譜が完成をみたことが一応知られている
({Werbeck 1999} S.18-19)。しかしその後
ピアニストとの楽譜の検討の段階でピアノとオーケストラのバランスについて再度調整が行われ、
同年10月6日、名指揮者フリッツ・ブッシュ(ヴァイオリニストのアドルフとチェリストのヘルマンの
兄)と、シュトラウスとゆかりの深いドレスデン・シュターツカペレにより初演された。同月
下旬にはハンブルク(オイゲン・パプスト指揮)で、翌11月にはベルリンとライプツィヒ
(ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団/ライプツィヒ・
ゲヴァントハウス管弦楽団)、そしてアムステルダム(ピエール・モントゥー指揮、王立コンセルトヘボウ
管弦楽団)で再演。翌26年2月にはヴィーン初演(パウル・ブライザッハ指揮、ヴィーン交響楽団)が
行われた({Kim-Park} S.ii ,
{Flindell 1971b} S.115 Anm.44)。
パレルゴン作品73の作曲が、ヴィトゲンシュタインからの依頼ということを抜きにすれば、作曲家の
息子フランツの大病に動機付けられていたことはほぼ間違いがない。1924年に結婚したフランツは、
新婚旅行先のエジプトで重いチフスに罹患し、危うく命を落とすところだった。息子が命に関わる重病を
患い、奇跡的に回復を見たこと――単純に言えばこのことがパレルゴン作品73に描かれているわけ
である(言うまでもなく、パレルゴン作品73の第1主題として使われている家庭交響曲作品53の
「子供の主題」は、このフランツと結び付けられるものである。)。
だがこれはやはり単純に過ぎる理解なのかもしれないのであって、病と回復、そしてエジプトという
この3つは、この息子フランツのエピソードを超えてシュトラウスの心底に響くものを持っていたと
考えることもできる。もちろんわれわれは既に1890年初演の交響詩、死と変容作品24において
病者の苦しみと救い(それは必ずしも「回復」を意味するものではないのだが)が見事なまでに描き
出されていたことを知っている。しかしシュトラウスが真に現実に深刻な病に脅かされたのはさらに
その後の1892年だった。シュトラウスは過労のせいもあり深刻な肺病を患い、指揮活動ができなく
なるほどにまでなったのである。遂に彼はギリシアそしてエジプトへと環境を替え、静養することと
なる。
幸い暖かい気候が効を奏したのか、シュトラウスは――エジプトで1作目のオペラ、グントラム
作品25の作曲に集中的に取り組めるようになるまでに――心身共に健康を取り戻すことができた。だが
シュトラウスがドイツへ帰国した後、1894年2月、既に死病を患っていた師ハンス・フォン・
ビューローが、療養先のカイロで没する。フォン・ビューローは、エジプト旅行がシュトラウスに
もたらした好影響を自らにも期待してカイロに向かったのだった。シュトラウスは複雑な思いを抱いた
に違いない。そして、そのおよそ30年後の息子フランツのエジプト旅行での重病――このエジプトと
いう地を鍵にした偶然の符丁がシュトラウスにインスピレーションをもたらし、この作品に結実した
ものと思われるのである(Siehe {Ahn & Yagi}
S.37-41, {Werbeck 1999} S.18-19)。
作品の完成までには、他のヴィトゲンシュタインのために作曲されたいくつかの作品と同様、多少の
曲折があったと想像される。総譜の一応の完成後に、さらにヴィトゲンシュタインとの検討の過程が
あったことは既述した。ヴィトゲンシュタインの言い分、ピアノ・パートは輝かしいものである必要が
あり、曲の最高潮においてオケと対峙してなお聴き取れるものでなければならない、という意見は、
いささか無理難題めいてはいたが、しかしそれは「協奏曲」である以上ピアニストとしては簡単には
譲り難い条件であった
({Flindell 1971b} S.121)。
最終的に出来上がったかたちは、ピアノとオケのバランスが相当に考えぬかれ、細心の注意を払って
演奏すればピアノの力強さが十分に際立つものとなったが、管弦楽法の大家たるシュトラウスにしても、
かなりの苦心があった筈である(シュトラウスは完成後もなお不満を抱いていたと言われるが、それには
ヴィトゲンシュタインの要求をいささか意に反するかたちで呑むことになったためという事情も絡んでいた
ことだろう(Siehe {Flindell 1971b} S.121
Anm.64)。こうした技術的問題への関心が、次なる作品、パンアテネ行進曲作品74の作曲につながって
いったと言われている。)。
また、こうしたこととは全く異なる事情の問題もあった。当時シュトラウスは出版社との間で著作権の
問題を抱えており、自作の主題の引用についてデリケートな判断をせざるを得ない状況にあった。要するに
作品の本質上、作曲家としては何としても家庭交響曲作品53の主題を使う必要があったにも関わらず、
それが法を犯す可能性があることを考慮せざるを得なかったのである。そのためシュトラウスは
家庭交響曲作品53からは主題をひとつしか引用できず、それも4小節以上は引用できなかった
(あるいは家庭交響曲作品53の「子供の主題」の落ち着きと温かみのある性格が極めて悲劇的なものに
変えられているということすらも、このことと関係していたのであろうか??)。それでも出版社側は
作曲家のこうした措置に納得せずに演奏の差し止めを図ったが、幸いにしてそれは認められなかった
ようである({Kim-Park} S.131,
{Roy} Abschn.8)。著作権法の制定は実は若きシュトラウス
が情熱を傾けて取り組んだ活動のひとつであったのだが
(Siehe {Ahn & Yagi} S.54-55)、それが皮肉にも
自らの創作を脅かすことになったわけである。
1925年10月のドレスデンでの初演はある程度の歓迎を受けたようではあるが、批評家の高踏的な
趣味には合わないところがあったらしく、醒めた評価が下されている。
「ヴィトゲンシュタインは最高度の音楽性と技巧的至芸を完全に示してこの作品を演奏した。聴衆には
すばらしく好評だった。」
「[シュトラウスは]精神的な深みを揺さぶることのない、刺激的で絢爛たる上等な娯楽音楽を
作り上げた。」
「[おそらくシュトラウスは]交響詩作曲家・オペラ作曲家として活動するうちにこのような作品を
構築するのに要する感性を失ってしまったのだ。」
(共に『音楽 Musik 』誌、1925年12月発行、第18巻3号掲載の世界初演評。
{Kim-Park} S.xi,
{Werbeck 1999} S.21)
初演の出来については、ピアニスト自身も実は満足していなかった。しかし同月のハンブルクでの再演は
大成功に終わったし、批評家の反応も否定的なものだけが続いたわけではなく、翌年2月のヴィーン初演の
際には『新自由新報 Neue Freie Presse 』に(おそらくユリウス・コルンゴルトのものと思われる)
好意的な批評が掲載された
({Kim-Park} S.128, xi)。ヴィトゲンシュタインは
大いに意を強くしたことだろう。
それはそれとしても――この作品が娯楽音楽 Unterhaltungsmusik であるというのは、ある意味で当を
得た評だった。明確な構成、起伏ある曲想、旋律の美しさ、終始活躍を見せるピアノの華麗な技巧と、
管弦楽の色彩感、表情の豊かさ――こうしたパレルゴン作品73の特徴はまさに「上等な娯楽音楽」に
相応しいものであろうから。だが聴衆を素直に喜ばせ楽しませる類の音楽が絶対的な価値において劣ると
考えられるならば、それはあまりに偏狭な意見であると言わねばならない。それはたとえば、モーツァルト
の素晴らしい長調作品の数々を想起しても明らかである。むしろわれわれは、この作品に見られるような
一種の明朗さがリヒャルト・シュトラウスの一面であること(それが最も昇華されたかたちで現われる
のが、晩年の一連の協奏曲作品群であろう)を認め、あのような重いテーマをかくも率直に語りえた彼の
手腕に驚くべきであろう。もっとも前述のとおり、彼が作曲の過程で相当に苦労し試行錯誤を重ねたことは
確かで、彼の遺稿にはこの作品についての夥しい量の草稿が含まれていると言われている
({Flindell 1971b} S.121)。
実はヴィトゲンシュタインは、作曲家による書き直しを経ても、なおこの作品のピアノ・パートと
オケとのバランスについて問題を感じつづけていたようで、晩年に至っても不満を漏らしていた
({Kim-Park} S.128 Anm.123)。しかし1934年の
アメリカへの最初の楽旅の際にラヴェルの協奏曲と共にアメリカ初演を果たしており、また最晩年には
ステレオ録音まで行っていることなど、この作品に対する並々ならぬ愛着を伺わせるに足る事実もある。
ちなみにヴィトゲンシュタインはこの作品の対価としてシュトラウスに25000ドルを支払っており
({Kim-Park} S.129)、他の委託作品と同様に、
独占演奏権を保持していた。そのため彼以外のピアニストがこの作品を演奏できるようになるには、
1950年まで待たねばならなかったのであり
({Krause} S.30)、この独占演奏権なるものが――
これまた他の委託作品と同様――作品の普及を阻害した1要因となったことは、ほぼ間違いがないで
あろう。
**未完**
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