SLH - PW_Werke_Korngold
        
        
    
    


Erich Wolfgang Korngold  (1897-1957)

エーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルト
1897年生(チェコ・ブルノ)−1957年没(アメリカ・ハリウッド)


 コルンゴルトほど天才という呼び名に相応しい作曲家は珍しいだろう。幼くしてその才能を 認められ、20代そこそこで当代随一の作曲家としての評価を確かなものとしたコルンゴルトは、 オペラや管弦楽曲といった分野で、後期ロマン派の最後の精華と呼ぶべき名作を遺した。 ナチスの台頭により活動の場をアメリカに移さざるを得なくなり、ハリウッドの映画音楽に 手を染めたことが彼の名を貶めることとなったことは否定できないが、しかし逆に彼によって 映画音楽の質は決定的に高められたとも言われている。いずれにせよ虚心に耳を傾けることに よってのみ、コルンゴルトの正当な評価は可能なのであろうし、その結果が現在の所謂 「コルンゴルト・ルネサンス」であるとも言えるのである。

 1897年、エーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルトは、ブルノで気鋭の音楽評論家 ユリウス・コルンゴルトとその妻ヨゼフィーネの間の次男として生れた(彼のミドルネーム 「ヴォルフガング」はモーツァルトの名からとられた)。父ユリウスは若くして19世紀最高の 音楽評論家エドゥアルト・ハンスリックに才を認められ、彼の後継者として健筆をふるった 音楽評論家であり、エーリヒの音楽家としての成長に大きな影響を与えたと言われている。

 幼くしてその楽才を発揮していたエーリヒは、マーラーの紹介によりツェムリンスキーの下で学び、 1908年、若干11歳で大作、ピアノによるバレー曲「雪だるま」を完成させる。この曲は翌年 皇帝フランツ・ヨーゼフ臨席の下で初演され、大変な成功を収めた。その後1912年に大作 シンフォニエッタ作品5を、1914年と1916年にそれぞれオペラ、ポリュクラテスの指輪作品7と ヴィオランタ作品8を完成させる(ふたつのオペラはブルーノ・ヴァルターにより1916年同時初演 されている。)。1920年には代表作、死の都作品12が初演され、コルンゴルトの名声は決定的となる。

 コルンゴルトはシェーンベルクなどと同じ時代を生きながら、所謂現代音楽的手法とは距離を置き続けた 作曲家であった。「彼は現代の無調的手法を痛烈に批判した。調性音楽は無尽蔵であり、 旋律とハーモニーの無限の組み合わせは発見されるのを待っている、というのが彼の確信だった。」 ({Hayasaki} S.238)評論家はほとんど例外なく 彼の生み出す旋律の豊かさと美しさについて語っている。恐らく20世紀の作曲家の中でも彼の旋律家としての 才はプロコフィエフなどと並んて最上位に位置するであろうと思われる。加えて、そのヴィーン的な喜悦感や テンポ感がある。これらは彼の音楽を――ティーンの時代から晩年まで変ることなく――特徴付ける要素と なった。

 1927年、彼自身最高傑作と自負するオペラ、ヘリアーネの奇蹟作品20が初演される。しかし この作品は、その難解さと父ユリウスの現代音楽批評をめぐるいざこざが災いし、前作のように オペラハウスのスタンダード・ナンバーとなることはなかった。やがてナチスが台頭し、次なるオペラの 作曲もままならぬ中、コルンゴルトは旧知の演出家マックス・ラインハルトの要請により、1934年、 ハリウッドの映画製作に加わることとなる。

 ハリウッドにおいても作曲家としてのずば抜けた実力を示したコルンゴルトは、ワーナー・ブラザーズの 映画製作になくてはならない存在となり、映画『風雲児アドヴァーズ』の音楽はアカデミー音楽賞を受賞する ことになった。1938年、祖国オーストリアがドイツに併合されると、コルンゴルトはアメリカに亡命。 生活のために映画音楽の作曲に集中せざるを得なくなる。

 戦時中コルンゴルトははクラシック音楽の作曲の筆をほとんど絶っていた。家族の証言はナチス・ドイツの席捲に ショックを受けたことがその原因であることを窺わせている ({Hayasaki} S.180)。戦後、コルンゴルトは クラシック音楽の世界でのキャリアを取り戻すため活動し始める。傑作、ヴァイオリン協奏曲ニ長調作品35や 弦楽合奏のための交響的セレナード作品39などを作曲し、またヴィーンでは自作のオペラの上演のため運動した。 しかしその成果は芳しくなく、「時代遅れ」の評価に激しい失望を味わうこととなった。最後の大作、 交響曲嬰へ調作品40は憤懣やるかたない気持ちを抱きつつ作曲されたと言われている。

 コルンゴルトは徒に現代音楽を拒否したわけではなく、彼の作風は無調音楽などの影響によりその表現の 幅を広げていったと言われているし、実際彼自身「シェーンベルクが開拓した豊富な和声を用いずに、閉じ こもっていることはできません」と述べている({Hayasaki}  S.111 長木誠司氏の訳の引用)。だがこれに続けて「でも、『古い音楽』のさし出す大きな可能性 への要求も諦めたくはないのです」と述べているとおり、彼の立場はあくまでも伝統的なものだった。結局、 コルンゴルトは戦前のような賞賛を再び浴びることなく、1957年にハリウッドで死去する。享年60歳。 クラシック音楽の作曲家としてのコルンゴルトの再評価は、1970年代頃から始まり、未だその途中である。

**未完**



Klavierkonzert in Cis Op.17

ピアノ協奏曲 嬰ハ調 作品17

〇作曲
1923年
〇初演
1924年9月22日、ヴィーンにて。指揮、エーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルト。独奏、パウル・ヴィトゲンシュタイン。
〇出版
B. Schott's Söhne, Mainz
〇編成
ピッコロ、フルート2、オーボエ2、クラリネット(A)2、クラリネット(B)2、ファゴット2、 コントラファゴット、ホルン4、トランペット3、トロンボーン3、打楽器、チェレスタ、ハープ、 第1ヴァイオリン12、第2ヴァイオリン8、ヴィオラ6、チェロ6、コントラバス6
〇演奏時間
約28分
〇構成
単一楽章形式。


#  作品概観

 ピアノ協奏曲嬰ハ調作品17は単一楽章形式で書かれた作品ではあるが、ソナタ形式を基本とする 4つの部分に区切ることが可能である。以下で全曲を提示部、展開部、再現部、結尾部に分けて 概観することにする。

提示部
 独奏ピアノによるスケールの大きな第1主題( Mässiges Zeitmass, heldisch, mit Feuer und Kraft 「中庸の速さで、雄々しく、火と力強く」)の提示により、全曲は幕を開ける。この主題冒頭の音形は、 全曲を有機的に統一するテーマとなる。ピアノによる主題の展開には背景のオーケストラがいわばエコーの ように付き添い、巨大な空間を思わせる独特の雰囲気を醸すが、徐々に力強く盛り上がり、 やがて、オケとピアノによる堂々たる主題の提示となる。このあたりの音楽の設計は一種ブルックナー的な ものを感じさせよう。
 巨大な第1主題に続いてピアノにより提示される第2主題は、平安と憧憬に満ちた落ち着きのある主題であり、 豪快な第1主題とは好対照をなしている。おそらくこれはコルンゴルトが書いた最も美しい旋律のひとつであろう。 この第2主題もオケと語らいながら展開していくが、独奏チェロがピアノに優しくからむ場面は非常に印象深い。 やがて第2主題がオケにより美しく歌い上げられると、快活な第3主題が提示され、その後第1主題冒頭音形が 強烈に回帰する。

展開部
 管があたかも何かの警告のように響き、怪しげな雰囲気が醸される。ピアノは彷徨するかのように低音を 探り、ときおり高音へと上昇する。逡巡するような響きがしばらく展開した後、フルート、ハープ、チェレスタが 彩りを添える明るい境地に至る( Reigen 「輪舞」)。この箇所に見られるような色彩的な楽器法は コルンゴルトの作品全般に見られる特徴である。この平和な部分も、やがてピアノによる第1主題の音形の反復に より緊迫していく。

再現部
 オケによる第1主題の巨大な再現と、ピアノによる決然とした第2主題の回帰。

終結部
 第3主題を基に低弦がリズミカルにざわめきだし、やがて豪快にオケとピアノが咆哮する。ピアノの 地鳴りのような低音が凄まじい迫力である。そして第2主題の冒頭音形をピアノがくり返し、短いカデンツァに入る。 この一連の箇所は、たいへんに緊迫した、リスト的な気迫と体力を要求する部分である。やがて、オケとピアノが 第1主題冒頭音形により呼応するクライマックスを迎える(「あたかもこの主題を手放したがらない かのように」{Carroll 1998a} S.8)。この終結は凡そ 過去の音楽作品に類例を見出しがたい特異なものだが、この大作の最後を飾るには全く相応しいと言うべきであろう。



#  コメント

 1923年4月、コルンゴルトはヴィトゲンシュタインとピアノ協奏曲の作曲について契約を結んだ ({Kim-Park} S.109)。代表作、ヘリアーネの奇蹟作品20の 構想を練り始めた頃であったと思われる。{Kim-Park}は この2者が知り合うこととなった事情について詳細を不明としているが、ブラームスやヨアヒムらが出入りした ヴィーン屈指のパトロンの家の息子とハンスリックの後継者の息子はある程度早くから互いを認識していたと 考えるのが自然であろう(エーリヒの父ユリウスは1916年12月19日のヴィトゲンシュタインの戦傷受傷後 最初のコンサートについて批評を書いている)。いずれにせよこの1923年頃、ヴィトゲンシュタインは当時 名をあげていた何人かの作曲家に集中的に左手のピアノのための新作を依頼しており、この若き天才も彼が 見込んだ作曲家の中に含まれていたわけである(よく言われるようにコルンゴルトがヴィトゲンシュタインの依頼を 受けた「最初の」作曲家であったかどうかは、はっきりしたところはわからない。せいぜい最初の作曲家達のひとり、 と言うのが無難ではないかと思われる。少なくとも彼のために左手のピアノ曲を書いた最初の作曲家は ヨーゼフ・ラボーアであるとは言える。)。

 作曲契約はヴィトゲンシュタインに初演権と独占演奏権を与えるもので、報酬としてコルンゴルトに3000ドルが 支払われた(卓越したピアニストでもあった作曲家自身の演奏権は留保されていたが、コルンゴルトはこの権利を ――おそらくピアニストに対する遠慮により、また後年は自作の演奏の機会自体の激減もあり―― 行使しなかった。)。作曲は順調に進み、同年9月21日に完成。ヴィトゲンシュタインは総譜を受け取り、ある程度 時間をかけて研究した後、作曲家と曲についてやりとりを行ったものと思われる ({Kim-Park}によれば、ヴィトゲンシュタインがそのために コルンゴルトへ宛てたいくつかの手紙が残されているようである)。翌年の夏には両者は初演に向けた準備に 入った。当時新婚のコルンゴルトは、夫婦で滞在していた避暑地アルト−アウス湖から手紙をしたためている。

 「……わたしの(いや「あなたの」)ピアノ協奏曲を名のある指揮者たちの前で演奏するというあなたの 計画について言えば、あなたがこの曲を気に入ったことがはっきりしたこと、そしてこの曲を演奏したい気になったという こと、そうしたことが喜ばしいという意味でわたしは全く歓迎しています。でも名のある指揮者たちの前で演奏する ということそれ自体については――不要であると思っています。というのも、ドイツの指揮者は皆わたしの新作を 無条件的 automatisch に演奏する、ということは別にしても、あなたが誰で、あなたが何を できるのか、ということは周知であるからです。
 でも次のことはしっかり言っておきたいと思います。近いうちにアルト−アウス湖のわたしたちの ところに来てください。わたしたちはここでびっくりするようなあらゆることについてお話できるでしょうし、 この曲をもう一度テンポとニュアンスに関してよく吟味することも、たぶん無駄ではないでしょう。(いずれにせよ、 10月初めヴィーン音楽祭で初演を行うということについては、ご了解されたと思っていてよろしいですね?)……」 (1924年6月19日の手紙  {Flindell 1971a} S.425 (1919年という 表記を訂正))

 初演は1924年9月22日――「ヴィーン市音楽・演劇祭」の期間中――に、作曲家自身の指揮によって 行われた。数日後の新聞は次のように報じている。

 「……パウル・ヴィトゲンシュタインは、『自らの』作品を、喜びに鼓舞された技術をもって演奏した。 ひいき目を排しても、ひとは、二重の和音を聴いて、二本の腕を想像したことだろう。技量ある者の快活さが われわれ皆を満たし、ひとはこの作曲家の最高の作品に向き合っていると思った――ひとは既に、前作の 弦楽四重奏曲[第1番作品16]において、そのように思っていたのだが。」(1924年9月30日、 『日刊新ヴィーン新聞 Neues Wiener Tagblatt 』の批評  {Kim-Park} S.xi なお、コルンゴルトの弦楽四重奏曲 第1番作品16は、同年1月8日にロゼ弦楽四重奏団によりヴィーンで初演されている)

 作品は好評をもって迎えられ、その後、指揮にフェリックス・ヴァインガルトナーやベルンハルト・ パウムガルトナー、オスヴァルト・カバスタらを迎え、何度も再演された。巨大な管弦楽に左手のピアノが 激しい気迫をもって応えるこの作品は、そのヒロイックな曲想と共に、ひとびとに強烈な印象を与えたことで あろう。恐らくこの作品はヴィトゲンシュタインのために作曲された一連の協奏曲の中でも、重厚な後期 ロマン派的書法をもっとも果敢に駆使したものとなった。天才コルンゴルトが左手のピアノという難題に対して 野心的に立ち向かった、ひとつの答えがこれであった。

 しかし初演者自身は別の率直な感想を持っていた。オーケストラとピアノとのバランスに対する不満である。 これは左手のためのピアノ協奏曲という形式にとって不可避的な問題だった(極めて困難な音量のバランスの処理が 要求されることは、たとえばギターとオーケストラの協奏曲の場合を想像すればよいのかもしれない)。しかもそれは、 ピアノとオケが共に演奏する部分だけの問題ではなかった。後年ヴィトゲンシュタインはこう記している。

 「もちろんピアノはたとえばカデンツァでは聴こえたのですが、ピアノの音とそれに先立つオケの音との 対比がとても大きかったので、ピアノの音がこおろぎの鳴き声のように聴こえたのです。」 (1960年6月13日の手紙 {Flindell 1971a} S.424)

 とはいえヴィトゲンシュタイン自身はこの曲をある程度評価してもいた筈で、不満を抱きつつも数年間はこの曲を 演奏し続けた。しかし結局、1931年1月の演奏会がこの曲の最後の演奏の機会となる(以後はアメリカ移住後も この曲は演奏していない)。独占演奏権が設定されていたため、ヴィトゲンシュタインの生前にこの曲が他の ピアニストによって再演されることはなく、ようやくコルンゴルトの没後10周年の1967年にヴィーンで 演奏される機会があったものの、再演は続かなかった。この協奏曲がもう一度ひとびとの注目を集めるのには、 実に1985年のギャリー・グラフマンによるアメリカ・イギリス初演を待たねばならなかったのである。

 なお、{Kim-Park}によれば(S.112)、コルンゴルトは 晩年、脳溢血を患い右半身が不自由になった際に、この協奏曲のピアノパートを弾こうと試みている――しかしこの 試みは、結局上手くはいかなかったということであるが。自由な左半身の強化のための訓練だったのだろうか、 それともピアニストとしての復帰に望みをかけていたのだろうか。

**未完**



#  録音について

 コルンゴルトのピアノ協奏曲は、ヴィトゲンシュタインの感じていたとおり、実際オケとピアノのバランスに 相当の配慮を要する作品であるように思われるし、その意味で、実演よりはむしろ録音に向いている作品である ようにも見える。シェリーによる録音(Chandos)とアムランによる録音(Hyperion)は、いずれも高度な技術を 存分に駆使し、見事な効果を挙げている。なお、後者に付属しているノートには、著名なコルンゴルト研究家、 ブレンダン・キャロル氏による作品分析があり ({Carroll 1998a})、非常に有益である。1983年に ベルリンでこの曲の蘇演を行ったデ・グローテによる録音(cpo)は、ゆったりとしたテンポを採り、作品への深い 共感を随所に示した好演である(デ・グローテはこの録音の翌年の1989年に、飛行機事故により惜しくも急逝 している)。




Suite Op.23

組曲 作品23

〇作曲
1928?−1930年
〇初演
1930年10月21日、ヴィーンにて。ロゼ弦楽四重奏団。ピアノ、パウル・ヴィトゲンシュタイン。
〇出版
B. Schott's Söhne, Mainz
〇編成
ヴァイオリン2、チェロ、ピアノ
〇演奏時間
約37分
〇構成
組曲形式。
I. Präludium und Fuge   II. Walzer   III. Groteske   IV. Lied   V. Rondo - Finale ( Variationen )


#  作品概観

第1曲「 Präludium und Fuge 前奏曲とフーガ」
 ピアノによる暗くドラマティックな前奏曲。ピアノが低音をベースに、力強く音階を上下する (ピアノが低音を多く受け持つのは全曲を通じた特徴である)。この力感はピアノ協奏曲の冒頭に 通じるものがあるであろう。弦は前奏曲の末尾から入る。
 フーガはチェロによる低いうめきのような主題により始まり、ピアノ、ヴァイオリンが加わり、 緊張感のある展開を見せる。やがてピアノが前奏曲の音形を回想した後、ヴァイオリンにより新たに 夢見るような第2主題が導入され、展開される。儚く美しい、見事な箇所である。前奏曲の音形と フーガ冒頭主題が再び現われ、第2主題がヴァイオリンによって感情を高めて歌い上げられた後、 前奏曲の音形を主導するピアノに、弦が深い感動を込めて応えて終わる。

第2曲「 Walzer ワルツ」
 ヴィーン的な優しくノスタルジックなワルツ。ヴァイオリンが切なく歌うワルツ主題にチェロと ピアノが絡む。中間部でいくぶん皮肉っぽい主題が挿入され、再びワルツ主題が回帰する。

第3曲「 Groteske グロテスケ」
 スケルツォ的な性格の曲。冒頭からせわしなくピアノが刻む下降音形やチェロによって提示される 主題はタイトルどおりの怪しげな気分を持ち、各パートには一筋縄ではいかないヴィルトゥオジティと 自在でなおかつ息のそろった表現が要求される。
 中間部のトリオは一転してテンポを落とし、深い感情を込めて訴えかける箇所。ピアノによる主題は 哀感を帯びて非常に美しく、第4曲の気分をいくらか先取りしているかのようである。やがて弦楽器が 和して感情の高まりを見せ、静かに終わる。再び曲の冒頭に戻り、型どおりに反復。

第4曲「 Lied 歌」
 ほぼ同時期に作曲された歌曲、3つの歌作品22の第1曲 "Was Du mir bist ?" 「貴方はわたしにとって 何なのでしょうか?」の旋律による緩徐楽章。自作(映画音楽を含む)からの自由な引用乃至流用は、 コルンゴルトの作曲のひとつの特徴である。ピアノによる静かな歌をチェロの低音が支え、次いで ヴァイオリンが加わり、チェロによるエピソードを加えて盛り上がる。しかしやがて静けさが戻り、 ヴァイオリンがメロディを回想し静かに終わる。短い曲ではあるが、まさに全曲の「情感的核心」 ({Carroll 1998b} S.4)と呼ぶに相応しい部分 である。

第5曲「 Rondo - Finale ( Variationen ) ロンド−フィナーレ(変奏曲形式)」
 序奏としてピアノが冒頭に主題を圧縮した音形を提示し、次いでチェロが語りかけるように暖かい変奏曲主題を 提示する(この冒頭のピアノ音形と終結部は、後に弦楽合奏のための交響的セレナード作品39の第4楽章に 利用されることになる)。緻密で引き締まった表現は、この時期のコルンゴルトの作曲の円熟ぶりを見事に示す 例と言えよう。テンポを速めてスリリングな展開を見せた後、一転して沈んだ雰囲気となり、弦による悲痛な歌と ピアノの伴奏が交錯する。曲想の鮮やかなコントラストが印象深い箇所である。やがて再び快活な曲想が戻り、 弦とピアノが一体となってラストへとなだれ込む。チェロが最後に再び主題を語りかけた後、ピアノの下降音形に 弦が和してテンポを速め、全曲を力強く閉じる。



#  コメント

 1928年、コルンゴルトはヴィトゲンシュタインから、今度は左手のピアノのための室内楽作品の作曲を 依頼される。畢生の大作、ヘリアーネの奇蹟作品20の初演の翌年であった ({Carroll 1998b}による。 {Hayasaki}は依頼の年を1930年としている。)。 5年の歳月をかけてこの巨大なオペラの作曲を終えたコルンゴルトは、しばらく比較的規模の小さな作品の 作曲に向かうこととなる。この時期の作品には、このヴィトゲンシュタインの依頼に応えた作品、組曲作品23、 赤ちゃんのセレナード作品24、ピアノ曲、シュトラウスの物語作品21、ピアノ・ソナタ第3番作品25などが ある。ヘリアーネの奇蹟は期待されていたような評価を得ることはできなかったものの、この時期のコルンゴルトの 作品が円熟味を加え(それでも未だ30代前半の青年作曲家であったのだが)、益々充実したものとなっていた ことは、これらの作品から伺える。

 必ずしも成功したとは思えなかった協奏曲の作曲家に再び作曲を依頼したのは、コルンゴルトの才能を ヴィトゲンシュタイン自身が相変わらず高く評価していたからであろう。コルンゴルトは今回の作曲依頼に対して 慎重に構想を練った筈で(協奏曲に対するヴィトゲンシュタインの不満は既にこの時点までにコルンゴルトに直接伝え られていた。Siehe {Kim-Park} S.110)、その結果は 伝統的な室内楽作品の編成とは微妙に異なる、ヴァイオリン2、チェロ、ピアノによる「組曲」となった。 また、当然メインとなるべき左手のピアノの扱いは、アンサンブルのバランスの考慮に立って、中心的な役割を 与えつつも過度の突出を巧妙に回避したものとなった(第1、3、5曲がピアノにより開始されるという ことに示されているとおり、ピアノには重いウェイトが置かれているとはいえ、低声を多く担当することにより アンサンブルを下支えするという役割も大きく、むしろ弦楽器の技巧的表現的な扱いが目立っているとも言える。)。 作品は1930年に完成する。

 初演は同年10月21日、ヴィトゲンシュタインと、当時のヴィーン屈指の弦楽四重奏団、ロゼ弦楽四重奏団の 団員により行われた。第1ヴァイオリンのアルノルト・ロゼは、1863年にルーマニアに生まれ、1881年に ヴィーンの宮廷歌劇場、後の国立歌劇場のコンサート・マスターとなり、以来1938年まで50年以上の間 その職を勤め上げた名ヴァイオリニストである。ロゼはコルンゴルトとのつながりが深く、ピアノ三重奏曲 ニ長調作品1、弦楽六重奏曲ニ長調作品10、弦楽四重奏曲第1番作品イ長調作品16の初演を既に手がけていた。 彼の弦楽四重奏団は1883年に創設され、以来幾度かメンバーを変えたが、1930年 当時は第2ヴァイオリンにパウル・フィッシャー、ヴィオラにアントン・ルツィッカ、チェロに アントン・ヴァルターを擁しており(Siehe {Potter} S.11)、 ヴィオラを除く彼らが初演にあたった筈である。初演は成功に終わり、翌日の批評はこう伝えている。

 「コルンゴルトは、彼の最高の作品に数えられるのが確かなこの作品により、自らが、巧みで、練達した統制を 形式に与える作曲家であり、常に新たな観念を手にして作曲する作曲家であることを示した。生命感はリズム豊か、 色彩は興味深く、豊かな形式は緻密で愉快なこの作品は、今日のかくも憐れむべき音楽的創作の中で、創見に富む 作曲家として第一の地位をコルンゴルトが占めていることを証明した。」(1930年10月22日、 『新ヴィーン・ジャーナル Neues Wiener Journal 』の批評。 {Kim-Park} S.112)

 また、パウルとルートヴィヒのヴィトゲンシュタイン兄弟の共通の友人であったルドルフ・コーダーは、 (多少の違和感を込めつつ)初演についてこう報告している。

 「あなたの兄のパウルが、火曜にロゼ四重奏団とコルンゴルトの新作を演奏しました。わたしは総練習と 本番を聴きました。個々の曲は素晴らしく響きましたが、わたしは感激はしませんでした。でもこの作品は とてもたいへんな喝采を受けました。……」(1930年10月25日付け、ルートヴィヒ・ ヴィトゲンシュタイン宛ての手紙。{Alber} S.37)

 ヴィトゲンシュタインはこの作品を作品17の協奏曲とは対照的に高く評価し、その後晩年に至るまで各地で 演奏を続けた。1934年に初めてアメリカを訪れたときには、ロス・アンジェルスで作曲者臨席の下演奏 しているし(当時コルンゴルトは、マックス・ラインハルトの招きに応じ、映画音楽作曲のためアメリカ西海岸に 滞在していた。)、第2次大戦後にはイスラエルへの楽旅の際にも演奏している。

 コルンゴルトとヴィトゲンシュタインは、同じくナチスから逃れ、アメリカで晩年を過ごしたが、個人的な 交流はアメリカでも続き、ハリウッドに住むコルンゴルトの下をヴィトゲンシュタインはしばしば訪れていた ようである({Hayasaki} S.202-203)。この時代の ヴィトゲンシュタインからコルンゴルトへ宛てた手紙は、組曲作品23による演奏会への招待という内容も 多かったらしいが({Kim-Park} S.112, Anm.114)、自作の演奏の 機会が減る中で、ヴィトゲンシュタインからの手紙は作曲家にとっていくらかの慰めとなっただろうか。

 (付記。コルンゴルトのピアノ五重奏曲ホ長調作品15はヴィトゲンシュタインのために作曲された、と 言われることがよくあるが、これは誤りである。)

**未完**



#  録音について

 組曲作品23の録音は90年代入って集中的に行われており、個性的なアプローチを示した熱演が 多い。近年「両手のピアニスト」として復帰した名ピアニスト、レオン・フライシャーとジュリアード 弦楽四重奏団員、ヨー・ヨー・マによる演奏(Sony)は、各パートが存分に自らの芸を発揮しながらも 見事な調和を示したもの。ロンドン・シューベルト・アンサンブルの演奏(ASV)は、演奏者の名技性よりも むしろ息の合ったアンサンブルが際立ち、室内楽的な集中力で聴く者を引き込むもので、フライシャーらの 演奏と好対照をなしている。チェコ・トリオ(Supraphon)は、意表をつく速いテンポで走りながらも、 作品への共感も欠いておらず、鮮やかでスリリングな演奏を展開している。ブレイクらの演奏 (ALBANY RECORDS)は、録音の鮮明さにやや欠けるところがないわけではないが、聴いていて思わず胸が 熱くなる正攻法の好演である。



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