SLH - PW_Werke_Bortkiewicz
        
        
    
    


Сергей Эдуардович Борткевич  (1877-1952)
Sergei Eduardowitsch Bortkiewicz  (1877-1952)

セルゲイ・エドゥアルドヴィッチ・ボルトキエヴィッチ
1877年生(ウクライナ・ハリコフ)−1952年没(オーストリア・ヴィーン)


 ボルトキエヴィッチは、近年再評価が試みられつつある作曲家のひとりである。確かに彼は優れた 作曲家、偉大な個性をもった作曲家だった。

 ラフマニノフに比されるその旋律家としての才能、紛れもないロシアの哀愁ある響き――加えてそこに 彼のみが有する何かを見出すことは、決して困難なことではない。代表作、ピアノ協奏曲第1番変ロ長調作品16 ただ一曲において、われわれはそれをはっきりと聴き取ることができるであろう。

 いささかバランスを失することになるのを恐れるが、 {Thadani 2001}{Henbury-Ballan}の内容を 要約するかたちで、ボルトキエヴィッチの生涯についてまとめることにする ({Thadani 2001}はボルトキエヴィッチ自身による 大中小3種の自伝と後半生のヴィーン時代に書かれた手紙の英訳を収録した労作であり、現時点でのほとんど 唯一かつ最良の基礎資料である。)。

 セルゲイ・ボルトキエヴィッチは、1877年2月28日、裕福な地主の家に生まれた。

 貴族の出の父はその才覚によって社会的に成功を収めた人物。母は音楽的家庭に生まれ、自身優れたピアニストで あった。また彼女はボルトキエヴィッチに最初に音楽の手ほどきをした人物だった。

 文化的都市であったハリコフに生れたことを後年彼は幸運なことだったと回想している。演奏のため ハリコフを訪れたアントン・ルビンシテインとピョートル・イリイチ・チャイコフスキーの姿は、生涯彼の脳裏 に焼き付いていたに違いない。彼の音楽の基調をなすロマン主義的色彩はこの少年時代の環境と体験に負うものを 持っていたであろうか。

 ボルトキエヴィッチは18歳までハリコフで学んだ後、サンクトペテルブルク大学の法学部と、 黄金期を迎えていたサンクトペテルブルク音楽院に入学した。音楽院ではリャードフに理論を、 ヴァン・アレクにピアノを学んだ。

 時おりしも帝政ロシア末期の不穏な時代に入りつつあった。大学は学生運動の高まりを受けて 政府により閉鎖され、ボルトキエヴィッチ自身は破壊的な学生運動の雰囲気についていけず、 やがて大学を退学する。その後一時兵役に就くも、病気を患い、除隊した後、1900年の秋、 少年の頃から憧れを抱いてきたドイツへと渡った(ゲーテとショーペンハウアーは彼の愛読書だった)。

 ライプツィヒ音楽院で、ボルトキエヴィッチはリストの弟子であったアルフレート・ライゼナウアーに 師事した。充実した2年間の勉強の後、最優秀の学生に贈られるシューマン賞を獲得し音楽院を卒業、 演奏家生活に入ることになる。

 ボルトキエヴィッチは郷里で結婚した後、ベルリンに居を構えることになる。このベルリン時代は 1904年から1914年までの10年間続いた。その間彼はドイツの主要都市はもちろん、故国ロシア、 フランス、イタリアでも演奏会を行った。また、クリントヴォルト=シャルヴェンカ音楽院(オットー・ クレンペラーも一時期在籍していたことがある)では、1年間だけではあるが教鞭をとった。

 ボルトキエヴィッチが作品1のピアノ協奏曲をベルリンで初演したのは、この時期であったのだろう。 だがこの作品は彼自身により破棄されてしまった。この時期作曲家としての彼は専らピアノ曲を作曲していた。 ライプツィヒの出版社主、ダニエル・ラーターは彼の才能を認め、以後、彼の出版社はボルトキエヴィッチの 多くの作品を世に送り出すことになる。

 ライプツィヒ音楽院時代からの彼のアイドルはアルトゥール・ニキシュだった。ゲヴァントハウスの演奏会 に足繁く通っていたボルトキエヴィッチは、ニキシュの演奏に多く接することとなった(ニキシュは1895年から 死去する1922年まで、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団とベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 の主席指揮者の職にあった)。ピアノ協奏曲作品16をベルリンで書き上げたとき、ボルトキエヴィッチは ライプツィヒまで出かけて、尊敬するニキシュの前でそれを演奏した。するとニキシュは彼を出版社に強く 推薦する手紙を書いて、ボルトキエヴィッチに持たせた――これは若きボルトキエヴィッチにとって、 生涯忘れがたい思い出となった。

 1914年、第一次世界大戦が勃発すると、ボルトキエヴィッチはロシアへ戻った。生地ハリコフで彼は 多くの生徒に教え、演奏会を持ち、そして作曲した――チェロ協奏曲作品20、ヴァイオリン協奏曲作品22が この時代に生み出されている。彼にとって充実した時代だったようである。

 しかし1917年の帝政の終焉と同時に、苦難の時代が始まる。ボルシェヴィキが権力を握ると、 ハリコフに駐留していたドイツ軍は撤退し、替わって白軍の駐留が始まった。貴族の出であった ボルトキエヴィッチはハリコフを離れ、クリミアから1919年11月にスルタン政府下の コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)へと逃れた。

 コンスタンティノープルで、ボルトキエヴィッチは音楽院教師として2年間を過ごすことになる。そして、 理解者にかこまれたこの比較的平穏な時期を経て、彼はヴィーンに渡る。トルコのスルタン政府が倒れる直前、 1922年7月であった。そして彼はこのヴィーンでその後半生を――1928年から1935年までの間の パリとベルリンでの生活を除けば――過ごすことになる(彼は二度とロシアに戻ることはなかった)。 1926年に、ボルトキエヴィッチはオーストリア国籍を取得した。

 「無理矢理に故国の土から引き離された者にだけ、この感情が時にどれだけ痛切なものであるのかを 知ることができる。」ヴィーンでのボルトキエヴィッチの消息については、それほど多くのことを知ることは できない(彼の残した自伝はほとんどこの時代について語ることなく終わっている)。だがわれわれは、 自伝の最後に記されたこの言葉に、ヴィーン時代のボルトキエヴィッチのありのままの心情を垣間見る 思いがする。オーストリアをボルトキエヴィッチは「第二の故国」と呼んだ。彼はそう呼んだ同じ 文章の中で、この言葉を記しているのである。1936年であった。そして、1938年3月、ナチス・ ドイツがオーストリアを併合し、1939年9月、第二次世界大戦が勃発する――

 戦前から戦後にかけ、ボルトキエヴィッチは自作の紹介にひたすら望みをかけていたように思われる。 しかし状況は厳しかった。ナチス下のドイツでも自らの作品の演奏には比較的自由があったようであり、 オーストリア併合に際しては彼はまだいくらかの期待をナチス政権にかけていたふしもある。だが ナチスが多くの音楽家を追放し新顔と入れ替えたおかげで、自作の再普及を図らねばならなくなったし、 戦争が厳しさを増すと、ライプツィヒ空襲の際に出版社ダニエル・ラーターの下にあった多くの 楽譜が焼失し(このことが彼の作品の普及に与えた影響は現在まで続いている)、極度の貧窮と相まって、 ボルトキエヴィッチは希望の見いだせない日々を過ごすことになった。彼の手紙から、ある程度のことを 伺うことができる。({Thadani 2001}に収録された 手紙はほとんどがオランダのピアニスト、ヴァン・ダーレンに宛てたものである。)。

 「……3月2日には、わたしの第1交響曲がフランクフルト放送で演奏されます。指揮者のロスバウト氏 曰く、『あなたの60歳の誕生日に捧げる』とのことです。」(1937年2月20日の手紙)

 「とてもひどいことが『ロシア狂詩曲』に起きました。長いことあなたのところに総譜とパート譜があったのを わたしはすっかり忘れていたのです。ヘルマン・ホップ氏は、この曲をケーニヒスベルク放送で23日に 演奏しなければならなかったのですが、わたしに楽譜を送付するよう言ってきました。……残念なことにわたしは ラジオ放送に加えてコンサートでもすばらしい演奏が行われる機会を逸してしまいました。演奏料を二重に損した わけです!……」(1937年7月26日の手紙)

 「メンゲルベルク氏がわたしを昨日迎えてくれた際、彼は、会合があってほとんど時間がない、等と言って いました。しかし、わたしが自分の交響曲を弾き始めると、彼はとても興味をそそられて、交響曲を全て聴いた のみならず、それについて長い時間、どれほど彼がこの曲を気に入ったのかを語り、この曲について記事を書き、 演奏の予定を立てるつもりだと語ったのです。……」(1938年3月2日の手紙)

 「今日わたしはあなたに書留で 第1 交響曲の総譜を送りました。あなたが欲したのは第1のほうですが、 第2のほうは既にだいぶ前からあなたのところにあります。でもどうか、これらの交響曲が 本当に演奏される かどうか を、本当にすぐにわたしに手紙してください。もしもそうなれば、わたしはあなたにオケの パート譜を送ることができます。というのもわたしは時間と郵便費用を無駄にしたくはないからです。……」 (1940年1月30日の手紙)

 「あなたがようやくわたしのソナタ作品60[ピアノ・ソナタ第2番]を受け取り、気に入ってくれた ことをうれしく思います。……このソナタはヴィーンで聴衆と新聞に対して大成功を収めました。わたしは あなたがこの曲をとても美しく、立派な仕方で演奏されることを確信しています。……」(1943年 9月25日の手紙)

 「出版社D・ラーター、シュトレーラ・エルベ、駅通り25番地、がまたわたしに文句を言ってきました。 あなたがまだわたしのピアノ協奏曲第3番『 Per aspera ad astra 』の総譜とパート譜を送付してくれない ことに。どうかすぐにそうしてください! もしも本当に次のシーズンに演奏することになるの でしたら、あなたは楽譜を出版社から遅滞なく受け取ることができるはずです。わたしが知る限り、あなたは この協奏曲をオーケストラと演奏したことはなかったのではないですか? 出版社は保存することがなお可能 だった少しの楽譜をまとめようと欲しています。それだけ多くのわたしの作品と原稿がライプツィヒで焼失して しまったのです。わたしのヴァイオリン・ソナタ作品26のコピーをオランダで見つけて、ヴィーンのわたしの ところまで送付することはできますか?……」(1944年3月29日の手紙)

 渾身の作であった交響曲第1番(初演1937年)、第2番(初演1938年)は概して好評を得ることが できたようだが、出版には至らず、どれほど再演が続いたのか定かではない(ドイツ国内である程度ラジオ放送 されたことが手紙から伺える)。自作の演奏について手紙で度々言及されているが、そこには焦りと苛立ちの ようなものが感じられなくもない(親友であったはずのヴァン・ダーレンに対してすら)。自伝において彼が、 自作に対してニキシュが示してくれた態度を称揚した後で次のように続けているのは、まさに率直な心情の表白 であったのだろう。

 「……今日わたしが立派な指揮者たちに手紙しても、大抵の場合、返事をうけとることすらない。どれほど 文化が概して低下してきたかの悲しむべきしるしだ! そしてわれわれはそのことに気付きもしないのである。 ヨーロッパのわれわれはどれほど野蛮になったことか! フランツ・リストが生き、誰もが最下層の 音楽家さえ言葉と行為によって支え助けた時代、あの時代はどこに行ってしまったのだろうか?……」

 戦争末期にはアメリカ軍の爆撃により住居が損傷を受けた。しかし、戦争が終わり、1945年秋に 音楽院に職を得てもなお、彼はそこに住みつづけなればならなかった。この時代の彼の悲惨な生活ぶりに ついては、しばしば引用される友人に宛てた次の言葉に完全に表現されている。ボルトキエヴィッチは 68才だった。

 「……わたしは浴室であなたに手紙を書いています。わたしたちがそこにもぐりこんだのは、狭くて、ときに ガスの炎を点けたり消したりして暖まることができるからです。他の部屋は使えませんし、わたしは ピアノに触ることもできません。これが現状です! わたしたちをさらに何が待ち受けているのでしょうか?  生活はさらに不快で侘しいものになりつつあります。わたしは音楽院で教えていますが、そこの気温は4度 [摂氏]で、じきにもっと下がります! 外国の友人からの便りはありません。……」(1945年12月8日 の手紙)

 せっかく得た音楽院のポストも、70才を迎えた1947年には退かねばならず、経済的困窮はさらに 深まった(ヴィーン市などから恩給を得ることはできたが)。しかし彼の音楽を評価し広く紹介しようとする ひとびとは少しずつ増えていた。同年、彼の作品の普及を目的として、ボルトキエヴィッチ協会が設立された。 著名な演奏家を迎えて定期的に彼の作品による演奏会が催されるようになり、晩年を迎えていた作曲家にとって、 最高の慰めとなったようである。

 だが、これはあくまでもヴィーン、オーストリアでのことだった。彼の作品を多く出版してきた ドイツの出版社とは、戦後連絡が途絶え、新たな作品の出版も滞った。協会による演奏会の成功に深い満足を 覚えながらも、病気がちの妻を抱え、残された時間を意識し苦悩する日々が続いたようである。

 「……毎月(夏季を除く)第一月曜には、わたしの作品が芸術家の家で演奏されます。すばらしい演奏家たちと、 えり抜きの聴衆、彼らはわたしと共に現代の不協和音から癒されるのです。わたしの作品のすべて(あなたが 知らないものも多く含まれています)が次々と演奏されています。管弦楽作品もです。こうしたことは少なくとも いくらかの満足を与えてくれました。それはそれとしても、わたしの状況は未だ悲劇的なものです。というのも 未だにドイツの出版社と連絡することができないからです。わたしの以前の作品は皆売り切れ、ドイツからは 何も手に入れることができません。新しい作品は、N.ジムロックにあって、救いと音楽市場への解放を待って います。そしてこれがわたしの老年というわけです、「待つ」ことなどできないというのに!……」 (1949年12月14日の手紙)

 「……オランダでコンセルトヘボウ管弦楽団を指揮することになったなら、どれだけの成功を収め得ることか、 わたしは想像することができます。わたしは75才という年齢でこれほどよく認められているとわかり、 いつも幸せを感じることができます。認められることを本当に熱望していた者がそうなるのは、実際大抵の場合 死んでしまった後なのですから。……」(1952年3月18日の手紙)

 「……わたしは新作をたくさん書いたのですが、ライプツィヒの出版社とは連絡することができません。 印刷済みの ソナタ、6つのピアノ曲、3つのマズルカがN.ジムロックにありますが、販売されては いないのです。……」(1952年6月28日の手紙)

 1952年2月26日、協会によるボルトキエヴィッチの75才の誕生日を祝う演奏会が楽友協会のホールで 催された。作曲家自身がピアノ協奏曲第1番作品16と叙情的間奏曲作品44の指揮をし、大成功を収めた。 同年10月、ボルトキエヴィッチは胃病のため手術を受ける。しかし予後が悪く、再手術の甲斐もなく 10月25日夜、死去。11月4日、ギリシア正教の儀式によりヴィーンの墓地に埋葬された。妻は1960年に 同じくヴィーンで死去。ふたりに子供はなかった。ボルトキエヴィッチ協会は1973年に活動を停止した。

 ボルトキエヴィッチは死後ほぼ完全に忘れられた存在となった。その楽譜も散逸し、心あるひとびとに とっても紹介は容易ではない状況が続いた。だがようやく彼のピアノ協奏曲第1番、交響曲第1、2番、 いくつかのピアノ作品が録音として入手できるようになった今日、再評価の機運は高まっていると言うことが できるだろう。われわれは未だ彼の作品の全貌に接することができていないが、近い将来、彼の音楽には正当な 歴史の評価が与えられることと思われるし、それを期待したいのである。

**未完**



Концерт для Фортепиано   No.2  Соч.28
Klavierkonzert  Nr.2  Op.28

ピアノ協奏曲 第2番 作品28

〇作曲
1922−1923?年
〇初演
1923年11月29日、ヴィーンにて( {Kalkman} に よる。)。指揮、オイゲン・パプスト。独奏、パウル・ヴィトゲンシュタイン。
〇出版
D.Rahter, 1942.
Cantext Pub., 1997 (2手独奏ピアノ版).
〇編成
????
〇演奏時間
約25分
〇構成
単一楽章形式。
Allegro dramatico - Allegretto - Allegro dramatico - Finale. Allegro vivace


#  作品概観 (便宜上、{Thadani 1997} に従い、 全体を4つに区分する)

"Allegro dramatico"
 オクターブの上昇から始まるオーケストラの序奏の後、ピアノが導入される。音階を激しく上下する ピアノの音形が内に巧みに旋律を織り込んで展開され、やがて オーケストラと和して壮麗な盛り上がりを見せる。この音階を上下する動きは 全曲にかたちを変えて現れ、一種の統一感を与えている。さらに主要な音形がいくつか提示される。

"Allegretto"
 展開部にあたる箇所であるが、Andante cantabile により清新な気分も加わる。 ピアノが和音を連続して進めていく非常に技巧的な箇所を経て、新たな美しい音形が現れ、 ひととおり展開されていく。

"Allegro dramatico"
 再現部。冒頭にオケ序奏が回帰し、ピアノが縦横に技巧的に展開する。

"Finale. Allegro vivace"
 ホルン(?)による狩の角笛を思わせる響きに始まる終結部。オーケストラとピアノが競い合うように 展開し、ピアノによる短いカデンツァを経て、スケールの大きなクライマックスを形成する。



#  コメント

 ヴィトゲンシュタインの依頼を受けて作曲された作品の中では、ヨーゼフ・ラボーアの一連の作品を除けば、 ボルトキエヴィッチのピアノ協奏曲第2番は最初期のものに属する。同時期の作品にはヒンデミットの ピアノ協奏曲、コルンゴルトのピアノ協奏曲、フランツ・シュミットの協奏的変奏曲がある。初演はこれら の中でも一番早くに行われた。作曲開始時期は、おそらく彼がコンスタンティノープルからヴィーンに移った頃の 前後であろう。

 (1937年8月12日の手紙でこの作品は「彼[ヴィトゲンシュタイン]のためにいくつかの街で書いた」と 言われている。初演時期を考えると、この「いくつかの街」とはヴィーンとコンスタンティノープル あたりを指すと考えることもできる。コンスタンティノープルにボルトキエヴィッチが滞在していた時期は 1919年から1922年である。自伝には「ボルトキエヴィッチは……作品25から33までをヴィーンで 作曲した」という記述がある(彼の二番目の――中規模の――自伝。彼はこの自伝では自らを三人称で 記述している。)。コンスタンティノープル以前の時期に作曲開始時点を想定する積極的な根拠は今のところ 見出せない。なおこの曲の作曲年代については{Kim-Park}は 1929年としており(S.36)、これはおそらく{Flindell 1971b} 所収の作品目録にある「1929年1月11日」という演奏日付に由来する記述だと思われる。)

 ボルトキエヴィッチのピアノ協奏曲第1番作品16は1913年にベルリンでヴァン・ダーレンのピアノにより 初演され、大変な成功を収めた。この作品はヨーロッパ各地のみならずアメリカ大陸でも演奏され、 ボルトキエヴィッチの出世作となった。続く協奏曲第2番の作曲にボルトキエヴィッチが並々ならぬ意欲をもって 取り組んだことは、想像に難くない。そして実際、このピアノ協奏曲第2番作品28は、この時点において過去に 類例のほとんどない左手のピアノのための協奏曲としては、相当に充実した作品となった。美しく力強い曲想、 確かな構成、効果的な技巧の配置には、誰しも感嘆を禁じえないであろう。(とはいえ未だこの作品のフル・ オーケストラでの演奏を聴くことができない状況では、以上はどこまでも暫定的な作品評価に止まらざるを 得ない。)

 1923年の初演がどのような結果であったのかは不明であるが、ヴィトゲンシュタインはその後もこの曲を 再演していて、批評は概して好意的であったようである(二番目の自伝を参照)。

 「……わたしにはベルリンの批評家たちから、わたしのピアノ協奏曲第2番(ヴィトゲンシュタイン)について、 すばらしい批評が六つ寄せられました。2月7日の Allgemeine Musik Zeitung 第6号を読んでください!  その一方で、ひどいバカ者が " Signalen " に記事を書いていて、ひどく下手くそな伴奏をつけたクンヴァルトを 賞賛しています――要するに、事態はちょうど逆だったのです。クンヴァルトは年をとりました。 ヴィトゲンシュタインの方もわたしが指揮しなかったのを後悔させられるはめになったわけです。しかしベルリンの 指揮者たちはよそ者が指揮台に立つのを許しませんでした。……」(1930年2月7日の手紙)

 ヴィトゲンシュタインはこの作品に――他の委託作品と同様に――独占演奏権を設定していたものと思われるが、 それが終身のものであったか期限つきのものであったかはわからない(ちなみにピアノの名手であった作曲家自身が この作品を演奏した形跡はない。)。戦中戦後にかけてこの作品をヨーロッパで演奏していたのは、おそらく 初演者ではなく、同じ隻腕のハンデを負った他のピアニストたちであったのだろう。後にプロコフィエフの 第4協奏曲を世界初演することになるドイツのピアニスト、ジークフリート・ラップの演奏は、世評も高く、 最晩年を迎えていた作曲家を喜ばせている。

 「……ドイツでは隻腕のピアニスト、ジークフリート・ラップ(ヴァイマール音楽院)が、わたしの作曲した 左手のための第2協奏曲を十の都市(ドレスデン、マイニンゲンを含む)で演奏しました。彼はひとつの奇跡 であり、驚異です! わたしは未だ彼の演奏を聴いてはいませんが、彼に対する批評は大変な、非常に熱狂的な ものです。ひょっとしたら彼はじきにヴィーンを訪れることでしょう。……」(1952年3月18日の 手紙)

 ピアノ協奏曲第2番の楽譜は、出版社ダニエル・ラーターから、戦時中の1942年に手書き譜の複写版として 出版されたが、空襲による出版譜の焼失の影響もあったのか、今日までほとんど知られることなく経過した。 現在唯一入手可能なB.Thadani 氏と J.Skinner 氏による独奏ピアノ版楽譜は、近年に発見された 2台ピアノ版に基づいている。なお、ヴィトゲンシュタイン夫人の死後に発見された大量の書類の中には、 この曲のフル・スコアが含まれており、他の楽譜等と共に2003年にサザビーズで競売に付された。この曲の 早急な出版と蘇演、録音が待たれる現状である。



#  録音について

 ボルトキエヴィッチのピアノ協奏曲第2番の録音は、前述の B.Thadani 氏によるもの (Cantext Publications)唯一つ しか確認できていない。この録音は伴奏部がシンセサイザーであるため、作品に対する十全な評価を与える には残念ながら足りないと言わざるを得ないが、しかしそうした制限は制限としても、作品の構成、骨格を 確認することは全く可能であるし、作品自体の魅力も十分に感得できるものとなっている。Thadani 氏は ボルトキエヴィッチの多くの作品の録音を自主制作しており、そのリストは氏のウェブサイトで見ることが できる。

 (なお、ボルトキエヴィッチのピアノ協奏曲第1番変ロ長調作品16にはスティーヴン・クームズによる 録音があり( CDA66624 The Romantic Piano Concerto - 4 ( Hyperion ) )、いささか控えめな 演奏ながら、この知られざる作曲家の実力の格好の証明となっている。また、彼のピアノ・ソロ作品に ついては、オランダ音楽協会からクラス・トラップマンによる一連の録音がリリースされており、2006年 4月時点で第3巻まで進行している。名曲、ピアノ・ソナタ第2番作品60はもちろん、小曲に至るまで 網羅的に収録されており、優れた演奏と相俟ってすこぶる貴重なシリーズとなっている。)


**未完**



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