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SLH - PW_Pianist_Biographische Tabelle_1887, 1889 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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残念ながら、パウル・ヴィトゲンシュタインの幼年時代についてはそれほど多くのことは知られて いない。しかし彼の生まれついた環境、またヴィトゲンシュタイン家の歴史については各種の文献から ある程度のことを知ることができる――彼についていくぶんなりとも伝記的なことを述べようとする ならば、こうした背景的事実から始めることが恐らく適切であろう。 ヴィトゲンシュタイン家の歴史については、 {McGuinness}に比較的詳細な記述があるため、さしあたり主としてそれを要約するかたちで 紹介することにしたい。ちなみに、文献の中にはヴィトゲンシュタイン家の家系図を掲載している ものが散見されるのだが、それらの中では、 {McGuinness}の巻頭に掲載されているもの(S.viii)が簡潔でわかりやすい。 {Prokop}の巻末に掲載されているもの(S.275-277) は詳細ではあるものの誤記が多いように思われる。また、 {Flindell 1971b}に掲載された家系図 (S.125)には、パウル・ヴィトゲンシュタインの祖母、ファニーの家系がいくぶん詳細に 示されており、貴重である。 ヴィトゲンシュタイン家の先祖は、18世紀後半の精確にはわからないある時期にまでさかのぼる ようである。当時、ノルトライン=ヴェストファーレンのヴィトゲンシュタイン郡ラースフェに、 マイアー・モーゼスというユダヤ人が居住していた。彼にはモーゼス・マイアーという息子がいのだが、 この息子モーゼスが後に生地の郡名を自らの名に加え、モーゼス・マイアー・ヴィトゲンシュタインと 名のることとなる(ただし彼はヴィトゲンシュタイン姓を名のりだした頃にはすでにヘッセン= ダルムシュタットのコルバッハに移住していた。)。彼がパウルとルートヴィヒのヴィトゲンシュタイン 兄弟の曽祖父である。マイアー・モーゼスは1805年に没するが、それに先立つ1802年、 モーゼス・マイアー・ヴィトゲンシュタインに息子へルマン・クリスティアンが生れる。幾分でも 伝記的な事実が伝えられるのはこのヘルマン・クリスティアン、すなわちパウルの祖父からのようである。 ({McGuinness} S.1-2) ヘルマン・クリスティアン・ヴィトゲンシュタインはコルバッハで木綿業を営み、ヨーロッパ各国を 行き来する生活を送っていた。あるときヴィーンの商家の息子グスタフ・フィグドールと知己に なり、このフィグドールの実家にヘルマンは招かれた。そこでグスタフの姉、ファニーと出会う。 ふたりはそれほど期間を置かずに結婚することとなった(1839年)。ちなみにファニーの叔母である (同名の)ファニー・フィグドールがユリウス・ヨアヒムという人物との間にもうけた子供こそ、後の 大ヴァイオリニスト、ヨーゼフ・ヨアヒムである。 ({McGuinness} S.5-6, {Flindell 1971b} S.125) パウルの祖母フィグドールは厳しく頑固な人物であった。それはしばしば癇癪というかたちで 子供たちの教育において表現されたらしい。だが頑固さについて言えば、祖父へルマンもかなりなもの だったようであり、彼は商売人としては粘り強く、家庭においては威厳に溢れた権威者であった。 また彼は幼いヨーゼフ・ヨアヒムの教育に関与し、彼をメンデルスゾーンに紹介した人物としても 知られている。このヘルマンとファニーの夫婦には11人の子供があり、パウルの父カールは彼らの 6番目の子(三男)にあたる。カールは父へルマンに容易に従わず、家を飛び出して遍歴するような 一種の異端児であり、父とは――粘り強い気質を共有してはいたものの――衝突することが多かった ようである。({McGuinness} S.7-9, 16-18) カール・ヴィトゲンシュタインは、ライプツィヒ近郊のゴーリスにて1848年4月8日に生まれた。 一家は1851年にオーストリアへ移住し、カールはやがてヴィーンのギムナジウムに入学する。 名門のギムナジウムであったと言われるが、いたずら好きで学校での勉強に関心がなかったカールは、 結局卒業を前に退学させられてしまう。父へルマンは何とかして息子に卒業資格をとらせようとしたが、 反抗的なカールは家出しアメリカに渡る。1865年4月のことだった。 ({McGuinness} S.16-18, {Bramann & Moran}) カールのアメリカ滞在は必ずしも快適で成功に満ちたものではなかったのかもしれない。しかし自分の 能力、才覚によって、ほとんど無一文で飛び出したにもかかわらず、2年近くの間なんとかしのいで いくことはできた。このことはカールにとって大きな自信となったようである。1867年には 彼はヴィーンに戻り、今度はヴィーン工科大学に入学する。技術者としての道、これは父親に 命じられた道ではなく、まさに自信をもって自ら決断した道であったのだろう。妹ベルタの夫カール・ クーペルヴィーザーの兄、パウルの会社の事業に参加することになったのが1873年。同年、 レオポルディーネ・カルムスと結婚。その4年後の1877年には早くも会社の重役となり、カールは オーストリア産業界に急速にその頭角を現していくこととなる。 ({McGuinness} S.18-22) カールはライバル会社を次々に出し抜き吸収することにより、1880年代にはオーストリアに鉄鋼業の 一大カルテルを築き上げた。その目覚しい姿は、反面、世人の反感を買いもしたが、カール自身は自らの やり方が国家にとっても正しいものであると確信し、意にも介さなかったようである。この華々しい社会的 活躍の一方で、カールは芸術を愛し、ヴィーン屈指のパトロンとして多くの芸術家を庇護する存在でも あった。特に彼の好んだのは音楽であり、当代一流の音楽家たちと交流する一方、家庭においては自ら ヴァイオリンを取り、優れたアマチュア・ピアニストだった妻レオポルディーネとよく二重奏を楽しんだと 言われる。必然的に、カールの家――かつて貴族の持ち物であった、アレーガッセと呼ばれる大邸宅――は 極めて音楽的な空間となった。名指揮者ブルーノ・ヴァルターは当時を次のように証言している。 「私はわずかな例外を除けば、本来のウィーン《社交界》からは遠ざかってきた。しかし、音楽に 心酔したウィーン大市民のサロンのひとつ、アレーガッセのヴィットゲンシュタイン邸のことは、 思いださないわけにはいかない。ヴィットゲンシュタイン家のひとたちは、芸術と芸術家が昔から 《庇護》を受けてきた、ウィーンのあの指導的なサークルの高貴な伝統を継承していたが、それは 彼らが社会的に著名なための義務感からばかりでなく、芸術に対する純粋な感激から生じたものでも あった。ブラームスはヴィットゲンシュタイン家の友人であったし、ヨーアヒムとその四重奏団は ここでしばしば演奏したものだし――私の間違いでなければ、ブラームスの『クラリネット五重奏曲』 は、すばらしいクラリネット奏者ミュールフェルトによってここで私的に演奏されたのであった―― 音楽家ばかりでなく、重要な画家や彫刻家、また最もすぐれた学者たちも、えりすぐった美術品で いっぱいになったこの邸に行き来した。カール・ヴィットゲンシュタインは現代芸術にも多大の関心を 抱いていた――マックス・クリンガーのベートーヴェン像が、分離派の展覧会場から彼の邸に運ばれて きたし、広間のひとつには他の現代美術家とともに、グスタフ・クリムトの代表作が並んでいた。 ……」 ブラームスとヴィトゲンシュタイン家との交流は父ヘルマン・クリスティアンの代からのもの で、カールの姉妹はブラームスにピアノを教わったこともあった(あるいはクララ・シューマン から)。また、アルノルト・ロゼやパブロ・カザルス、リヒャルト・シュトラウス、グスタフ・ マーラーなど、錚々たる面々がこの家に集ったことが知られている。盲目のオルガニスト、 ヨーゼフ・ラボーアも重要なメンバーで、ヴィトゲンシュタイン家のひとびとは特に彼を尊敬し 庇護した。 ({McGuinness} S.22-25, 28-34, {Monk} S.8, {Walter} S.208) カールがレオポルディーネと知り合ったのは結婚の1年前の1872年。レオポルディーネの 実家のカルムス家はユダヤ系の名家として知られ(ただし彼女の父は既にキリスト教徒だった。ちなみに カールの父ヘルマン・クリスティアンは少年時代に洗礼を受けたとされる。)、商売によりそれなりの 財産を持ってはいたが、それはしかしヴィトゲンシュタイン家ほどではなかったらしい。 レオポルディーネは初めカールの前にその姉妹の知己として現われ、やがて音楽を通じて交流を深め、 結婚する。二人は子供に恵まれ、1874年誕生の長女ヘルミーネ以後、9人の子供が生まれることと なった(1876年に生まれその年に死んだ次女ドーラ以外は皆一応成人している)。 ({McGuinness} S.3-4, 20-21, 34-35, {Prokop} S.276) レオポルディーネは、控えめに言っても、素人離れした音楽性の持ち主だった。決してピアニストと して恵まれた体ではなかったが、素晴らしい技巧を持ち、視奏に優れ、夫や子供たち、さらには アレーガッセを訪れた一流の音楽家たちとの合奏にその才能を遺憾なく発揮した(むしろ彼女がいるから こそヴィトゲンシュタインの家に一流音楽家たちが集まったという面もあった。カール・ ゴルトマルクの弟子でもあった彼女のピアノの腕前は、職業音楽家を目指したその息子たちよりも 優れていたとすら言われている)。もちろんカール・ヴィトゲンシュタインの方も優れたアマチュア・ ヴァイオリニストであり(アメリカ時代にはヴァイオリンやホルンの教師を勤めたことがあった)、 また古くから名音楽家たちが訪れる家で育ったわけだから、この二人の家庭が優れて音楽的なものと なり――その子供たちが軒並み音楽と深く結びつくこととなったのは当然のことだった(ただ、 レオポルディーネは音楽のこと以外についてはあまりに自信が弱かったため、夫に意見する、自らの 子供の教育に采配を振るう、といったことはまるでなかったらしい。そのことが家族の有様に後々 微妙な影を落とすこととなったことは否定しがたい。)。 ({McGuinness} S.18, 33-36, 42-43) カールとレオポルディーネの夫婦の間に生まれた子供たちには、ピアニストとなった四男パウル のみならず、ほぼ全員に芸術に対する才能、あるいは鋭い感受性が備わっていた。とりわけの天才は、 1877年生まれの長男ハンスだった。幼い頃から音楽の才能を示し様々な楽器を操ることができた 彼は、明らかに音楽家になるべく生まれついていた――幼い末弟ルートヴィヒの目には、音楽に没頭する ハンスの姿がまさに天才の典型として焼きついていたし、それは恐らくパウルにしてみても同じこと だっただろう。また長女ヘルミーネもピアノをたしなみ、また優れたアマチュア画家であり、父の 美術品収集に一役買う一流の審美眼の持ち主でもあった。1878年生まれの次男コンラートやその 翌年に生まれた次女ヘレーネも音楽を好み、1881年生まれの三男ルドルフには文学の才があった。 1882年生まれの四女マルガレーテは時代の思想思潮に敏感で教養があり、後にはまさに 「行動する女性」の典型のごとき人物となった。とにかくどの子供も、程度の差こそあれ、両親の 豊かなセンスを受け継いでいたようである。 ({McGuinness} S.41-49, {Monk} S.13) パウル・カール・ヘルマン・ヴィトゲンシュタインは、1887年11月5日、一家の四男として 生まれた。四女マルガレーテ以来、カールとレオポルディーネの夫婦の5年ぶりの子供であった。この パウルとその一年半後に生まれた五男ルートヴィヒは、共にこの夫婦の子供たちの中で年齢の離れた 最後のグループとして様々な点で類似した環境に置かれることとなり、(少なくとも第二次世界大戦 前までは)精神的にも比較的緊密な結びつきを保つこととなる。 とはいえパウルとルートヴィヒの性格は相当程度に対照的なものだった。後年ルートヴィヒは こう回想している。
「遡りうるかぎりでの記憶によれば、私は優しい子ではあったが、同時に性格が弱かった。 ルートヴィヒが比較的内向的で神経質な子供であったとするならば、パウルの方は大胆で我が強く、 周囲が手を焼くようないたずら好きの子供だったようである。ひょっとしたら父カールの性格を その子供たちの中で最もよく受け継いでいたのは、このパウルだったのかもしれない。 ({McGuinness} S.49-51, 78-81) ところでカールは、父親ヘルマン・クリスティアンが自分に課そうとしたような学校での勉強が 無意味であるとの信念に基づき、子供たちを学校に行かせず、家庭教師をつけ、自分の事業の後継者と なるに必要な勉強を主としてさせるという教育方針を採っていた――その際、個々の子供の傾向や才能に 即した勉強は、必ずしも禁じられていたわけではないにしても、重視はされなかった。パウル (とルートヴィヒ)も、このカールの教育方針に従ってさしあたりは教育されることとなる。しかし 家庭教師による勉強は、子供に勉強を習慣付けるには適切ではなかったらしく、またパウル自身が 父ゆずりのいたずら好きと腕白ぶりをここでも発揮し、家庭教師の言うことをまるで聞かなかった ため、結局こうした教育は芳しい成果を挙げることができなかったようである(こうした結果はパウルに 限った話ではなく、長兄ハンスや弟ルートヴィヒも同様だった)。 ({McGuinness} S.41-42, 72-73) 幼いパウルにとって重要だったのは勉強よりも――兄や姉たちと同様に――やはり音楽だった。 楽才に恵まれていた母レオポルディーネは、子供たちの教育にほとんど関与するところが なかったとは言われるが、恐らくパウルに最初にピアノの手ほどきをした人物であったのだろう。 名作と言われているたくさんの作品を母親と連弾することは、幼いパウルにとって最高の勉強で あった(彼の視奏の腕前はこのときに養われたと言われる)。また、アレーガッセを訪れる音楽家 たちとの交流、そして彼らの演奏にじかに触れることも、パウルの音楽性を磨くのに大きな役割を 果たした――リヒャルト・シュトラウスとの連弾は、ルイ・シュポーアの作品に目を開かれる機会と なったし、何よりも大作曲家ヨハネス・ブラームスの姿は、彼にとって終生忘れがたいものとなった ({McGuinness} S.42-43, {Flindell 1971b} S.110)。 パウルの没後、生前彼と親しく交流したトレヴォー・ハーヴェイはこう証言している。 「……わたしはパウルがヴィーンでわたしにこう述べたのを思い出す。彼はブラームスが自分の 家を訪れた最後の機会のことをよく憶えていた――『彼のピアノ五重奏曲が演奏されたのですが、 彼は自分のお気に入りのいす、あそこにあるあのいすに腰かけていたんですよ。』……」 (1961年6月『グラモフォン』誌掲載の追悼文から。 {Harvey} Abschn.2) パウルは父からその性格のみならず強靭な記憶力も受け継いでいた(それはこのハーヴェイの証言 からもある程度伺える)。そのため、幼い頃から多く音楽に接する内に膨大な量の作品を憶え込んで しまい、やがて、曲の中の数小節をわずかに聴くだけで、それが誰の何という曲であるかを たちどころに言い当てることができるようになった。――ここで後年の彼の好みについて言うと、 とりわけ彼にとって重要だったのはバッハとベートーヴェンの作品だった(特に後者に関しては、 パウルの弟子曰く「パウル・ヴィトゲンシュタインにとってベートベーヴェンは神」だった)。 それにシューマン、そしてメンデルスゾーンも大事な作曲家だったし、マイナーではあるが才能ある 作曲家たちの作品もよく知っていた。彼の楽しみはこうしたお気に入りの作曲家たちの歌曲を三手で ――伴奏に合わせて彼が高声のメロディを弾くという仕方で――演奏することだった。 ({Flindell 1971b} S.110, {Kim-Park} S.15-16, {Otten-Attermann} S.41, {Harvey} Abschn.7) 幼い頃から音楽と深く関わりその才能を伸ばしていったパウルがやがて音楽家を志すように なったのは、当然の成り行きだったであろう。しかし息子が職業音楽家となることを父カールが許して いないのは明らかだった。カールの仕事の成功は、反面他の企業や政府との間に軋轢を生み、やがて カールは仕事からの引退を考え始める。にもかかわらず、長兄ハンスは父の後を継ぐことに関心を 持てず、父とは気まずい関係にあった。それに、父の圧倒的なパーソナリティ、その恐るべき有能ぶり が家庭にもたらしていた一種の緊張感――幸いにしてパウルにとっては父は嫌うべき存在では 全然なかったようであるが、しかしこうした微妙な状況をどのように彼は感じていたのであろうか。 ({McGuinness} S.25-26, 40-41)
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