SLH - PW_Pianist_Biographische Tabelle
        
        
    
    


 パウル・ヴィトゲンシュタイン略年譜。詳細については各西暦年からのリンクを参照のこと( * 付きの 西暦年はパウル・ヴィトゲンシュタイン本人以外に関するエピソードを示す。)。
 内容は主として{Flindell 1971b}{Kim-Park}に拠る。



1887
 11月5日、パウル・カール・ヘルマン・ヴィトゲンシュタイン、ヴィーンにて カール・ヴィトゲンシュタインとレオポルディーネ・カルムスとの間の第8子(四男) として誕生。

* 1889
 4月26日、ルートヴィヒ・ヨーゼフ・ヨーハン・ヴィトゲンシュタイン、カールと レオポルディーネとの間の第9子(五男)として誕生。

1897
 テオドール・レシェティツキの助手、Malwine Brée からピアノを習い始める(〜1907)。 (同年ヨハネス・ブラームス没)

* 1902
 長男ハンス、アメリカにて失踪(自殺したとされる)。

1903
 ギムナジウムに入学。

* 1904
 5月2日、三男ルドルフ、ベルリンにて自殺。

* 1907
 ヨーゼフ・ヨアヒム没。

1908
 オーストリア軍の義務兵役に就く(〜1909)。

1910
 テオドール・レシェティツキにピアノを師事。またおよそ同時期にヨーゼフ・ラボーア にも師事する。

* 1912
 五男ルートヴィヒ、ケンブリッジ大学に入学。バートランド・ラッセルに論理学を師事。

1913
 12月1日、ヴィーン楽友協会大ホールでのコンサートでデヴューする。リストの協奏曲変ホ長調(第1番) などを演奏。(同年1月20日、父カール没)

1914
 3月30日、ヴィーン楽友協会大ホールにて第1次世界大戦前最後のコンサート。8月、軍務に就く。おそらく直後、ポーランド(当時ロシア領)のザモスク近郊での戦闘の際に負傷。ロシア軍の捕虜となる。軍病院に 収容され、右腕を切断。その後、シベリアの捕虜収容所に移送される。

1915
 11月、捕虜交換により、国際赤十字の保護のもとスウェーデンに移送される。12月、ヴィーンに帰還、 切断後の右腕の予後が悪かったため、追加的に再び切断術を受ける。直後からピアノの練習を再開。 (同年テオドール・レシェティツキ没)

1916
 12月12日、ヴィーン楽友協会大ホールにて復員後初のコンサート。ヨーゼフ・ラボーアの新作、 変奏曲形式によるコンツェルトシュトゥックニ長調を世界初演。

1917
 志願し、夏頃から軍務に復帰(〜1918)。

* 1918
 10月27日、次男コンラート、戦地において自殺。11月3日、戦争終結。五男ルートヴィヒ、 イタリア軍の捕虜となる(〜1919)。

* 1921
 ルートヴィヒの所謂「前期」の主著『論理哲学論考』、『自然哲学年報』誌上にて発表される。

1923
 この頃から著名な作曲家に左手のための作品の作曲を委嘱し始める。11月29日、 ボルトキエヴィッチのピアノ協奏曲第2番作品28を世界初演。

1924
 2月2日、フランツ・シュミットのベートーヴェンの主題による協奏的変奏曲を世界初演。 9月22日、コルンゴルトのピアノ協奏曲嬰ハ調作品17を世界初演。(同年 ヨーゼフ・ラボーア没)

1925
 10月6日、ドレスデンにてR.シュトラウスの家庭交響曲のパレルゴン作品73を世界初演。

* 1926
 6月3日、母レオポルディーネ没。

1927
 4月26日、シュトゥットガルトにてフランツ・シュミットの五重奏曲ト長調を世界初演。

1928
 1月16日、ベルリンにてR.シュトラウスのパンアテネ行進曲作品74を世界初演。

* 1929
 ルートヴィヒ、ケンブリッジ大学の大学院に再入学。『論理哲学論考』により博士号を取得。

1930
 10月21日、コルンゴルトの組曲作品23を世界初演。(ルートヴィヒ、ケンブリッジで 講義を開始)

1931
 新ヴィーン音楽院のピアノ科教授に就任(〜1938)。

1932
 1月5日、ラヴェルの左手のための協奏曲を世界初演。

1933
 3月16日、フランツ・シュミットの五重奏曲変ロ長調を世界初演。(ドイツ共和国にて ナチス政権の成立)

1934
 ピアノの生徒だったヒルデ・シャニアと結婚。カナダ・アメリカへ楽旅(〜1935)。ラヴェル、 R.シュトラウス、コルンゴルト等を演奏する。

1935
 ヒルデとの間に長女エリザベートが生まれる。2月9日、フランツ・シュミットのピアノ協奏曲 変ホ長調を世界初演。

* 1936
 ルートヴィヒ、所謂「後期」の主著『哲学的探求』として後に出版される原稿の執筆を 開始。

1937
 ヒルデとの間に次女ジョアンが生まれる。(ラヴェル没)

1938
 3月のナチス・ドイツによるオーストリア併合を受け、イギリスにルートヴィヒを訪ねた後、 スイスとキューバを経由しアメリカに亡命。ニュー・ヨークにピアノのスタジオを構えて 個人的にレッスンを行うかたわら、ラルフ・ウルフ音楽院でも教える(〜1943)。

1939
 4月、ベルリンにてヴィトゲンシュタイン家の財産のナチス側への引渡しに関する交渉が 始まる。7月、ニュー・ヨークにて、ルートヴィヒらを交えて交渉。8月20日、 チューリヒにて交渉妥結。ドイツ帝国内に残された財産のほとんどがドイツ帝国銀行に 引き渡される。フランツ・シュミットの作品の二手用編曲の許可に関して、作曲家の未亡人 マルガレーテを告訴。(ルートヴィヒ、ケンブリッジ大学教授となる。12月12日、 フリードリヒ・ヴューラー、フランツ・シュミットの五重奏曲イ長調を二手編曲版のかたちで 世界初演。フランツ・シュミット没。第2次世界大戦勃発。)

1940
 マンハッタンヴィル大学教授に就任(〜1945)。(フリードリヒ・ヴューラー、フランツ・ シュミットのトッカータを二手編曲版のかたちで世界初演)

1941
 ヒルデとの間に長男ルイスが生まれる。

1942
 1月16日、フィラデルフィアにてブリテンのディヴァージョンズ作品21を世界初演。 レシェティツキ協会の創立に関与。

* 1945
 5月7日、ドイツ無条件降伏。

1946
 アメリカ国籍を得る。

* 1947
 ルートヴィヒ、ケンブリッジ大学教授を辞職。

1949
 レシェティツキ協会会長代理に就任(〜1959)。フランツ・シュミット未亡人 マルガレーテと和解。戦後初めてヴィーンでコンサートを行う。(R.シュトラウス没)

* 1950
 2月11日、長女ヘルミーネ没。

* 1951
 4月29日、ルートヴィヒ、ケンブリッジにて前立腺癌により没。

1952
 4月、イスラエルへ楽旅。(ボルトキエヴィッチ没)

* 1953
 ルートヴィヒの所謂「後期」の主著『哲学的探求』、バージル・ブラックウェルから 出版される。

* 1956
 9月5日、ジークフリート・ラップ、ベルリンにてプロコフィエフのピアノ協奏曲 第4番作品53を世界初演。三女ヘレーネ没。

1957
 2月12日、ニュー・ヨークのオーストリア協会にて「一手のピアノ演奏について」 と題して講演、コンサートを行う。『左手のための教本』全3巻をウニヴェルザール から出版する。(コルンゴルト没)

1958
 6月5日、フィラデルフィア音楽学校から名誉音楽博士の学位が授与される。 (9月27日、四女マルガレーテ没)

1961
 3月3日、ニュー・ヨークにて没。

* 2001
 妻ヒルデ没。

* 2003
 3月22日、膨大な量の楽譜を含むパウルの遺品がサザビーズで競売に付される。



**未完**



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