SLH - PW_usw._Bemerkungen_Einführung I
        
        
    
    


導入的紹介T

 左手のピアノのための作品は膨大な量が存在することが知られているが、その反面、 個別の作品については知られることがそう多くはない。恐らく大抵のひとは、ラヴェルの 協奏曲を代表的作品として理解し、その理解のみで留まることになるであろう。それはそれで 必ずしも不当ではないが、しかし多少検索の手を広げれば、いくつかの作品は意外に耳に しやすいことに気づかれる筈である。

 左手のピアノ作品群を網羅的に紹介することは、固より一ディレッタントには不可能である。 だがある程度対象を絞り、このジャンルに踏み入る取っ掛かりを提案する程度なら、あるいは 可能であるのかもしれない。以下はそのひとつのささやかな試みである。


 まずはやはりなんと言ってもラヴェルの「左手のための協奏曲」を挙げねばなら ない。この作品はコンサートのスタンダード・ナンバーに定着しているほとんど唯一の左手の ピアノ作品であり、20世紀の名作として古典的な評価を受けていると言っても過言ではない。 ラヴェル一流の繊細華麗なピアノと色彩豊かなオーケストラの競演が見事であるし、それに 加えてまた、ラヴェル作品としてはある意味破格のドラマティックさが聴く者の心を強く打つ。 傑作の名に値する作品である。

 それはそれとして、ラヴェルの協奏曲は、実は左手のためのピアノ作品というものを理解する 上で格好の例と言うことができる。というのも、ラヴェルの協奏曲には左手のピアノ作品に おいて用いられうる特徴的な表現法がことごとく高度に洗練されたかたちで現われているから である。まず、冒頭のオケの序奏の後に置かれた豪快なカデンツァには、主旋律と低音の伴奏の ずらしという左手のピアノ曲にとって基本的な方法が明瞭に現われている。また極めて 美しく印象的な第二主題には左手のみによる複リズム的進行という高度な技法が用いられている。 左手のピアノにとって非常に効果的なグリッサンドも随所に配されており、曲を終結へと導く長い カデンツァは、単旋律の流れに複声部を埋め込むという重要な手法の最高の範例と言える。―― 要するに、ラヴェルの協奏曲が傑作であるというのは、左手のピアノ作品の可能性を相当程度 汲み尽くしているという意味でもそうなのである。

 ラヴェルの作品が最高度の評価を受ける名作であるとして、しかしその他の左手の作品には 価値の低いものしかないかというと、そうではない。ひとつの問題は、ラヴェル以外の作品が 殆んど知られていないというところにあるが、近年はそれでも少しずつこのジャンルに属する 作品が紹介されるようになってきた。ラヴェルの協奏曲から話題を起こしたので、さらに 他の左手のための協奏的作品を紹介すると、プロコフィエフの「ピアノ協奏曲第4番作品53」 やR.シュトラウスの「家庭交響曲のパレルゴン作品73」が比較的知られて いるように思われる。

 プロコフィエフの「ピアノ協奏曲第4番作品53」は、プロコフィエフの全部で5曲 あるピアノ協奏曲の中でも、左手の協奏曲として、またその成立と紹介の事情などからして、 特殊な位置を占める作品となっている。よく知られた第2番作品16や第3番作品26など とは異なり、一般的な人気がそうあるわけではないが、一聴の価値がある作品である。

 曲は全4楽章で構成される。快速にピアノが走り抜けるヴィヴァーチェの第1楽章、叙情的で 陰影の濃いアンダンテの第2楽章、第3楽章はいかにもひねりの効いた運動的なモデラート。 最後の第4楽章は第1楽章を短く回想するユニークで洒落たヴィヴァーチェとなっている。 全般にピアノとオケのバランスがよく計算されており、協奏曲としての面白味を感じさせる 作品である。いかにもプロコフィエフ的な絶妙な旋律感覚やピアノ・パートの打楽器的な処理も 面白く、いささか派手さに欠けるところがあるとしても、ラヴェルの作品とはまた違った左手の ピアノの方向性を鮮やかに示してくれている。その意味で大変貴重な作品である。

 R.シュトラウスの「家庭交響曲のパレルゴン作品73」は、上の2曲とはまた いくぶん毛色が異なり、性格的には標題音楽に近いものとなっていて、緊密でドラマティックな 展開を持つ作品である。おおむね単旋律的ではあるが休みなく曲の進行をリードするピアノ・ パートには体力と技巧の両方が容赦なく要求される、大変な難曲でもある。

 内容はシュトラウス自身の息子の病気からの回復を音楽的に描き出したもので、悲劇的な前半 と明るい後半というはっきりした二部構成をとり、交響詩的と形容することもできるものである。 ピアノ・パートがオケの伴奏と一体になって雄弁かつ緻密に音のドラマを展開していく様は実に 壮観である。左手のピアノがどれだけ率直に力強く語りうるのかということを示す格好の例と 言うことができるであろう。

 以上の3曲にはそれぞれ独自の性格があり、それは作曲家の個性ということでもあるのだが、 これらをあらためて並置してみると、左手のピアノの協奏曲というものの多彩な可能性をもある 程度伺うことができるのではないだろうか。――だがそれはそれとして、左手のピアノはオケと 一緒ではなくそれ自体としても、それなりに楽しめる作品が揃っている。左手のピアノ・ソロに よる作品をいくつか次に取り上げてみたい。

 近時特に有名なのは、バッハ/ブラームスの「シャコンヌ」であろう。バッハの無伴奏 ヴァイオリンによるパルティータ第2番イ短調BWV1003第5楽章のシャコンヌは、作曲家 屈指の傑作として有名であり、それだけを取り出してもよく演奏される作品であるが、古今の 作曲家や演奏家たちは、こぞってこれを様々な演奏形態のために編曲してきた。ピアノに関して はブゾーニによるヴィルトゥオジティックな編曲が特に有名であり、重要なコンサート・ピースと して定着しているわけだが、ブラームスのそれは外面的な派手さのほとんどない左手のピアノの ための編曲であった。それは右手を怪我したクララ・シューマンへのブラームスなりの贈り物 という意味合いがあったのであるが、原曲の味わいをなし得る限りにおいて保持しているという 意味で、極めて完成度の高い編曲であると言える。凡そ粉飾というものからは遠い編曲である だけに、ピアニストにより無味乾燥した駄演になりうるし、また心底を深く揺さぶる名演にも なりうる。名曲の恐るべき名編曲である。

 スクリャービンの「前奏曲作品9−1」「ノクターン作品9−2」の2曲も また、(特にロシアのピアニストによって)よく演奏される作品である。作曲家の若き日、 右手を傷めた折に作曲された小品である。いずれの曲も簡潔で落ち着いた雰囲気に満ちており、 この作曲家の後年の作品に見られる難解さは特に見られず、無理なく美しい叙情的な響きが実現 されている。左手のピアノ作品の手本のような作品である。

 左手のピアノ作品の手本、と言うなら、名ピアノ教師として知られたレシェティツキの 「アンダンテ・フィナーレ作品13」も挙げねばならない。一般にそれほど耳にされること のない作品であるが、左手のピアノによる伴奏と主旋律の弾き分けの素晴らしい実例である。 冒頭のアルペジオの伴奏に乗って落ち着いて語りかけるテーマ、暖かい曲想を緻密な書法で 表現した中盤、きらめくようなアルペジオを再び駆使して感動的に歌う終結部と、演奏効果の 極めて高い充実した内容となっている。ドニゼッティのオペラから主題を借りてきてはいるが、 全く自然な流れでいささかの違和感も感じさせず、まさにピアノのためのパラフレーズの傑作 と言ってよかろう。

 フランスの大作曲家、サン=サーンスの「6つの練習曲作品135」も、左手の ピアノ曲を語る上で忘れることのできない作品である。作品は古典的な組曲を思わせる6つの 小曲から成り、それぞれの曲が鮮やかな対照を示す性格を持っているが、しかし極めて シンプルな構造から驚くほどに優美でニュアンスに富む曲想を紡ぎだしているのは全曲に通じる 特徴である。とりわけ第2曲 Alla Fuga (2声のフーガ)と第4曲 Bourrée 、第5曲 Élégie は印象が深い。コルトーやカサドゥシュといったフランスの名ピアニスト たちが好んだ作品であり、ラヴェルが「左手のための協奏曲」を作曲する際参考とした曲の ひとつでもある。

 左手のピアノの入った室内楽作品を次に挙げたいが、しかし残念ながら、このジャンルに 属する作品で容易に耳にできるものは少なく、実際上、二人のオーストリアの作曲家、 コルンゴルトとフランツ・シュミットの作品を挙げれば尽きてしまう。彼らの作品は いずれも傑作の名に相応しい完成度を持っており、左手のピアニストたちにとって かけがえのない財産となっているが、やはりその他の作品の普及もぜひとも期待したい ところである。

 コルンゴルトの「組曲作品23」はこの作曲家ならではの美しい旋律に満ち、 また構成の面から見てもほとんど隙のない、完成度の高い作品である。コルンゴルトには 左手のための「ピアノ協奏曲嬰ハ調作品17」もあったが、先鋭さと巨大な力感の際立つ この作品17ではピアノにいささか過大な役割が課されている面があったのにひきかえ、 作品23は充実したアンサンブルの中でピアノの存在感を無理なく際立たせている。 作曲家円熟期の傑作と言える。

 ヴァイオリン2、チェロ、ピアノの四重奏で演奏され、全部で5つの曲から 成る。劇的で緊張感のある曲想を持つ第1曲「前奏曲とフーガ」に始まり、第2曲 「ワルツ」、第3曲「グロテスケ」、自作のリートを引用した、全曲の白眉たる第4曲 「歌」を経て、暖かく緻密な第5曲「ロンド−フィナーレ」に終わる。ヴィーン的な 優美さと現代風のメカニカルな表現との調和が非常に面白く、また左手のピアノだけでなく、 弦楽器の表現的な扱いも注目される。

 フランツ・シュミットの「五重奏曲ト長調」は、3つある彼の左手のピアノの ための五重奏曲の最初の作品であり、ピアノ・パートが二手用に編曲されたかたちで、 ヴィーンの音楽家たちにより早くから演奏されてきた。派手な表現は見られない作品では あるが、作曲家一流のしっとりした美しい旋律と深い情感が忘れがたい逸品である。

 生前から演奏家・作曲家としてヴィーン市民の尊敬を集め、教育者として多くの演奏家を 育ててもきたフランツ・シュミットは、同じくヴィーンで活躍していた左手のピアニスト、 パウル・ヴィトゲンシュタインのためにいくつもの左手のピアノ曲を作曲した。この 「五重奏曲ト長調」はその2つめの作品にあたる。編成はピアノと弦楽四重奏であり、 第1楽章「活発に、しかし速くはなく Lebhaft, doch nicht schnell 」、第2楽章 「アダージョ Adagio 」、第3楽章「非常に落ち着いて Sehr ruhig 」、第4楽章 「非常に活発に Sehr lebhaft 」の全4楽章から成る。とりわけ第2楽章の淡い悲しみに 満ちた曲想、第4楽章の活発な表現と叙情的な歌の交錯が素晴らしい。ところでこの曲を 含むフランツ・シュミットの左手のピアノ作品は二手用編曲版のかたちで聴かれることが ほとんどであるが、それら編曲が作品の本質を必ずしも損なっていないことは一応付言して おきたい。


 以上に左手のピアノ曲の主だったところをいくつか挙げてきた。左手のピアノという演奏 形式は様々な理由からして今後も存在しつづけることが見込まれるため、これら作品はこの ジャンルのいわばマスター・ピースとして今後も演奏され続け、また今後現われるべき新作に 対しては一種の範例乃至評価軸としての意味を持つことになると思われる。その意味でも、 機会があればこれらの作品を一聴されることをお勧めしたい。



**未完**



[zurück]


         ©  2004-2006  ut

         Hosted by sound.jp