嘘と法螺
最初、嘘は必要に迫られて発生した。子供が叱られないためにつく嘘がそうである。しかしその嘘が面白いという場合がある。すると大人は、子供を叱る気がしなくなってしまう。子供は奇想天外な嘘をつくからである。どこかで読んだ話だがこんなのがある。
ある人が、下駄を片方なくして帰ってきた子を叱った。するとその子は泥棒が持って逃げたのだと言い訳した。泥棒が持って逃げるのを見ていたのなら、どうしてお巡りさんに言わなかったのだと訊ねると、子供は、下駄を持って逃げた泥棒というのが実はお巡りさんだったという。お巡りさんが、下駄を片方持って逃げたって、何の役にも立たないだろうというと、そのお巡りさんが片足だったという。こうなってくるとその嘘は一種のシュール・リアリズム文学に近づいてくる。叱られないためという実用的価値以外に、芸術的価値も持ちはじめるのである。
嘘から実用的価値をとっぱらってしまったものは、もはや嘘とは言わない。法螺とかでたらめとか言うものになる。その法螺やでたらめの手の込んだものが法螺話となり物語となったのであろう、と、僕は思っている。小説を読んで、これは嘘だといって怒る人は、あまりいない。しかし子供の世界では、嘘と法螺話が未分化の状態にある。
小学校2年の時であった。僕は法螺話が得意だった。級友たちが面白がり、休憩時間になると僕の机の周囲に集った。僕の人気を嫉妬したらしいある成績のいい級友が、僕を嘘つきだと言いはじめた。僕が法螺話をしているところへ割って入り、ピューリタン的に、それは嘘じゃないか、嘘の話をしてはいけないと言いはじめた。たちまち僕はクラス全員から嘘つきと言われはじめた。もう誰も寄ってこない。子供というのは残酷なもので、犠牲者を一人でっち上げると、これをいじめる時には徹底的にいじめる。何もしていない僕を、クラスの連中は後ろから頭をぶん殴って「嘘つき」「嘘つき」とののしった。このときの恨みは今でも残っていて、法螺話を法螺話として楽しめない人間とか家族とかグループとかに出会うと、こいつら、文化的に非常に低い頭しかないのではないかと思ってしまう。日本人は駄目だなあ、などと思うのも、そういう時である。
アメリカには法螺話がたくさんあり、特にテキサス式の大法螺話というのは面白い。ひとつだけ紹介しよう。
風変わりなけものがいる。このけものは山の中腹に住んでいて前足が短く、しかも横にしか歩けない。このけものを見つけたら、横へ追いかけるようにする。するとけものは山の中腹を横へ横へと逃げていく。そして次第に山の頂きへ近づいていくのである。
山の頂きへこのけものを追い詰め、いざ捕らえようとすると、こいつはいきなり、からだを裏返しにし、あさっての方へ逃げてしまうのである。
仲間うちで、こういう法螺話ばかりして楽しむ習慣というのは、日本人にはないようだ。
ある文学雑誌の書評欄で、あるひとが「この小説には嘘があるからいけない」と書いているのを見て、ぼくはびっくりしたものだ。事実誤認ならともかく、小説に嘘があってなぜいけないのだろう、とぼくは思った。またある文学雑誌の座談会に出席した星新一氏が「これは驚いた。文学が空想を否定するものとは思わなかったぞ」という発言をしていたこともある。日本の文壇にはまだこの種の本末転倒の頓珍漢があるのでぼくは嫌いだ。嘘であることが最初からわかっている小説のジャンル、つまりSFを選んだのも、そのためではなかったかと思っている。
そういう自分の感じかた、考えかたを以前「空想の起源と進化」という小説にして書いたことがある。これを読んだ生島治郎氏が笑いながら「面白いけど、だいぶヒステリックだねえ」と評した。法螺話に対する日本の文壇の風当たりの強さに、どうやらぼくは根強い憎悪を抱いているらしい。
本当にあったような話、というのを喜ぶ人が大多数で、いかにも架空の話といった小説を喜ぶ人が少ないのは、これはしかたがないと思うが、ぼくにとっては癪のタネなのである。そこで、話の出だしを本当のような話で始め、次第次第に法螺話をエスカレートさせていくという手法をとったりしているが、その影響であろうか、最近では最初から最後まで本当にあったような話で終始するという場合が多くなってしまった。以前のように、無茶苦茶な法螺話が書けなくなってしまったのである。
老化現象であろう、と、自分では思っている。
「嘘と法螺」筒井康隆
2001/06/27