RESPECT



Oran Thaddeus "Hot Lips" Page

1908年1月27日、テキサス州ダラス生まれ
born in Dallas, Texas on Jan. 27, 1908.

1954年11月5日、ニューヨークにて死去
died at New York City, Nov. 5, 1954.
 ニックネームの「ホット・リップス」、「エキサイティングな(ラッパの)吹き方するヤツ」みたいな意味だが、直訳して「熱い唇」というのがいい。で、写真を見ると「厚い唇」であるなー、と言ってみたり。
 ニックネームに恥じないホットなトランペット・プレイはもちろん、この人の歌がまたいい。そしてリップスが残したレコードを聴いていくと、1930年代から50年代前半のアメリカ黒人大衆音楽の歴史を辿れるって、ちょっと大袈裟かとも思ったが、いや、そうでもない、結構シンクロしてる。

 僕が最初に聴いたリップスの演奏は、僕が20歳くらいの頃に再発された『フロム・スピリチュアル・トゥ・スイング・コンサート1938/39』という2枚組のライブ盤LPに収録された1曲だった。これは彼のカンザスシティ時代の“勤務先”、カウント・ベイシー楽団との共演、いわゆる再会セッションで、ジャケットには「Blues With Lips」という曲名で記載されているが、司会者のジョン・ハモンドは“Here is Lips playing a blues with the Baise band”と紹介して演奏に移っている。つまり特定の曲ではなくただの12小節のブルースでのセッション演奏で、この、カーネギーホールの大舞台で「出たとこ勝負」「イキフン(雰囲気)で」という姿勢がまことに潔い。
 キーはC、テンポはミディアム・ファーストで、ベイシーのピアノ・イントロからそのままリズム・セクションで2コーラスやるという、ベイシー・バンド得意のスタートから、まずリップスが2コーラス吹き、続いてハーシェル・エヴァンスのテナー・サックス・ソロ2コーラス、再びリップスが6コーラス、ひたすら吹きまくり、終盤に向かってホーン・セクションがリップスのバックにリフをつけてバンド全体で盛り上がって終わるという、典型的なカンザスシティ流ジャムセッションで、音質の悪さはあるもののリラックスしながらスイングする快演、またライブらしくバンド・メンバー(ドラムのジョー・ジョーンズか?)が盛んに“ヤジ”を飛ばし煽ってたりして、こういうの好きなの、俺。

 で、それからしばらく、僕はこのたったの1曲しかリップスの演奏を知らないまま過ごすのだが、それは、まずリップスのリーダー・アルバムなどその当時は出回ってなかった(と思う)ことと、「それでも何とか探し出して聴きたい」と思うほどリップスに興味を持たなかったからだ。その頃僕はモダン・ジャズに夢中で、トランペットもマイルス・デイヴィスだのリー・モーガンだの聴いていた。

 そのうちモダン・ジャズからトラッド・ジャズに僕の興味は移っていき、特に初期カウント・ベイシー楽団の魅力にとり憑かれていくわけだが、そのカッコいいサウンドの中毒になり繰り返し繰り返しレコードを聴き、大和明さんによるライナーノーツを何度も読み返し、『Count Basie Story』とか『The Last Of The Blue Devils(邦題:KCジャズの侍たち)』といったビデオを見たりするうち、サウンドもいいんだけど、このバンドが結成される経緯が面白い話だったりして、ベイシー楽団のルーツであるベニー・モーテン楽団やブルー・デヴィルズのレコードがあるなら聴きたいという気持ちが日に日に強くなっていった。こうやって自らマインドコントロールにかかり深みにハマってくわけで、その構造は僕んちの近所に棲むワールド・フェイマス・カルトの皆さんと同じだ。

 ようやくその頃CDショップに出回るようになり、その後現在まで僕の貴重なネタ源となる『CHRONOLOGICAL CLASSICS』というフランス盤CDレーベルがあるのだが、そのシリーズで1930〜32年のベニー・モーテン楽団を聴くことが叶った。バンドのサウンドは古いながら同時代のニューヨークのバンドとは違った迫力があり、そして、その当時在団していたリップスの演奏を、僕にしてみればたまたま、聴くことにもなった。
 それでもまだリップスに興味が湧いたわけではなくて、今度は、その頃の僕のトランペットのアイドルは初期ベイシー・バンドのスター、バック・クレイトンであり、その艶やかな音色と歌心溢れるフレーズに参っていた。バック・クレイトンは、リップスがベイシー・バンドを去るにあたり自分の後任としてベイシーに推薦したトランペッターだったが、リップスとバックとでは楽想も、リズム・センス、メロディ・センスも異なっていた。

 ちなみにCLASSICSレーベルの編集方針というのは、あるアーティストのスタジオ・レコーディングによるリーダー・セッション全曲(別テイクは除く)を、原盤のレーベルを超えて年代順(クロノロジカル)に並べるという、フリーク魂の極みを形にしてしまった、みたいなもので、大手レコード・メーカーなどではまず、いや、絶対に無理な企画であるが、この企画のお陰で、ジャズ史上よほどの大物アーティストでない限り、その音源が保存されることなどなく現存するSP盤の老朽・消耗とともに永久に聴くことができなくなったであろうSP時代の録音の数々が救われ、結果的にトラッド・ジャズの膨大なデータベースを築いた(現在もシリーズ制作継続中)功績は相当でかい。
 繰り返すが、大手メーカーでは絶対無理な企画である。制作にかけることのできる銭がいくらあっても、それに見合う売上が見込めなければ商売にならないからであり、大手メーカーは商売でレコードを作っているからである。どう考えてもそんなフリーク魂の極みCDが1タイトルあたりそんなに売れるわけないもんね。だからお金を持ってる人は大手企業の株式とかじゃなくて、こういった奇特な企画を情熱を持って遂行しようという人たちに投資してもらいたいわけよ。
 話がそれたが、そういうわけで、SPコレクターでも入手困難だとか、過去LPで出たことがあったが編集内容がバラバラだったとか、そのLPもその後廃盤となってしまったとか、そもそもLPで編集されたことなんかないとか、関係書籍で名前は見るが実際には音を聴けなかったような、もう、フリーク魂の裏スジを刺激するが如きトラッド・ジャズ系アーティストたちのタイトルがこのシリーズから次々続々リリースされ、その中に、これもおそらくレコード史上初めてであろう、ホット・リップス・ペイジ名義のクロノロジカル編集CDもあった。

 考えてみたら“ホット・リップス・ペイジ”の名前は本やらレコードのライナーやらで目にはするものの、実際に聴いたことがあるのは「Blues With Lips」とベニー・モーテン楽団のサイドメン時代のものくらいだし、自身のリーダー・セッションだとどんなことをやってるのか、やや気になり、その『HOT LIPS PAGE 1938‐1940』というCDを買った。編成はセッションによって様々でビッグバンドもあれば6〜7人くらいのコンボもあるが、軽快にスイングするリズムやヴォィシングに丸みのあるホーン・アレンジは、僕にとっては快適な、好きな種類の演奏だった。また、リップスがしゃがれ声で自作のブルースや「Rock It For Me」のような流行歌を歌うのを、このCDで初めて聴いた。しかし、それでもまだリップスにさほどの興味が湧いたわけではなかった。
 結局僕のホット・リップス・ペイジに対する捉え方は「スイング時代の一トランペッター」であって、自分が好きなカウント・ベイシーやその前身のベニー・モーテンなど、カンザスシティ系のバンドに関わった人ではあるが、「トランペット・スタイルが際立ってユニークというわけではない/俺には特に響いてこない」「リップスじゃなくて他のトランペッターでもいい」というもので、興味関心がない対象への評価なんてそんなもんで実に冷たい。

 やがて僕の“カンザスシティ”熱は上がる一方になり、「どういうのがカンザスシティ・スタイルなのか/どうすることでカンザスシティ・スタイルになるのか/そもそもカンザスシティ・スタイルとは何か」と、オタクを超えて病的にカンザスシティ・スタイルの本質を追求するようになる。これは当時やっていたスウィング デヴィルズというバンドのサウンド作りに行き詰まっていたこともあって、カンザスシティ・スタイルの本質を明らかにすることで、それを自分のバンドの音作りにも反映させられると考えていたからだ。その答えを、徐々に、僕なりに、見出して、自分のバンドの軌道が変わっていく頃、CLASSICSシリーズからホット・リップス・ペイジの2枚目『HOT LIPS PAGE 1940‐1944』がリリースされた。このCDは僕の“KCスタイルとは?”の答えを得るのに一助を与えてくれたと同時に、このCDによってにわかにホット・リップス・ペイジというアーティストの存在が僕にとって重要なものになり、以後リップスのレコードに相当の関心を持って耳を傾けるようになっていく。

 「スイング時代の一トランペッター」は、まあ一応そうだとして、「トランペット・スタイルがユニークというわけではない」ことはなく、例えばロイ・エルドリッジとかクーティ・ウィリアムスなどはその個性が極めてわかりやすいスタイルなので、それに比べたら、というくらいのことだ。
 リップスのフレージングはルイ・アームストロング傍系のオーソドックスなもので、そこにヘンリー・レッド・アレンのようにハーフ・バルブやリップ・スラーという技で極端に音を歪ませたり、クーティ・ウィリアムスのようにグロウル(唸り)をかけながらプランジャー・ミュートでワウワウやったり、といった泥臭い奏法も交えながら、結構奔放気ままに吹く、「ワイルド/パッション」、そんな形容が似合うトランペット・スタイルだ。ティンパンアレイ系の流行歌をやってもソツなくスマートに吹くことは決してない。どこまでいってもダラス生まれのダラス育ち、率直無骨なテキサス野郎風情に溢れている。だからバック・クレイトンやハリー・エディソンがベイシー・バンドとともに都会的に垢抜けていくのと対照的に、埃っぽい古臭さが残る。先に買ったCD『1938‐1940』で僕が感じたのは、後になって思えばそういうことだった。
 ところがその西部臭さ、埃っぽい古臭さ、テキサス野郎の風情は、ブルースをやったときには俄然活き、そしてさらに奔放気まま、ワイルド、パッションといった要素は「ブルースを歌う」ことと併せて、スイングがジャンプ化していく1940年代になると時代のサウンド〜ムーブメントの中で光を放ち始めることになる。

 『1940‐1944』はいきなりエレキ・ギターを弾くテディ・バンとの共演で始まるのだが、このセッションがいい。リップスとテディ・バンと、あとピアノとベースの4人で、5曲中4曲がブルース。僕はこのいなたいサウンドにすっかり惹かれてしまい、この冒頭の5曲ばかり繰り返し聴いたりしていた。
 その他にも、このCDにはブルース・ナンバーが多く収録されている。テンポの速いの遅いの、笑えるの泣けるの、とにかくブルース。またセッションによって編成がコンボでもビッグバンドでも、誰が施したものか、イカしたホーン・アレンジがされている。そしてサイドメンには同世代の腕利きプレイヤーたちに交じってクライド・ハート(P)やアール・ボスティック(As)などの次世代のバリバリがいる。テディ・バンと並んで、ビーバップ&ジャンプの40年代を象徴するようなテイストのギタリスト、タイニー・グライムスのエレキ・ギター・サウンドも聴ける。それから1曲だけだがバンドでジャイヴ・コーラスをやるノベルティ・ソングがある。

 シリーズ1枚目の『1938‐1940』に比べて明らかに黒人音楽度が増したこのCDで、リップスはご機嫌にトランペットを吹き、歌を歌う。全く自然体で無理も気負いもなく、活き活きしている。30歳台半ばのリップスのトランペット・スタイルは、同世代のロイ・エルドリッジやこの頃メキメキ頭角を現していた一世代若いディジー・ガレスピーやハワード・マギーなどに比べて決して新しくないし、このCDで展開されているのは30年代のスイングよりコクと深みを増したジャンプ&ジャイヴの萌芽のような音楽ではあるが、リップスとしては「若いヤツらの音楽」に頑張ってトライしてるというより、むしろ自分がもっとも得意とするKC〜西部スタイルの音楽をやっているといった感じで、全般的に絶好調、このテキサス野郎。そう、リップスが本領発揮する時代が到来したわけだ。

 こうしてリップスに興味を持つようになると、実はピート・ジョンソンとジョー・ターナーの「Cherry Red」(39年)や「Piney Brown Blues」(40年)、もう少し後にはワイノニー・ハリスの「Good Rockin' Tonight」(47年)のレコーディングにも参加しているんだよなー、と改めて意識するにつけ、リップスを 「スイング時代の一トランペッター」と捉えるのは無知からくる視野狭窄で、彼のポジションはKCミュージック〜ジャンプ〜リズム・アンド・ブルースという流れの中でもっと重要なところにあったのではないかと、だんだん思えてきた。


 無用な混乱を招かないために、ここで「リズム・アンド・ブルース」という語についてスペースを割きたい。長くなる。これはこれで別項にした方がいいかとも思ったが、話の流れ上、そしてホット・リップス・ペイジの項でこの件に触れることに意味がある、と考え、このままイってしまうことにする。

リズム・アンド・ブルース=レイス・ミュージック

 ここで言っている「リズム・アンド・ブルース」は、今現在の「R&B」とは全然違う音楽だ。よく「ジャンプ・ブルース」と呼ばれているような音楽が元々の「リズム・アンド・ブルース」だと思ってほぼ間違いない。
 「リズム・アンド・ブルース」という語は、あのビルボード誌の、正しくは当時ビルボードのライターだったジェリー・マクスラーの造語で、音楽のジャンル別チャートを掲載するにあたって、それまで「レイス・ミュージック」というジャンル名だったのを改称したものだ。
 
 「レイス(Race)」は単に「人種」の意味だが、「レイス・ミュージック」は「黒人(向け)音楽」という意味で使われていた。「人種音楽」という語が「黒人(種)音楽」の意味で通用したのは、白人が「自分たちも様々ある人種の中の一人種」ではなく「自分たちはヒトの標準=スタンダードであり、自分たち以外はヒトのそれぞれ別の人種」という認識・理解を持っていたからだ。言い換えれば「白人は(普通の)人間であり、黒人は黒人種(Negroid)という特殊な人間である」ということだ。
 これを「偏見/差別」と非難するのは容易い。でも、日本でもそうでね、最近は「ワールド・ミュージック」とかになってるみたいだけど、CD売場に「民族音楽/エスニック」というコーナーがあったりして、「自分たちも様々ある民族の中の一民族」という認識があれば、このカテゴリー名のセンスが「レイス・ミュージック」と同じであることに気づくはずだ。バリのガムランやアンデスのフォルクローレ同様、南部牛追い唄も河内音頭も民族音楽には違いない。「宇宙人」っていう語がおかしいのは同じ理由による。地球人が異星に行って「我々は宇宙人だ」と自己紹介は、せえへんィやろうううう。

 さて、ではレイス・ミュージックにはどんな曲が含まれていたかというと「レイス・レコード」の曲で、「レイス・レコード」って何かっていうと、黒人マーケット向けに制作されたレコードのことである。
 そもそもは1920年に、とあるブルースのレコードがバカ売れしたのをきっかけに、黒人購買層の存在を知ったParamount、Okeh、Vocalionなどのレコード会社が続々手がけたのが始まりで、30年代半ば〜40年代前半のスイング全盛期に数多くのレコードを制作し廉価販売で売上枚数を伸ばしたDeccaやBluebirdなど、この辺はどこもレイス・レコードを作っていた。レコード番号8000番台がレイス・レコードとか、レーベルやジャケに「Race Record」と印刷するとか、やり方はいろいろだったようだが、一般(つまり白人)向けレコードと分けていた。
 で、たとえばデューク・エリントンやカウント・ベイシーくらいになると黒人バンドと言えどもレイス・レコード扱いじゃなかったのかどうか、つまりビッグバンド・スイングは当時流行の音楽で、ベニー・グッドマンを筆頭に白人バンドはたくさんあったわけで、白人からも評価・人気の高かった黒人バンドだと“準白人扱い”みたいだったのかどうか、詳しく具体的なことがわからないのだが、30年代〜40年代の黒人アーティストのレコードは「レイス・ミュージック」として流通していたものがかなり多いんじゃないだろうか。

 ま、とにかく「レイス・レコードは黒人ミュージシャンが演奏し黒人が買う下卑た内容のレコード」というのが白人社会一般の認識だったんだろうが、そのマーケットの規模は馬鹿にできない大きさだった。それは単に市場規模というだけでなく、レイス・ミュージックがポピュラー音楽に与える影響の大きさもあっただろう。なんたってイカしてるからねー。
 40年頃からその影響はますます大きくなり、新興のCapitol、Appolo、Specialty、Savoy、Kingと、黒人アーティストのレコードが主流のこれらレーベルが自らレイス・レコードを称したかどうか知らないが、ビルボードのチャートでは「レイス・ミュージック」に分けられるアーティストの録音は増えてゆく。1945年に第二次世界大戦が終わり、「黒人部隊」として前線で活躍し功績をあげた黒人兵士たちが帰国し、アメリカ社会が黒人のことを「頭の悪いおどおどした奴隷の末裔」などと嘲け蔑んでいられなくなった頃には、レイス・ミュージック自体がポピュラー音楽の中心になりつつあった。なんたってイカしてるからねー。
 「Tuxedo Junction」はグレン・ミラーの、「Caldonia」はウディ・ハーマンの曲だと思ってる年配のスイング・ファンは今でもいるが、どちらもネタ元が黒人バンドであることは当時すでに周知の事実だったし、40年代半ばを過ぎると、もはや「特殊な人種向けの特殊な音楽」だの「黒人の黒人による黒人のための下卑た音楽」だのと捉えていたんではポップスが成り立たなくなっていたのだ。なんたってイカしてるからねー。

 そして1949年、前出のビルボード誌のライターだったジェリー・マクスラーが「レイス・ミュージック・チャート」っていう名称はもうやめようと、ナチスの人種政策を非難して戦ったアメリカ合衆国内で「レイス・ミュージック」って、それじゃダメだろう、というわけで「リズム・アンド・ブルース」という名称を考案した。その当時「レイス・ミュージック」に分類されていたジャンプ&ジャイヴなアーティストやバンドは、ラッキー・ミリンダーもバディ・ジョンソンも、ジョー・リギンズ、アール・ボスティック、ワイノニー・ハリスも、ビッグバンドとかコンボとかピンの歌手とか関係なく、これ以降ビルボードのチャート上は「リズム・アンド・ブルース」というジャンルに分類されることになり、やがてこのリズム・アンド・ブルースという語は音楽ジャンルの名称として一般にも定着してゆく。

 50年代にはリズム・アンド・ブルース・チャートの中にレイ・チャールズも入ってくるし、時代が移って「ソウル」になったり「ブラック・コンテンポラリー」になったり、でまた「R&B(リズム・アンド・ブルースじゃなくてそのまんまアール・アンド・ビー)」という名称で呼ばれたり、時代とともに音楽のスタイルや流行は変わってゆき、前述したとおり今の「R&B」と元々の「リズム・アンド・ブルース」とは全然違う音楽である。

 次に、「リズム・アンド・ブルース」というと混乱するから「ジャンプ・ブルース」、だが、この「ジャンプ・ブルース」という語は便宜的にそう呼んでいるだけで、その当時「ジャンプ・ブルース」という名称はない。ブルースも時代でスタイルや流行が変化していったので、「ジャンプ・ミュージックだった頃のブルース」で「ジャンプ・ブルース」なんだろうと僕は理解している。ジャズでもそうで「スイング・ジャズ」という呼び名も後の時代に便宜上付けられたもので、当時は「スイング・ミュージック」だった。40年代のスイング/ジャンプ・ミュージックの様子を見るとジャズとかブルースとか分けるのは難しいんで、だから便宜的になら「ジャンプ・ジャズ」や「スイング・ブルース」だっていい。どういう語が一般的に定着したかだけの問題だ。

 でもって余談のさらに余談だが、たとえば、今ラッキー・ミリンダー楽団の「Let It Roll」を聴いて、これを「スイング」というか、「ジャンプ」か、「リズム・アンド・ブルース」か、人によって意見の分かれるところだろう。ジョー・ターナーの「Shake, Rattle And Roll」は「ロックンロール」としながら、「Roll 'Em, Pete」は「ロックンロール」としない人は多いだろう。
 便宜的にカテゴライズすることには僕は何の異論もないんだけれど、こういうカテゴライズの内に「ブルースはジャズより稚拙」だとか、「モダンジャズはトラッドジャズより芸術的」だとか、逆に「モダンジャズは技巧ばかりでトラッドジャズやブルースみたいにソウルに欠ける」だとか、「ロックンロールはガキっぽい」だとか、このー、実に下らない、ジャンルの上下とか反目みたいなものを作り出している偏見があって、この手の駄論愚論糞説尿説に接するたびに「あゝ、こういう話を鵜呑みにしてしまうピュアな若者がいるのかも」と思うと胸が痛み、「レイス・レコード」という偏見がなくなった代わりにこういうジャンルの偏見をふりまく輩には架空請求書の一通も送りつけてやりたい衝動に駆られてしまう。

 そこでワザと「レイス・ミュージック」という、今となっては説明付でなければ意味不明なくらいの死語でもって括っちゃうことで、「カウント・ベイシーとジョー・ターナー、ジャズとブルースの共演」「ジェイ・マクシャンはブルースだがチャーリー・パーカーなどジャズマンが在籍していた」といった不毛な理解・認識の仕方をスルっと無意味にすることができると思って、僕は「Great Race Music」とか「Respectable Race Music」と使ったりすることがある。「リズム・アンド・ブルース」と言うと混乱を招くのと、1949年以前のもの、“リズム・アンド・ブルース”って感じじゃないものもざーっとひっくるめたいので、やはり「レイス・ミュージック」がいい。
 「レイス・ミュージック」というカテゴリー名が元来偏見・差別意識に基づいていることは確かだけど、僕は憧憬と尊敬と感謝の念を込めて、ジャンルの垣根を飛び越えるために、ここぞというときにはこの旧びた言葉を使おうと思っている。カウント・ベイシー楽団の「Sent For You Yesterday」もワイノニー・ハリスとラッキー・ミリンダーの「Oh Babe」もタンパ・レッドの「It's Tight Like That」もジョー・ターナーの「Shake, Rattle And Roll」も、僕にとっては等しくGreat Race Musicだ。そしてそれこそ僕がやりたい音楽の精神であり形である。

♪          ♪         ♪


 ホット・リップス・ペイジのポジションとカンザスシティ・ミュージック〜ジャンプ〜リズム・アンド・ブルースという流れの関わりに着目すると、このクロノロジカル編集のCDはまことに都合がよい。CLASSICSシリーズから続いてリリースされた『HOT LIPS PAGE 1944‐1946』、そして4枚目にあたる『1946‐1950』と聴いてゆくと、46年以前と47年以降で、明らかに傾向の変化が窺える。

 40年代に入ってじわじわ本領を発揮し始めたリップスは、オリジナル曲(大体ブルースか循環リフもの)中心にあちこちのレーベルにレコーディングを行い、それら作品の出来は極めて高水準、アベレージが高い。とにかくリズムの躍動感が素晴らしく、アレンジがカッコよく、サイドメンのソロが上等、でもってリップス本人のラッパと歌が好調、これで悪いわけがない。サイドメンでは、特にこの時期頻繁に参加しているアール・ボスティックの演奏は絶品で、あんなアルト・プレイヤー、もう二度と現れないんだろうか。いたら即KCBである。
 こんな具合でリップス・ペイジ・ワールドへ傾倒していく中、家にあったSavoyレーベル音源のコンピレーションLPレコードをひっぱり出して聴いてみた。そこに収録されているピート・ジョンソンのリーダー・セッションにリップスが参加していたはずだ。以前とは違う態度で耳を傾けると、これがいい。実にいい。1946年の演奏だがジャンプ感バリバリのジャズ・コンボである。アレンジが大雑把で、4管の重ね方なんか俺の方が上手にヴォイシング作れるぜ、でもそういうことじゃない、このホットなグルーヴは何だ!エタ・ジョーンズの軽い感じの歌もいい。このセッションが46年1月で、同じ年の10月にリップスは自分がリーダーのレコーディングでジャック・マクヴィーのヒット曲「Open The Door Richard」やルイ・ジョーダンもやってる「Texas And Pacific」など、レイス・ミュージックのポピュラー・ヒット・チューンを、これまた実にいい感じでやっているのだが、この辺からリップスの音楽はポップなものになってゆく。

 翌47年から50年までリップスはコロンビアというメジャー・レーベルにがんがんレコーディングをするが、そこではオリジナル曲の割合はぐっと減り、その当時のポップ・チューン中心に、たまに「St.James Infirmary」や「Ain't She Sweet」といった、言わば“民謡”、“懐メロ”も交えた選曲がされている。
 49年5月にパリ・ジャズ・フェスティバルに出演し大ウケしたリップスは、帰国後の6月にはパール・ベイリーという女性歌手とデュエットで「Baby, It's Cold Outside」を、9月には弦楽と混声コーラスをバックに「That Lucky Old Sun」を歌ったりしてるのだが、いずれもラッパを吹かず歌のみの録音である。このことが意味するのは、リップスはもはやレイス・ミュージックを越えてポピュラー・ミュージック界に居場所を持つミュージシャンとなったということだ。CLASSICSシリーズの5枚目『HOT LIPS PAGE 1950‐1953』ではポップ・スターの風格を備えたリップスの姿が余すところなく記録されている。

 このように売れてくると、「大衆に媚びた/レコード会社の言いなりに/質の低い内容に」、なんてことがよく言われたりする。もちろんそういう例もままあるのだが、ホット・リップス・ペイジの場合、僕はそういったことは感じない。ユーモアとペーソスを内包したブルース・センスを滲ませながら、より楽しく、カッコよく、さらにポップに、さらに歌謡になっていく姿は、トランペット&ヴォーカルというパートも同じ、ルイ・アームストロングと重なる。52年には熟練の白人スタジオ・ミュージシャンで構成されたビッグバンドをバックに「The Devil's Kiss」と「Casanova Cricket」の2曲を録音しているが、これなど明らかにレコード会社もサッチモ的使い方をしてると思うのだ。そしてリップスは十分それに応える素晴らしい演奏を聴かせている。他にも『1950‐1953』は、リトル・シルビア(Vo)との共演、サム・テイラー(Ts)やビル・ドゲット(P)らをサイドに従えたリーダー・セッション、再訪したパリでの現地ミュージシャンとのセッション等々多彩な内容で充実しているのだが、サッチモのほか、ルイ・プリマ的なポップ性をも感じさせる。
 ここまで聴いてくると1954年に病死していなければ、間違いなくリップスはポピュラー・ミュージックのスターとしてさらに知名度も高まり、ポピュラー・ヒットに恵まれた可能性だってあったと思えてならない。

 ニューヨークを中心としたスイング・ミュージック・ムーブメントにカウント・ベイシー楽団が持ち込んだアメリカ中南西部〜カンザスシティの音楽的伝統がじわじわ影響を与え、1938年暮れに行われた「フロム・スピリチュアル・トゥ・スイング・コンサート」で広く紹介されたブギウギに興味が集まり、1940年代にはスイング・バンドの傾向は「強力なダンス・ビートに乗せたブルース曲」に象徴されるジャンプ・ミュージックになっていき、同時にスリル性とエキセントリシティを追求したビーバップと表裏を成しながら、それらレイス・ミュージック=リズム・アンド・ブルース〜ポップスの主流へ、という1930年代末〜50年代初めのアメリカ黒人大衆音楽史の流れと、ホット・リップス・ペイジのキャリアは、やはりシンクロしている。そしてリップスの演奏スタイルは終始一貫して西部臭いテキサス野郎らしさを失うことはなかった。間違いなくGreat Race Musicから生まれたポップ・スターの一人と言える。

 それにしても46歳の若さで、それも肺炎が引き起こした心不全によって生涯を閉じるとは、あまりに呆気なさ過ぎる。テキサス生まれの黒人ミュージシャンにはまだまだ過酷だった時代を強靭な肉体と精神を持って生き抜いてきた結果の寿命なのだろうか。最後のスタジオ・レコーディングとなったバラード「Ain't Nothing Wrong With That, Baby」を聴きながら、その続きが聴けない寂しさを感じるとは、最初リップスを聴いた頃には考えられもしなかった。リップスが僕にとって最も「こうありたい」と思うアーティストになるとは考えられもしなかったのと同じように。

(2006.1.28.)