下田卓 冗漫随筆
正面突破


街とそこに住む人
(2006年4月)

 久しぶりに映画館に映画を観に、当たり前か、行ってきました。
 僕が最後に映画館に足を運んだのは2〜3年前だったか、観たのは『たそがれ清兵衛』、シブい、しかもタダ券貰ったから、えー、これくらい映画館に足を運ぶことに不精です。気になる映画、観たいと思う映画がないわけじゃないんですが、あれ、映画を観に行くっていうのも習慣みたいなところがあって、行き始めないと行かないままなんだろうね。音楽のライブもそうじゃないですか?
 そんな僕が映画館に、『たそがれ清兵衛』以来、行きまして、今回はタダ券貰ったわけでもなく、しかもわざわざ横浜まで行って観たんですね。ちなみにその前日まで僕はバンバンバザールのサポートで中部地方ミニツアーを回ってて、前日は浜松でライブだったんです。で、ライブ終わりで東名を移動、3時過ぎに帰宅して、その日の夕方横浜まで映画を観に行ったわけです。
 なんで映画を観るのにわざわざ横浜まで行ったかというと、その映画は横浜と新宿の2館でしか上映されてなくて、僕にしたら新宿の方が便利なんだけど、新宿は2週間先までは一日1回、10:30からのモーニング・ショーしか上映がなくて、これだと僕は観に行く時間がとれない、横浜は一日5回くらい上映してる、で、何しろすぐ、いち早く観たいという気持ちが、僕を横浜まで向かわせたというわけです。

 モノは『ヨコハマメリー』というドキュメンタリーで、「メリー」というのは1961年横浜に現れて1995年に横浜から姿を消すまでの34年間、伊勢佐木町に立ち続けた実在の娼婦の通称です。身の上について僕の知る限りの情報だと、「中国地方の町で生まれ、戦後、米兵の恋人と東京にやって来た」「やがて恋人は帰国しメリーさんは横須賀に移る」、その後横浜に辿り着くわけですが、要するに在日駐留米兵相手の“パンパン”だった人。この“パンパン”という言葉が、もう死語だけど、時代を凄く感じさせる言葉だねー。横浜に辿り着いたとき彼女は40歳だったというから74歳まで街娼だったことになりますが、真っ白に白粉を塗った顔、真っ黒にアイシャドウを塗った目元、白いドレスの老女、まあ異様な風体だったことは間違いないし、恐らく娼婦としての“実業務”はとっくに離れていたんじゃないでしょうかね。ある種、生きる伝説みたいな存在として居続けてたってことじゃないかな。

 で、興味のある人にはとにかく映画を観て貰うのが一番だと思うし、映画の仔細についてここでバラすことはしませんが、この映画は単に「メリーさん」だけを描き出しているわけではないんですね。メリーさんと交流のあった人たちに取材をして回って「ハマのメリーさん」の人物像を明らかにしてゆく、という構成でありながら、それを重ねてくうちに浮かび上がってくるのは、敗戦後の横浜で一所懸命に生きていた人たちの“記憶”です。

 メリーさんとは親交の深かった永登元次郎というシャンソン歌手が、ほとんど主役のように出てきてメリーさんのことを語りながらいつしか自分のことを語ってる、それもそれでいいし、実際この映画では重要な役割を担ってて、この映画から伝わるメッセージとして大切なことを言ってたりするんですね。
 他にも、化粧品店の奥さんとか、クリーニング店の奥さんとか、メリーさんと関わりのあった人たちがいろいろエピソードを語るんですが、僕が好きなシーンは「根岸家」という戦後横浜の夜を象徴する酒場というか、そこに関わった夜の世界の人たちや、元愚連隊だかやくざだかのじいちゃんとか、お座敷芸者だったばあちゃんが当時のことを語るところで、俺、これにはちょっと涙腺が緩みそうになってしまったんだけど、あのー、明らかにこの映画の「泣きどこ」とは違うシーンだと思うんですが、んー、なんて言ったらいいかねー、別に泣ける話をしてるわけじゃなくって、懐かしいとか、今はすっかり変わってしまって寂しいとか、辛かったとか、苦労したとか、そういう話してない、戦争が悪いとか進駐軍が酷いとか女たちが可哀そうだったとか、そういうレベルじゃない。そのとき、そこにいて、日々がむしゃらに生き抜いてきた人たちが、何十年も経て振り返ったときに、あのこともこのことも呑み込める腹の括り様みたいなのがあって、それが言葉の端々に出る、そこね。そこにぐぐっと来ちゃうわけです、俺としては。

 あのー、ちょっと、だいぶかな、話が飛びますが、また俺のことだと思って勘弁して下さい。
 3月末、惜しまれつつ閉店せざるを得なくなった大阪バナナホールへ行ってきまして、でー、焼き鳥屋の店頭からいい香りの煙が流れ、風俗店の店先で露出の多い服をきたネエちゃんが元気よくチラシを配り、男性同士のカップルがラブホテルに消えていく、そんな場所にバナナホールはあるんですね、何年も前から何度も来ている場所で、大阪というとこの辺しか知らなかったけど、このバナナホール周辺の雰囲気がいいんだよね。
 で、昨年11月に初めて通天閣のある新世界に、あそこどう考えても旧世界だけど、足を踏み入れまして、ああ、ここが俺がイメージしてた大阪だーと思ってね。ここんところ“昭和”が流行りで、“昭和テーマパーク”な感のあるこの街だけど、別に流行りだから作ったわけではなくずーっとそのままというところが本物。串揚げやスマートボールもいいけど、裏道に入るとポルノも込みの古い邦画3本立ての名画座があったり、中の様子がベニヤ板越しに表に漏れ聞こえてくる芝居小屋があったり。で、串揚げ屋の勝手口にすぐ近くの別の店の従業員と思しきねえちゃんが調味料だかなんだか持ってきて、中から出てきたにいちゃんが「おお、○○ちゃん、ありがとうなー」なんか言ってる光景とかね、これまた実にいい。

 それから、前述3月末の“最後のバナナホール”から帰った翌日、今度は東北方面に出かけたんですが、その途中気まぐれで抜けて行った北茨城の五浦という港町、坂とカーブが多い、漁師さんの自宅をそのまま民宿にして営業してる家が多い、まあ漁師町然とした佇まいの町。で、道沿いの古い粗末な木造家屋の外壁一面に、だあーっと物凄い数の魚がくしに通されぶら下がってるんですよ、この光景は凄くて思わず車を停めてその干物の“壁紙”を見に行くと、これが「どんこ」というタラの仲間で、けっこう気味悪い顔してんだけど、地元じゃいわゆる“駄魚”で、まず流通にのることはないらしい。ボール紙に黒マーカーで手書きで「一串500円」と張り紙がしてあって、で、どんこの干物の向こう側は、透きガラスの引き戸でそこは縁側になってて、家の中の柱に手書きの伝票とかメモ書きとかがいくつも束になって無造作に画鋲かなんかで留められている。その家の中から小学生の兄妹らしき喧嘩の声とそれを叱る母親らしき女性の声、このチョイつげ義春ワールドでね、この感じがまたいいんだよね。

 えー、突然違う話になって、何言ってんだと、困惑されたかと思いますが、僕がそうやっていろんなところへ行って感じたり惹かれたりすることと同じもの、あるいは近いものを『ヨコハマメリー』を観てて感じたんです。つまり、そこに街/町があって、その街/町に暮らす人がいて、それは時代や世相の影響をダイレクトに受けるんだけど、そのー、人がいる限りそこには生活がある、暮らしぶりがどうあろうが。また、生活があるからそこが街/町になる、とも言えるかな。いろんな人がいて、それぞれ事情もあったり、でもそれはそれ、お天道様はただただ上ってまた沈んでいくさ、っていうフレーズのニュアンスともつながるのかも知れないけど、んー、街の体温みたいなもの、それに無性に惹かれる。ちょっと上手く言えなくてすいません、この感覚。
 ま、3月下旬からあちこち行ったりこの映画観たり、色んなことに心動かされることが多く、けっこうウルツヤですよ、俺。
 『ヨコハマメリー』観に行ったのが伊勢佐木町の真ん中にある映画館で、初めてあのあたりをぶらついたけど、ああいうとこ、いいねー。またぶらつきに行きたいと思います。

 

KANSAS CITY BAND 下田 卓

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