ANGUILLA

ここでは私の仕事を通してAnguillaの街を紹介したい。

その街、アングイラ(ANGUILLA)は仕事上過去に5〜6回は訪れた事があった。
HWY61沿いのその人口500人程の集落は90%の貧しい黒人の居住地区である。
もちろん東洋人などいる訳もない。

アングイラをHWY61に沿って8km程南下すればマディーの生誕地のローリング・フォークがある。この街にはCHINA STREETと呼ばれる30mの通りがあり中国人が食料品雑貨を販売する店(SAM SING & CO)が1件ある。しかし東洋食材はほとんどなかった。あっても買う人がいない為である。

HWY61の両側には綿畑がほとんどで産業と言えば農業が主で他には全米でも有名なナマズの養殖をする人工池が点在している。
その加工工場はアングイラから北に20km程行ったHWY61沿いのホーランデールに幾つかのある。
それ以外には何も無い典型的な南部の田舎街である。
中規模の街に行けば日本にも多く存在するファーストフードのKFCやマクドナルドもこの辺りには無く、全米チェーンのスーパーマーケット、ドラッグストアーも存在しない。
ビデオレンタルショップも無い、映画館もボーリング場も無い。

娯楽と言える物はガソリンスタンドに併設される簡易レストランにあるビリヤード位か。

ガソリンスタンド裏にある6部屋のモーテルは娼婦の為か麻薬を販売する為に存在するようなものだ。アングイラには1件ジュークが在る。汚い饐えたような匂いの立ち込める位バーに簡易ステージのある20人も入ればいっぱいの小さな店だ。
週末にはライブをやる。
そこにあるのは日本でも昭和40年代のような雑貨屋、レストランもガソリンスタンドに併設される簡易なものだけである。
自動車のディーラーも無い。唯一あるのは農機具、自動車の修理部品を販売する店だけである。
そんな街に赴任したのは自分が売った製造プラントがメンフィスから安い人件費を求めて工場を開いたからだ。会社の製造業としての基本も無いお粗末な内容に加え、アングイラにて採用された従業員のレベルも低く採算割れの続く工場運営に本社もその部門を閉鎖撤退をするかどうか迷っていた時に私が会社を辞めた事を知りヘッドハンティングをしたのである。1990年10月の事である。

その街、アングイラ(ANGUILLA)は仕事上過去に出張で5〜6回は訪れた事があったし住む予定のグリーンビルも出張の定宿のモーテル(ラマダイン)で知ってはいるものの実際に住むのは次元が違う。

グリーンビルには空港があるにはあるがバスのハブ程の空港で1日に4便があるだけのバス停のようなちっぽけなものだ。メンフィスから45分の所要時間で12人乗りのプロペラ機が通常使用されていた。
大きなスーツケースとカートン3ヶの簡易な引っ越し荷物だけで単身で夜の10:30に降り立った。迎えに来たのは副工場長のDS、いつものホテルにチェックインし翌日工場に初出勤する。
初日は引っ越しでアパートの下見、会社の日産のピックアップトラックを貸してもらう。
当然日本から持って来た国際免許での運転だ。
銀行の口座を開設し小切手帳の印刷を依頼する。印刷された小切手ができるのに2週間必要との事で、それまでは振り出し人の自分の名前を手書きで記入し、常にパスポートと国際免許を提示して使用という面倒な時期を過ごす。
ケーブルTVを契約するのも面倒で単身の半年はまともにTVは見ていなかった。
新聞も取らず、会社の新聞を見ていた。日本から持って行ったラジカセに付いていたFMやTVの周波数ではFM局も2局程しか入らず、単身の半年は音楽は行って買ったCDを聞いている位で業務に慣れ、業務をこなすのが精一杯で一人でアパートに帰って自炊して寝るだけで精一杯であった。勿論初めは楽器も持って行かなかったし.....そんな気持ちの余裕などあるはずも無い。

自分専用のオフィスをもらいプラントエンジニアとして現状分析、教育カリキュラムを作成、勉強会のクラスを毎日2時間ずつ消化。
品質を上げようにも従業員のほとんどが劣悪の品質のある生活を営んでいないので、何が品質なのか理解出来るのか心配になったりもした。
日本人が習う英語は西海岸の言葉で自分の英語には通訳無しでは7割程度しか通じず、自分も南部の言い回し、黒人言葉を覚える良い機会になった。
工場はばかでかく1日に多分8kmは歩いていたように思う。
生産効率、不良率も採算ペースにならない程お粗末で、初めの1ヶ月で不良率を目的の数値にいかに近づけるかに絞る。
工場は24時間稼動、3交代制(8時間シフト)週に6日稼動。
自分は基本は5日勤務であるが、土曜日、夜勤の成績が余りにも悪いので当初は朝の7:00から夕方7:00までの12時間勤務に加え、土曜日にも出勤した。

自分は脇目も振らずに業務をこなしていたのだが、従業員にはこの東洋人が自分達黒人の味方なのか、白人の手下なのか観察していた時期であったように思う。
チーフエンジニアのLHがある時、金を貸して欲しいと自分のオフィスに来る。
彼は工場がメンフィスにあった時代からの知り合いだ。
(メンフィスから工場と共に引っ越した)
$200を4回で支払うからという条件だった。
日本円で当時¥24、000というたいした金額でも無い。
彼は約束通りに返済した。今考えるとこれも自分を試していたのだろうと思う。
金に困っていたのも事実だっただろうが...
工場従業員は毎週金曜日が給料日(ペイ・デイ)だ。
事務職と上級管理職は月に2回で15日と月末となり曜日は関係なく本社の小切手を渡される。本社メンフィスからの小切手はFederal Expressにて金曜日に届く。
享楽的に生きる従業員は金曜日につけで飲み喰いした分を払い、家賃も週払い、週末に遊んで使い込んで月曜日からは又つけで飲み食いの1週間が繰り返される。
週末に遊び過ぎると月曜日に欠勤となる。

会社の規約で無断欠勤はイエローカード1枚、3ヶ月に3枚あると自動的に解雇となる。
自分が勤め始めて6ヶ月の間に50人が解雇になる....
当然、代わりの人間の雇用をする。つまり面接となるわけだ。
6ヶ月過ぎてからはこの雇用の面接試験は自分の担当になる。
又、解雇通告も自分の仕事である。

月曜日の朝の仕事は欠勤の従業員の電話での呼び出しと訪問し引っ張り出すのが当分続いた。素っ裸でパートナーとベッドで寝ている連中の呼び出しには参った。
出て来ないと解雇しなきゃいけないから頼むから出て来てくれと哀願する自分がそこに合った。それも1年を過ぎる頃にはかなり改善されその訪問呼び出しも止めた。

帰宅時に駐車場に解雇された元従業員が再雇用を頼む為に待ち伏せもかなりあった。
半年の後、再雇用の権利が生じるのだがそれまで仕事がないのでと直訴するわけである。
これを断るのだが今考えれば良く撃たれたり刺されたりしなかったもんだと感心する。
こちらも気合いが入っていたからだと思う。

煙草はカートンで買うと当時1箱$1.00以下だったがカートンでないと1箱$2.00である。現金が無い連中は仕方なくバラで買う悪循環である。
(これが家人が今でもバラ買いを『黒人買い』という所以である。)

昼飯は外で喰える処が3ケ所ある。
1番まともな処がローリング・フォークの教会のレストランである。8km離れているが。ここは$4.50で結構旨い物を喰わせてくれ、客はほぼ白人だけであったが黒人が入っても取り立てて問題は無かった。

2番目はローリング・フォークに行く途中のHWY61沿いのレストラン((Chuck's)である。

3番目は"Diana's eat place"で会社から400mのHWY61沿いである。
太ったダイアンが作る料理は旨く結構自分は好かれて可愛がってもらったので仕事で昼時から送れて行くとメインの品を大盛りで出してくれた。
彼女のキャットフィッシュは旨かった!
他は近くのガソリンスタンドで売るフライドキチン&ポテトかハンバーガーである。
最後は弁当屋がデリバリーする日替わりの弁当で毎日ボードに書き込んで注文する。
忙しい時はこれが多かった。$3.75と安かったが味は悪く無かった。

工場のあるアングイラと住んでいたグリーン・ビルは距離で95km車で約50分の距離。ただしこの距離で信号は3ケ所、停止を必要とする交差点は2ケ所あるのみ。
ただひたすら走るのみである。睡眠不足には危ない。2〜3度コットン・フィールドに突っ込んだ事もある。
日が暮れればHWY61には道明かりも無く晴れた夜空には見た事も無いような満天の星空が見えた。夏になれば虫がフロントガラスに当たり2日に1回は綺麗にしないと走れない。60リットルのガスタンクも3日に1回の給油を必要とする。
オイルも当然月に1回以上の交換!
借りたトラックも借りた時点で13万KM走行済みで帰国の時には28万KMであった。
綿の収穫時期になると綿ゴミが物凄くエアコンの吸気口に綿が詰まるので毎週清掃の必要があった。

南部はハリケーンが時々発生し通勤途中で遭遇し、逃げた事も2〜3度あった。
どちらも見えたので逆そうしただけではあったが。
1度従業員の家がハリケーンで壊れたので見舞いを兼ねて行ったがTVで見る通りの悲惨な状態で全て無くなっていた。
途中からは冠婚葬祭(結婚式はやらないのでそのチャンスは無かったが)などの総務の仕事も兼任していた。
おかしな話だが結婚すると国から補助がでないので一緒に住んでも籍を入れず私生児として戸籍登録する。披露宴の金も無し....自宅で飲み喰いするのは1度出たがこれはプライベートであった。
ただし葬式はやるから出る番が回って来る。

自分のオフィスの隣に生産管理のコンピュータルーム、逆隣にスーパーバイザ−の共同オフィスがあった。
南部は男は無責任極まりない者が大方で勤めていた工場も管理職のスーパーバイザーは8人いたが全て女性であった。
メカニックは不思議と全て男、メンテナンスに1人専属の人間がいた。
名前をJim Morganfieldといいマディーの甥である。
男前であり同姓していた女性との間に2人の子供がいたが籍は入れていなかった。彼も私の下で良く働いてくれ、親戚のJ.C.Mooreを紹介してくれた。

彼はマディーの妹と結婚したが既に別居中で私が彼の家を訪問した時も金に困ってギターは質に入れて手持ちに無いと言い、私が聞かせてくれと言うと『お前が質から出してくれ』と言われ質屋に行き、取りあえず$20置いて数時間借り出して叉質に戻した。
彼はデルタスタイルの典型的なシンガーで悪く無かった。
後日私がエレキを持って一緒に結婚披露宴のパーティーで演奏した。
この時は30分演奏しギャラで$20頂いた。
パーティーに見た事のある顔が数名おり従業員であった。
翌日会社でSTEVE BLUES MAN!と休憩の為の部屋 (自販機とテーブルのあるBREAK ROOM)の壁に書かれて照れた覚えがある。
その従業員の名はDonna Dixsonと言い、これ又あの御大Willie Dixonの孫娘であった。
Donnaは真面目で仕事もよくやり私が面接採用し、私がいた間はずーと勤めていた。

工場に250人の従業員がいたが黄色人種は私一人、白人は3人だけであった。
その黒人の中にかなり肌の色の白い女性や、髪がブロンドの者、鼻筋も通った者も多くは無いが存在していた。これはプランテーション時代に白人の主が奴隷の黒人にはらませて生ませた歴史が生き証人としているんだと妙に感慨深く思った。
等の本人はブラックのプライドも既に薄くもてるからいいでしょ?位の乗りである。

スーパーバイザーのオフィスにラジカセがありシフトの交代時期や休憩時間には音楽が流れていた。ほとんどはサザンソウルである。彼女らはそれをブルースと称していた。
BBやアルバートの事を聞くと『あのお金持ちのブルースマン』と言って少し距離がある雰囲気であったしそのオフィスからは私のヒーローの曲が流れた事はまずなかった。
しかしリトル・ミルトン、ボビー・ラッシュ、タイロン・デイビスはほとんど毎日かかっていた。通勤のラジオでもそれらはかかるがシカゴやメンフィスのブルースはほとんど聞く事は無かった。
ただし大ヒットしたTHE THRILL IS GONEだけは別格でこれは1週間に3〜4回は会社でもラジオでも聞いた。

仕事の時はほとんど話は出来ないが、休憩や昼食時にブレーク・ルームで彼等との話はまさにリビング・ブルースである。月曜日の朝、冷蔵庫には何も無い、ある小銭をポケットに入れて会社にきてコーラを1缶買って(50セント)それで腹をガスで膨らませて空腹感をだまして仕事にかかる。ブレーク・ルームの使用は時間で交代なので早めの昼食は10:00から始まる、腹の減った連中はその昼飯を突きに来る訳だ。
これは仕事をさぼっているわけなので私が注意するのが日課である。
着任してからソウル・フードなる物に出くわした。
名前は忘れたが、豚の頭蓋骨と頭の表皮の間の肉を加工してハムにした物。
かなり塩気、脂肪分が多く決して美味しいと言える物では無かった。
これを3〜4枚を買って食パンに挟んで喰っていた。

日本で言う処の『ホルモン』豚の小腸Chitterlingsを湯がいてホットソース(タバスコに近い)をかけて食する。もしくはコーン・ミル(トウモロコシの粉)を付けて油で揚げる。
魚も日本で見た事も無いでかい魚であるが調理して直ぐに食べないと固くて食えない。
まさにゴム質である。
南部ではナマズも含めほとんどの魚は馬鹿の一つ覚えでないが塩胡椒してコーン・ミル(トウモロコシの粉)を付けて油で揚げるのが主である。
ハーブと共にブロイルするのはレストランで喰うものと決めているようだ。
趣味と実益を兼ねて魚釣りは結構やっている連中が多く、自分で釣って調理したというナマズを会社に持って来て喰わせてもらった事が何度かあるが料理が下手で旨いと思った事が無かった。
スナックでポークスキンっていうのがあって豚皮を揚げたものである。
これは南部であればどこのコンビニでも置いてあるし。会社の自販機にも入っていた。