軍歌一般論

明治日本人

軍歌と言えば「和魂洋才」

 誠にもうしわけありません。
 残念ながら、管理人は、明治時代の日本について、ほとんど何もしらない人間でありまして、日清日露戦争の日本人にとって、軍歌がどんな存在であったのか、まるでわからないのであります。
 とはいえ、きくところによりますと、この当時の日本人にとって、軍歌とは、「和魂洋才」という明治政府の方針を象徴する文化として、有名なものであったようです。
 和魂洋才とは、すなわち、西洋の技術と、東洋の精神を合体させたもののことでして、軍歌は、メロディーが西洋の技術で、歌詞が、大和魂がつまっていますので、まさに和魂洋才の音楽ということがいえるのです。
 今でこそ、軍歌といえば、とにかく古くさーいものである、とのイメージしかわいてきませんが、当時の日本人にとって、軍歌のメロディーは、すこぶる新鮮であり、また、西洋の音楽にふれる初めての音楽でもあったようです。
 当時、西洋風の音楽といえば、唱歌、校歌、寮歌、そして、軍歌程度しか、なかったため、みなさん、とっても、歌うのがヘタクソであったようです。その証拠に、明治時代に録音された、納所弁次郎の歌唱による、レコードなどを聴いてみますと、西洋の歌を歌うことに不慣れで、とても苦しそうに歌っています。と、いうか、軍歌というよりも、民謡といったほうがいいような、たいへんのんびりとした節回しで軍歌を歌っています。
 また、明治時代に録音された、「君が代」や「軍艦行進曲」ももっていますが、これも、とても苦しそう。
 とにかく、西洋の音楽を入門するために軍歌をうたっていたといってもいいかもしれません。


 明治時代の日本人について、詳しくなりたいということで、明治時代の日本人の軍歌論を募集しております。
 明治時代の日本人について、何かご存知の方は、軍歌一般論の掲示板のほうに、ご記入ください。


軍神様のエピソード

 明治時代の日本人についてですが、結論から申します。はっきり言って責任ある回答は出来ません。
 但し、私の父も母も明治生まれ、特に父の青春時代は日露戦争のまっただ中、父は教師を目指し師範学校にいたため幸か不幸か日露戦争そのものには出征していません。
 父の思い出をさっと流しますので全く参考にならないと思いますが・・・・・・
 父から教えてもらった軍歌  歩兵の本領  戦友  道は六百八十里の替え歌「・・・・談判破裂して、日露戦争始まった、さっさと逃げるはロシアの兵、死んでも尽くすは、日本の兵・・・・・」
 演奏会の時に何方かが歌った「大正生まれの俺たちは、明治の親父に育てられ、忠君愛国そのままに・・・・・・・・・」まさに其れと似たところがありました。
食事中は、話をするなとか、食べながら歩くと「下等(鬼畜米英)のまねをするな」等と良くしかられました。
 あッ、それから自衛隊に、明治の日本人が居たかどうかと言う御質問ですが、自信を持ってお答えします。
 其れは、物理的に不可能です。私が入隊した昭和四十年の春、父はすでに七十二歳
 警察予備隊創設時を逆算すると72−15=57  現役兵では階級にとはず無理です。
 又父は師範学校の学生だったため兵役が一般の人より短いため、内務班では一般の徴兵者より何かにつけて古参兵にいじめられたそうです。
 朝の洗面は、今の時代では考えられませんが井戸水を汲んで洗面をしたそうです。手で漕ぐポンプが何台有ったか知りませんが、洗面器に水を汲もうとポンプを漕ぐと古兵が自分の洗面器の上に洗面器を置いてしまうので古兵が居なくなるまで延々とポンプを漕ぐ羽目になってしまうそうです・・・・・其処で戦友(同期:昔の軍隊では戦友と言えば親兄弟以上の付き合い)とペアで代わる代わるに汲んで対処したそうです。
 誠に簡単で何の参考にもなりませんがこの辺で失礼をさせて頂きます。