自己紹介・PROFILE
last update 1999.1/1
1953.11.17.東京世田谷区桜新町に生まれる。4歳から三鷹市に住む
配偶者一人・子供3人・猫3匹・亀2匹
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音楽的履歴
小学校低学年:父が買ってくれたソノシート版世界名曲全集で音楽に目覚める。
小学校高学年:べンチャーズ・ビートルズを知る。
中学生になり、千円のセコハンクラシックギターを買ってもらい指板がすり減るまで弾き倒す。
友人・山田氏(天才的即興演奏家。現在は建築士)とThe Hyotan Band結成。現在も存続中。
ビートルズ中心にポップスに浸りきる。中1の時ビートルズ来日。テレビで放映するから
いいや、と武道館には行かなかった。(ちょっと後悔)
ジミ・ヘンドリックス、クリームを聴いて即興演奏に目覚める。
高校に入ってジャズを聴き始める。初めて買ったジャズLPはゲーリー・バートンの
カーネギーホールコンサート。
マイルスのバグス・グルーヴ、フォア・アンド・モア、
(当時出たばかりの)ビッチェス・ブルーの3枚で完全にジャズに入る。
リアルタイムで聴いていたロックは、レッド・ツェッペリンの2枚目まで。ビートルズは
アビーロードまで。ボブ・ディランはナッシュビル・スカイラインまで。
当時のジャズの先生は最近ジャズ・エッセイが評判の北村公一氏(私の叔父)。
ジャズを勉強するならジャズ喫茶に行け、と教わった。
高校のクラブは軽音楽部でロック・ギターでもやろうと思ったらそんなクラブはないので、
ギター弾けるならいいかとクラッシクギター部に入る
なんと、そのクラブでやっていたバッハやヴィヴァルディの音楽がまたおもしろくて、
高校時代は(ちょうど学園紛争のまっただ中)ジャズとバッハ漬けで過ごす。
浪人時代はジャズ喫茶に通う。吉祥寺FUNKYへよく行った。パラゴンで有名だった地下より
ジャケットの見える一階が好きだった。
SJ誌の粟村政昭と植草甚一の評論を指針とする。レスター・ヤングからアルバート
・アイラーまでどれもが面白かった。
大学では早稲田モダンジャズ研究会に入りベースを弾く。一年上に藤井信雄氏(ds)
清水くるみ氏(p)、同期に広瀬眞之氏(g)、一年下に是安則克氏(b)二年下に佐藤達哉氏(ts)がいた。
阿佐ヶ谷の小さなジャズ喫茶「毘沙門」によく行った。そこでヨーロッパのフリー・
ミュージックを知った。I.C.P.、INCUS、FMP。新鮮で刺激的で自由自在で、
自分はこれをやりたかったんだと思った。
アルバイトはキャバレー。カラオケのない頃なので場末のハレンチ・キャバレー(死語)
からグランド・キャバレーまでバンドマンの需要は結構あって東京中のキャバレーで
ベースを弾いた。
ダンモ研以外では、ラサール石井氏のいた早稲田ミュージカル研究会のバックバンド
を3年ほどつとめ、演劇音楽のおもしろさを知る。
フリー・ジャズでは細川周平氏(p)と組んで荻窪グッドマン、吉祥寺マイナー、
芸大学園祭などで演奏する。
卒業後、就職、結婚。しばらくして地元三鷹市にアマチュア・ビッグバンドが
あることを知り参加。その三鷹市PMSジャズ・オーケストラでは今も活動を続けている。
就職先の同僚シンガー・ソング・ライター桜井明弘氏のバック、MTRによる自主作品発表などを続け、
1995年から毎月荻窪グッドマンにてベースとギターの即興ソロ演奏を始める。
漫画的履歴
4歳頃まで世田谷の桜新町に住んでいたので、近所に住んでいた長谷川町子抱っこされたことがあると
親に聞いたことがあるがもちろん覚えていない。記憶している最古の漫画は、桜新町の夜店で買ってもらった
雑誌の付録だ。今考えると杉浦茂のロボットもので、足の先にキャタピラがついている主人公のロボットに
ついてまわりの人が「傷痍軍人みたいだ」というシーンが印象に残っている。当時渋谷駅周辺に手足のない
傷痍軍人が白衣を着てアコーディオンなどを演奏していて幼い私は怖くて仕方なかったのだ。
新聞漫画「サザエさん」「クリちゃん」は祖父が新聞から切り取って自家製の本を
何冊も作ってくれて何度も何度も読み返した。小学校高学年になった頃かな、「もう漫画は卒業だろう」
と作ってくれなくなったときは寂しかったなあ(なんと昔は漫画は「卒業」するものだったのだ!)。
三鷹に引っ越して小学生になると、貸本屋通いが始まった。貸本屋全盛の時代で、貸本用単行本も
たくさんあったけど手塚治虫(「宇宙空港」が一番好きだった)以外はあまり興味を引かれなかった。
夢中になったのは雑誌。「日の丸」「少年クラブ」「冒険王」「まんが王」などの月刊誌、創刊された
ての「少年サンデー」「少年マガジン」。一番好きだった月刊「少年」だけ買うことが許された。(つづく)
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