サブカルチャー

ZEP時代のサブカルチャー 

ウッドストック

ベトナム戦争
アメリカは、ケネディ、ジョンソン、ニクソンと3代の大統領が関与し1,500億ドルの巨費とピーク時には年間54万人の軍人を派遣し、国の威信をかけて挑んだ戦争でした。結果はといえば、北ベトナム側の勝利に終わりアメリカ軍はベトナムの地から撤退を余儀なくさせられたのです。この戦争には、アメリカからの経済援助とひきかえに各国の国策のもと、韓国、タイ、オーストラリア、ニュージーランド及びフィリピンから兵士が送り込まれました。この戦争の犠牲は大きく、撤退したアメリカ軍でさえ5万8千人以上の戦死者を出しました。南北ベトナム人民に至っては200万近い人が犠牲になったといわれています。そして、大量に空中散布された枯葉剤の後遺症(特にダイオキシンの影響)が、四半世紀近くたった今でも残っています。

べ平連
(ベトナムに平和を!市民連合)は、1965年2月のアメリカによる北ベトナム爆撃開始を受け、4月に始まったベトナム反戦の市民運動である。

声なき声の会の高畠通敏が鶴見俊輔に声をかけ、さらに小田実に話を持ちかけ、小田を代表として運動は始まる。実際のスタートとなる4月24日のデモの際のビラの文面は、しばしば引用されているが、べ平連の運動の雰囲気を伝えるものとして重要であるので、ここで引用しておきたい。
 私たちは、ふつうの市民です。
 ふつうの市民ということは、会社員がいて、小学校の先生がいて、大工さんがいて、おかみさんがいて、新聞記者がいて、花屋さんがいて、小説を書く男がいて、英語を勉強している少年がいて、つまり、このパンフレットを読むあなた自身がいて、その私たちが言いたいことはただ一つ、「ベトナムに平和を!」

風月堂のヒッピー
1960年代に世界中のバックパッカーやフリークたちに知られた「新宿風月堂」に集った無名のヒップスター
(ビートニク以降)やフーテンや彼らがもたらしたカウンター・カルチャー(対抗文化)を讃え、記念するサイト

フラワームーブメント Make love, not war
山野楽器インターネット♪〜もしサンフランシスコに行くのなら、髪に花をさして行こう〜♪ ラヴ・ジェネレーション

サイケデリックロックを介して広がったフラワームーブメント。LOVE & PEACE「愛と平和」を訴えるメッセージは、インディアンのマザーネイチャーから学んだものでした。そんなサイケデリックロックとアメリカンネイティブをモチーフにしたのがRock&Native。アメリカンロックを象徴するレザーをアクセントにしたデザイン。バンドには、インディアンの平和のシンボルである羽をあしらいました。

 60年代中期から後半にかけて(西海岸)にわき上がってきた「フラワー・ムーブメント」と呼んだ。この時代のアメリカはベトナム戦争が泥沼化への道を進みつつあった。そしてこの戦争に対する考え方、さらには社会全体への考え方も変化しつつあった。つまり、当初は「アメリカの正義〜自由主義社会を社会主義・共産主義の侵略から守るための戦い」というスローガンの元に結束して政府を支持していた民衆が、ベトナム戦争のあまりの長期化。それによる軍事費の増大。傷病兵の肉体的・精神的損害の無惨さなどから、わざわざアジアの片隅にまで出兵する意味合いに疑問を持つ人がかなり多くなりつつあった。ベトナム帰りの兵士で精神に異常をきたしてしまう者や、麻薬におぼれてしまう者も多く、ヒッピーと呼ばれる者が出現してきたのもこの時期であった。
 「
ヒッピー」とは社会通念や既存の体制に疑問を持ち、自分たちなりに納得出来るような新しい価値観を見いだそうとしていた若者を指す表現であった。「HIP」という言葉は通常「お尻」を指すが、スラングで「最新流行、情報」を表す使い方もされている。その名詞が「ヒッピー」という事になる。
 ヒッピーと呼ばれた若者には、考え方の一致する仲間だけの小さな集団を作り行動していたグループや、職業を持たずに、自然の流れの中で生活するというポリシーで貫いているグループ等があった。しかし日本では思想性が見られずに、スタイルだけを真似て長髪であったり、フラフラしているだけの姿の連中が多かったため、「ヒッピー=フーテン」といった捉え方をされてしまっていた。
 ヒッピーはウエストコースト、主にサンフランシスコにになぜ集中的に発生したのか? この地域は学園紛争や反体制運動が全米の中でも最も盛んな一帯であり、また50年代あたりから詩人や学生・芸術家が多く住み着いていた地域であった。こうした人々のかもしだす雰囲気がヒッピーあるいは
フラワー・チルドレンと呼ばれる若者達を生み出す土壌となっていった。
勿論、ロバート・プラントもヒッピーでした。

ヒッピー 警官の銃口に花を
今では忘れ去れているが、ヒッピーとは忌み嫌われる人々であった。

今では美化されているが、ヒッピーとは忌み嫌われる人々だった。一般市民からもそうだったし、聖霊(アフリカ)との精神世界を追求するヒップスターに比べ理想が低いとみなされていた。ヒッピーは、ピップスターの物真似ないしは、なりそこないという意味だった。ヒップスターは、学問や文化に置いて無償でしかも高度なものを追求実現していた。しかし、ピッピーにはその多くが、裕福な白人中産階級の出で、インデアン文化とインド文化を安易に結びつけドラッグとロックとをことさら愛した。コミューンを最高の社会と位置付けた生活にはマリファナが平和の象徴とされた。彼らは多くの派閥を作り、宗教団体「愛の家」などになって行くものやマンソンのような犯罪者を作り出した。しかし、彼らの行った自然回帰的文化を私は愛している。また、羨ましく思っている。そして、当時を知る人は、ヒップスターを尊敬するもの、ヒッピーは楽むものと考えていた。★ここでヒッピーを神格化している人に残念な話をします。実はヒッピーは甘えの構造により成立していました。それはヒッピーをしながら社会保証金(生活保護に相当)で暮らす、親の援助で暮らす、コミューンのただ飯で暮らすなどでした。当然行き詰まったコミューンの中には「愛の家」のようにロリコン向けに幼女売春をさせるものや寄付金のおねだりが横行し、一部は暴徒化しました。石油危機に代表される経済の低迷が彼らの甘えを許さなくなりヒッピー文化は消え去ったのです。しかし、今でもそのスタイルがバックパッカーなどと姿を変えて精神だけを引き継ごうと試みる者たちが残っています。で、結局何が言いたいのか不明な文章のままで終わりにします。
私の中でヒッピーは終わらないから!

オラクルという名はコンピュータソフトの会社名になっているから知っている人も多いでしょう。しかし、その名は元々HIPの紹介したミニコミ誌の名でした。HIPではドラッグを大量に販売してカルフォルニアアシュベリーの名をヒッピー文化の中心にまでしました。 

ティモシー・リアリー「ドラッグ文化の高僧」
リアリーは、58年当時ハーバード大学の心理学講師だった。

メキシコのクエルナバカでインディアンと体験したマジックマッシュルームからシロシビン(LSD)の研究に取り組む。マサチューセッツ州の犯罪者に使用し再犯率を抑えることに成功した。しかし、そのTurn on, tune in, drop outの言葉や行動が問題になり学内から追放される。

メリー・プランクターズ 佐野元春事務所 扶桑社 THIS(年4回発行)
1964年、ケン・キージーを慕って集まった"陽気なイタズラ者たち"の集団。中心メンバーは当時29歳、<酋長>キジージーと彼の妻・フェイ、ベトナム帰還兵の<副酋長>ケン・バッブス、当時40歳のニール・キャサディ。彼らにマウンテン・ガール、ブラック・マリアなどのニックネームで呼ばれる女たち10数人を加え、カリフォルニア州ラ・ホンダを拠点として共同生活を営み、単なるトリップを超えたアナーキーな精神運動としてのサイケデリック革命を推進するためのさまざまな実験を行なった。原色の派手な蛍光塗料で彩り、特製のサウンド・システムとありったけのLSDを積んだ改造バスでアメリカを突っ切り、その活動を映画に記録。あのヘルス・エンジェルスさえも魅了し、ピースフルに交歓した。

マリファナ1980年成田空港でのポールマリファナ事件写真
あなたはたぶんマリファナについてそれが大麻と同じであると聞いたことがあるかもしれません。それはドラッグとみなされ非合法です。ドラッグは習慣性があり危険だから非合法であると聞かされます。これは本当でしょうか?ロバートプラントもマリファナ解禁運動に参加した写真があります。

ルーシーモノストーン ってご存知でしょうか?(2000・01・25)
この人物は実は存在しませんが実際に存在する人のように噂されています。フラワー・ムーブメントに刺激されたことを漫画のなかで書いたものです。いろんな噂がありますが全部創作です。例えばホワイトハウスに爆弾を仕掛けて爆発させたとか一枚だけフラーワーチルドレンという海賊盤LPレコードがあるとかです。いつの日かこの名前を聞いたら思い出してください。

時々こんなメールが届きます。<20代の、男なんですが、ルーシー・モノストーンというのは、都市伝説なんでしょうか? ディテールが、はっきりし過ぎているので(好きな数字など) ホンとに居ると思ってしまいました。 当時、どんな噂が、流れていたのでしょうか? 突然のメール申し訳ありませんでした。

A<元々はサイコという漫画の脇役でした。それはフラワーチルドレン時代の情景から 作者が考えた空想の人物です。 その噂を最初に流したのは、若い何も知らない人です。 それに頷き、悪戯心でサイコのWEB管理人も悪のりしたようです。私も、死亡した後の埋葬の話を作ってしまいました。 少しだけ公開したところ、今でもその話の転載が あちこちで見られます。¥ごめん(^^;。死後火葬にされ、キューバとデトロイトに分割埋葬された話は私の思いつきの作品です。当時はこの話がフラワーチルドレン時代をふりかえる良い材料に なり、みんながあの時代を考えてくれると思ったからです。 しかし、あまりに噂が信じこまれて行くので罪悪感を感じ、ネタを ばらして噂を終息させました。 もし、まだ気になるなら モノストーンで海外の検索エンジンを引いてください 。何もありません。 つまり、MONOとSTONEを合わせる 名前は非常に語呂が悪く海外では思いつかない言葉なのです。 いかにも日本的造語と言えます。 このモノストーンはNETの噂の伝わり方や人の心理を考える 面白い材料としてウォッチングしてください。 では、ゆっくりとこのからくりをお楽しみ下さい。ルーシー・モノストーン掲示板なんかに、いきなりここの転載とかは無粋なので黙って観察して下さい。トラブルになっても困るのでこれ以上の介入はしませんので悪しからず。

マンソンファミリー
1969シャロンテート惨殺事件って覚えてる?あの日のニュースはアメリカの怖さを知った日だった。ヘリコプターで空撮されたニュース映像には惨事の後がそのまま流されて驚いたことを覚えています。
19698月9日、チャールズ・マンソンがカルトを率いて、ロマン・ポランスキー監督の妻でもあるセクシー女優シャロン・テートら5人を殺害した。彼らは7月27日から8月26日の間、合計9人を虐殺している。

マンソンはカルト宗教の象徴だった。カルト宗教の愛の家とかも見なくなった。まだ、箱根のコロニーに住んでるのかな。新宿とかにいて話しかけてくる人達の中にまだいるのかな?。コマ劇場の前に、朝4時ごろに座って韓国のチーズ焼き饅頭を、ドンキホーテで買って食べてたら、統一教会の人に話しかけられたけど頑張る姿が・・・だった。でも多宝塔は買わないよ。そう言えばその日、新大久保の韓国人の料理店でZEPがBGMで流れてた。キムチと天国への階段それはそれで似合ってた。

ルシファー・ライジング
ルシファー・ライジングってなんだ (大西さんの解説は驚くことばかりです)

これはケネス・アンガーという映画監督により、おおよそ1970年から80年にかけて作られた映画でジミーページも深く関わっています。ただし、喧嘩別れしてクレジットなどはされていません。この作品を悪魔の産物と一言で言ってしまうには・・・・・。

悪魔崇拝宗教
ジミーページの大好きなもの。日本人にも映画や本ではお馴染みですね。本当にあんなことするなんてアホみたいだけど・・・・。仮装行列とか思い出す。
アメリカ・カルフォルニア。自称悪崇拝者のスティーブン・ハートは、女性教師をオレンジ畑に追い込んで刺し殺した。悪魔にその肉体の一部を献上した後に、その肉を食った。12月、スイス・ヘリコン村。村を支配していた宗教団体《慈悲を求める者》のヨゼフ・ストッカー牧師とマリア・マグナレダらが、悪魔祓いと称して17歳の少女ベルナデッド・ハスラーをリンチの上、殺害。

悪魔崇拝は、神と対抗する存在である悪魔こそ最高の神であると考え崇拝することである。信者たちはサタニストと呼ばれ、彼らは美徳や宗教のもつ価値観や美意識に嫌悪感をいだき否定している。それらが人間の精神を束縛していると考えているからだ。サタニストは、キリスト教の定型儀式を否定し、その逆の行為を率先しておこなっている。

逆十字架や、キリスト教が忌避するセックス的な要素を盛り込んだ破廉恥な儀式などがその典型で、キリストを汚す行為を賞賛する。悪魔崇拝の一環として行われるのが黒魔術で、呪術やセックス魔術などが含まれ、古代エジプト時代にまで起源を遡ることができる。逆十字架や五亡星形などのシンボルを用い、邪悪な力を解き放つことを目的とする黒魔術は錬金術などとも結ぴつきながら発展を遂げ、今日に至っている。悪魔崇拝と黒魔術のエキスパートとして知られ、みずからをアンチキリストだと考えていた19〜20期世紀前半のイギリス人アレイスター・クロウリーが、最近目本でも再評価が進み著書が売れ、また、悪魔崇拝や黒魔術が小説や漫画や映画の素材として頻繁に便われているおかげなどで、わが国でもこれらがポピュラーなものとなってきている。

ゲバゲバ若松孝二
ZEPが誕生した時代の日本のアンダーグランドカルチャー! 
「ヤバイッ時代」への回答

ジャパン、アバンギャルド、ポップ&バイオレンス ムービーだ日本が生んだ最も暴力的で政治とエロス、そして究極の愛に満ちた映画を作った若松孝二。1960年代から'70年代にかけての全共闘、学園闘争の熱い時代に正面からぶつかり格闘した最も暴力的で政治とエロス、そして究極の愛に満ちた映画を作った若松孝二。1960年代から'70年代にかけての全共闘、学園闘争の熱い時代に正面からぶつかり格闘した

タイトル(製作年/国)       監督 担当
情事の履歴書 (1965/日) 若松孝二監督
歪んだ関係 (1965/日) 若松孝二 監督
胎児が密猟する時 (1966/日) 若松孝二 監督
淫紋 (1967/日) 若松孝二 監督
犯された白衣 (1967/日) 若松孝二 製作・監督
新日本暴行暗黒史・復讐鬼 (1968/日) 若松孝二 監督
狂走情死考 (1969/日) 若松孝二 監督
処女ゲバゲバ (1969/日) 若松孝二) 監督
テロルの季節 (1969/日) 若松孝二監督 ●革命軍「四季協会」の秋軍団は首都総攻撃を期し米軍基地襲撃、武器奪取作戦を敢行する。本作の原題は『天使の爆殺』である。さる大手全国紙は本作をはっきり“無差別テロ映画”と呼んで非難した。若松自身の後に語った言葉を借りるなら「東京爆破宣言」。パレスチナ闘争支援のドキュメンタリー『赤軍─PFLP・世界戦争宣言』の直後の作品であり、国内的には学生運動の退潮期の初期とも重なって、その後の極左組織内の内ゲバやリンチ殺人への予兆のような息苦しさを持った作品となった。人ごみの中を歩み去る吉沢健の背中が痛々しい。
秘花 (1971/日) 若松孝二 監督
天使の恍惚 (1972/日) 若松孝二 製作・監督
愛のコリーダ (1976/日=仏) 大島渚 製作
聖母観音大菩薩 (1977/日) 若松孝二 監督
日本御禁制 女人売買 (1977/日) 若松孝二 監督
餌食 (1979/日) 若松孝二 監督
水のないプール (1982/日) 若松孝二製作・監督
スクラップ・ストーリー ある愛の物語 若松孝二製作・監督
キスより簡単 (1989/日) 若松孝二 監督
パンツの穴 ムケそでムケないイチゴたち 若松孝二 製作・監督
われに撃つ用意あり 若松孝二製作・監督
キスより簡単2 漂流篇 (1991/日) 若松孝二製作・監督
エロティックな関係 (1992/日) 若松孝二 監督
寝盗られ宗介 (1992/日) 若松孝二 監督
シンガポール・スリング (1993/日) 若松孝二監督・脚本
エンドレス・ワルツ (1995/日) 若松孝二 監督
明日なき街角 (1997/日) 若松孝二監督

Ultimate-Movieのバーバレラ 

愛と性のフーガ キャンディ

二十歳の原点 高野悦子

三島事件
1970年11月25日午前11時ころ、作家の三島由紀夫と「楯の会」会員4人が東京市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部で総監を監禁し、バルコニーで自衛隊員にクーデターを呼びかけた。賛同者がいないことを知ると、三島は総監室で割腹自殺した。世界的にも有名な作家の起こした事件で、内外に反響を巻き起こした。

沖縄全軍労
沖縄の本土復帰を前に、アメリカは基地労働者の日本人の大量解雇を求めてきた。戦後沖縄の労働運動で先頭に立ってきた全軍労は、基地の縮小か、それとも雇用の確保か、ジレンマに立たされる。当時の全軍労の上原委員長を主人公に、米軍基地が最大の雇用の場だった沖縄の苦悩。

沖縄の返還は問題があるでしょうがなんかよく分からない。

天井桟敷 書を捨てよ町へ出よう  人力飛行機舎

寺山修司の市街劇では、天井桟敷新聞の「言葉」によって観客の想像力は操作され、舞台である都市が形成され、そして参加する人間の「行動」によって空間が生み出される。この人は変態狂人天才でした。文庫本を買って読んだものです。今ではタモリのモノマネが笑えます。

黒テント 既成の上演組織や観客組織に頼らず、全国各地に協力者を発掘

1968年に「自由劇場」「六月劇場」「発見の会」の三劇団の連合組織である「演劇センター68」として発足。70年には大型の移動式テント劇場を創設し、全国移動公演の旅を開始。71年に組織を一つにして名称を「黒色テント68/71」と改める。

ウォーターゲート事件1972年6月17日、アメリカのワシントンDCのウォーターゲートビルにある民主党本部に盗聴器を仕掛けようとした5人組が逮捕されました。この事件をきっかけにアメリカ政府の違法な諜報活動が摘発され、国防総省の対ベトナム秘密文書が明らかになるなど一連のスキャンダルが明るみに出ました。結局この問題で共和党のニクソン大統領は1974年辞任に追い込まれます。

一条さゆり〔音源アリ〕
艶のある脱ぎっぷりやロウソクショーで人気を博し、70年代の学園紛争当時、新左翼から「反権力の象徴」とまでまつりあげられた元ストリッパーの初代一条さゆり(いちじょう・さゆり、本名池田和子=いけだ・かずこ)さんが肝硬変のため、大阪市西成区の杏林記念病院で死去した。60歳だった。(1997)一条さんは、昭和47年、大阪のストリップ劇場で行われた引退興行で、警察の警告を無視して、最後の“特出し”を披露。公然わいせつで、49年に懲役6カ月の刑が確定した。51年には、交通事故で大けがを負うなどトラブル続きで酒におぼれていたが、60年ごろには、いったん酒をやめ、西成で居酒屋を開き、“優しいママ”として人気者に。ところが、63年にこの居酒屋を、「恋人」と名乗る男性に放火され、顔がパンパンにふくらむほどの、大やけどを負った。いらい、再び酒びたりの生活に逆もどり。そんな中、最近では、弟子がいないのに、「弟子を『一条さゆり一座』として売り出したい」と劇場にかけあいに行くなど、“奇行”も見られた。しかし、昨年は、大阪の劇場に出ていたベテランストリッパーの舞台を、突然見学に訪れ、演技のアドバイスをはじめるなど、最後まで“踊り子”にこだわっていたという。

あしたのジョー(フジテレビ、4月1日〜71年9月29日)

いちご白書 The Strawberry Statement (米)
ノンポリの学生が、学生運動に熱心な女子大生に一目惚れしてから、次第に学園紛争に巻き込まれ、自己の精神改革を余儀なくされる。タイトル曲は "The Circle Game" (パフィ・セントメリー) 1970年に公開されたブルース・デービソン/キム・ダービー主演の青春映画

魚介汚染
1973年6月4日、水産庁は、全国八水域の魚介類が国の暫定許容基準を超えるPCBで汚染されていることを明らかにした。続いて厚生省も、「危険な魚」が全国の主要魚市場に出回っていると発表した。魚市場では汚染水域から出荷された魚の取引きが全面禁止となり、寿司屋や魚屋は客足が遠のいた。

60年代通信
この「60年代通信」は、1960年代を中心に、前後する50年代や70年代も含めて、それぞれの時代の様々な事象を振り返り、大袈裟に言えば、その歴史的な意味などを検証しつつ、同時代を生きた皆さんとともに、甘いノスタルジーにも浸ってみようというホームページです。

全学連 京浜過激派研究会
全学連は今も私の中に敢然とあり続けるのです。バリケードのなかで共に戦った友の顔を思い出しながら。孤独や自分を捜す旅というヤツです。誰かの歌に、インスタントカーマというのがありました(笑)。人皆、気づかなくても、出来合いの悟りで動かされてるんです。多分、今この瞬間も、この文章さえも(笑)福祉ボランティア、全ての盲目的宗教家、献身的看護婦、みんな同じスタンスなんだ。良し悪しじゃない。全学連と同じだ、誰も人の言葉は聞く耳持ってないのが証拠。その方が居心地良いでしょ。人に何かを教える時、人助けをするとき、環境を守る活動をした時、それを語る時。アー気持ち良い!。これは全て自慰に似てる。かくなる私もそれを実行してる。

革共同の成立
革共同とは【革命的共産主義者同盟】の略称である。革共同は1957年12月に、黒田寛一、太田竜、西京司らを中心にして結成された。黒田氏はつい最近まで革マル派の議長として君臨してきた人物である。この黒田氏は自前で「こぶし書房」と言う出版社を設立し、1952年頃からさまざまな社会学的な書籍を執筆・出版していた。そうしていくうちに黒田氏の下にマルクス主義研究会のようなサークルができあがり、4人のメンバーで「弁証法研究会・労働者大学」と言うサークルを作った。やがてサークルは大きくなり「探求」と言う雑誌を出版するようになる。このミニコミ誌によって、黒田氏の影響力は全国的に浸透していったのである。そして、革共同の前身である【日本トロツキスト連盟】が発足する。

トロツキーというのはロシア革命でスターリンとの政争で破れ、亡命先のメキシコでスターリンの刺客に暗殺された革命家である。当時の共産主義運動ではトロツキーは反革命的とされ、反革命分子を「トロツキスト」呼ばわりした。
第一次分裂

日本トロツキスト連盟は日本共産党を中心に「加入戦術」を展開していた。加入戦術とは、対象となる組織に加入し、内側から組織の切り崩しを行う戦術である。その加入戦術が巧を奏してか、日本共産党京都府委員の西京司氏が日本トロツキスト連盟に加入してくると、同連盟は間もなくして【日本革命的共産主義者同盟】と改称した。しかし組織は早くも内部分裂を起こす。1958年7月に、太田竜氏らのグループが【関東トロツキスト連盟】を結成して革共同から分離したのである。太田氏は純粋なトロツキスト(いわゆる純トロ)だったが、黒田氏は「トロツキズムは批判的に摂取していくべき」との立場から意見が食い違ったのである。この太田派はのちに【日本トロツキスト同志会】と改称し後の【第四インター日本委員会】になる。革共同から分離した太田氏は日本社会党への加入戦術を行い、学生運動民主化協議会(学民協)と言う組織を作り、当時の学生運動の中では右寄りな路線をとっていた。
その後、太田氏はアイヌ解放運動に身を投じていき、最近では民族主義的な活動をしているようだ。
ブントの成立と第二次分裂

この時期に共産党を除名された学生グループたちが、新しい革命党を建設するとして1958年12月に【共産主義者同盟】(共産同とかブントと略される。BUNDとはドイツ語で同盟の意味)を結成し、革共同と共産同=ブントと言う新左翼の二大潮流が形成されたのである。ブントは見る見る組織を拡大し、当時は革共同が主導権を握っていた全日本学生自治会総連合【全学連】までをもを支配するに至ったのである。この破竹の勢いのブントに焦ったのは組織を横取りされた形になった日共と革共同であった。

元日本共産党の京都府委員であった革共同創立メンバーの西京司氏はその人脈から関西地区での組織を拡大し【革共同関西派】とも呼べるほどの組織を作り上げ、革共同内部でも主導権を握るまでにり、西氏は政治局員だった黒田氏を解任した。黒田氏の理論がブント結成に影響を及ぼしたと言うのがその理由だったらしい。そこで黒田氏は本多延嘉氏と共に【革共同全国委員会】と言う組織を作り、西氏の関西派と分離する。1959年8月のことである。これがいわゆる革共同第二次分裂である。
ブントには日共の大学生細胞などが組織的に流入していった。なかでも日共港地区委員会が組織ぐるみで移籍してくるといったケースもあった。
ブントの分裂と革共同全国委の拡大

黒田氏と本多氏の革共同全国委員会はそれまでのトロツキズムから「反帝・反スタ」路線に転換していく。そして、1960年にはブントの学生組織の社会主義学生同盟【社学同】に対抗する形でマルクス主義学生同盟【マル学同】を組織し、学生を中心に組織を拡大していった。

やがて、60年安保闘争敗北後の総括を巡って、おもに関東のブント=社学同が「戦旗派」「プロレタリア通信派(プロ通派)」「革命の通達派(革通派)」に三分裂すると、戦旗派は「革命的戦旗派」と改称した後、革共同全国委へ合流した。プロ通派も解散を決議した後に、一部が革共同全国委に流れたのである。こうして革共同全国委はブント残党の流入によってその組織を飛躍的に拡大し、これによって全学連に於いても分裂したブント=社学同に代わって革共同全国委=マル学同が主導権を握るに至った。

ちなみにプロ通派から革共同に移行したメンバーには現在も中核派最高指導部に籍を置く清水丈夫氏、北小路敏氏などがいた。
反帝・反スタとは、反帝国主義・反スターリン主義のことである。革共同は共産党の路線をスターリン主義と定義して批判していた。

関西地区の社学同は独自の安保闘争総括を行い大きな分裂は避けられた。関西社学同はのちの第二次ブント再建の中心となる

第三次分裂、中核派と革マル派の誕生

革共同全国委の中心人物であった黒田氏と本多氏の意見対立の発端は、1962年9月の第三回革共同全国委総会(三全総)であった。党の建設方針と労働運動戦術で黒田氏と本多氏の意見が対立し、上層部のみならず学生組織のマル学同内部でも黒田派と本多派に分かれて論争が起こったのである。

革共同全国委の政治局内部では本多派が多数を占め、黒田派についたのは現在JR東労組で活動している松崎明氏と森茂氏だけであった。こうして黒田氏は1963年4月に【革共同・革命的マルクス主義派】を結成して全国委から分離する形になった。これが革マル派の誕生である。

しかし逆に学生組織のマル学同では逆の現象が起き、多くの学生は黒田派に付き、本多派は極少数であったため、本多派の学生組織は【マル学同・中核派】として独立したのである。本多派の上部組織が革共同全国委のまま名称変更していないのはこのためである。中核派と言う名前はもともとマル学同の本多派に付いた名前だが、一般的に革共同全国委のことをひっくるめて中核派と呼ぶようになった。

また、革共同全国委の労働者組織のマルクス主義青年労働者同盟【マル青労同】も中核派と革マル派に分裂し、革共同全国委は完全分裂を遂げた。ここで各組織を明確にしておくと、、、

●中核派
正式名称:革命的共産主義者同盟全国委員会
学生組織:日本マルクス主義学生同盟・中核派
中央機関紙:前進
季刊機関紙:共産主義者
出版社組織:前進社

●革マル派
正式名称:日本革命的共産主義者同盟・革命的マルクス主義派
学生組織:日本マルクス主義学生同盟・革命的マルクス主義派
中央機関紙:解放
季刊機関紙:共産主義者
出版社組織:解放社

となっている。両派の組織名が似ているのはこういった経緯があるからである。こうして革共同は第三次分裂を遂げ、双方が独自の路線を歩み、現在まで続く新左翼の二大党派になっていくのである。

革共同の組織変遷表 マル学同の学生はほとんどが黒田派=革マル派に移行し、都内の本多派=中核派の学生活動家数は18人にまで落ち込んだと本多氏自身が明かした。

 

ガロ
青林堂発行の漫画雑誌。つげ義春の「ねじ式」は衝撃的な漫画だった。反日共系学生の愛読書の一つ。

吾妻ひでお 
著作リスト 

テルアビブ空港で自動小銃乱射
1972年5月30日、テルアビブのロッド空港で、日本赤軍の3人が、税関カクンター前で突然自動小銃を乱射、26人が死亡、73人が重軽症を負った。

重信房子 我が愛我が革命
 この本読んでみたいな〜どこにあるんだろう? 奥平房子だっけ?わが愛 わが革命かもしれない。内容は革命の本では無く、人間重信房子のことだから誰が読んでも大丈夫だと思います。中古であれば5万円位で買えます。一万二千部発行したらしけど見たことないな〜〜。

日本赤軍のリーダー。政治委員。1945年9月28日生まれ。東京都出身。都立第一商業高校を卒業し、一時就職したが、65年明大文学部(夜間)に入学。学生運動に入り、共産同メンバーとして活動。69年9月、共産同から赤軍派が分離独立した際、同派に参加。71年2月、同派の国際根拠地建設のため、奥平剛士容疑者(テルアビブ空港乱射事件で死亡)と偽装結婚した上、出国した。 パレスチナ解放人民戦線(PFLP)メンバーとの間に子供をもうけたといわれており、日本赤軍とPFLPとの信頼関係をつくり上げた。88年4月のイタリア・ナポリの米軍クラブ爆破事件に奥平純三容疑者とともに関与したとして、イタリア当局から国際手配された。アラブ名サミーラ。

三億円事件マスコミから作られた犯人
(二十六歳男性)/朝日・毎日・読売新聞/68年マス・メディアによる犯罪−誤報・虚報・情報操作

・松戸OL殺人事件(○無職男性)/同上/91年
・長野・富山連続女性誘拐殺人事件(○北野宏)/同上/80年
・ロス疑惑(▲三浦和義)/同上/81年
・三億円事件(○二十六歳男性)/朝日・毎日・読売新聞/68年
・東京・埼玉幼女連続誘拐殺人事件(▲宮崎勤)/読売新聞/88年
・リレハンメル冬季五輪/朝日新聞/94年
・日航機御巣鷹山墜落事故/共同通信−加盟新聞社/85年
・教科書検定/朝日新聞/82年
・サンゴ損傷事件/朝日新聞/89年
・NHKスペシャル誤報事件/NHK/92年
・ザ・スクープ/テレビ朝日/93年
・素敵にドキュメント売春やらせ事件/朝日放送/92年
・アフタヌーンショーリンチやらせ事件/テレビ朝日/85年
・湾岸戦争原油流出報道/測定不能(おそらく全世界規模)/91年

記者クラブは本来記者同士の情報交換の場として設定されていたが、次第に企業や官庁からの情報提供を求める場になってきた。更に一つの企業・官庁・政治家につく“番”記者と呼ばれる制度も確立した。番記者はその個人・団体を長期に担当するため、癒着や温情記事の問題が顕在化してきている。西欧においては、ジャーナリストと言う身分に対する法的規定がある国が多く、また新聞協会なども独自の倫理綱領を元に、第三者的な期間を設立し、厳しい罰則規定を定めている。しかし、日本は全く定められていない。日本のマス・メディアは公正中立・客観報道を建前としている。しかしこれは海外のマス・メディアのモットーとしている公正中立・客観報道とは様相が異なるものである。つまり日本のマス・メディアは全ての意見を採り上げ、自らの立場は全くの公正中立で不倒普遍であるとしている。しかし、朝日、毎日系列は左より、読売、産経系列は右寄りと一般的に言われるように決して全くの中間という立場はあり得ない。この点海外のマス・メディアは自らの指示、編集方針を明らかにしている。事実認定・報道姿勢に関する客観性と、自らの立ち場に関する中立性をわけているのである。しかし、日本は建前とは裏腹に客観報道の名を借りた偏向報道を表す事例は推挙にいとまがない。基本的に記事は記者が世間に迎合して作るものです。世間が喜ぶようにです。何が真実か読取りましょう。

ラッパズボンと厚底サンダル
70年代初期にはコギャルではなく男の若者が愛用してました。俺たちの旅などの青春ドラマでも出てきます。コギャルが履いてるとそのころを思い出して懐かしくて仕方ありません。

なめねこ♪

Modsファッション
R&B色強い彼らのファッションは今も新しい。

Kinks/キンクス
Manfred Mann/マンフレッド・マン
Small Faces/スモール・フェイセズ
Who/フー
Yard Birds/ヤードバーズ
などが代表的

ネズミ講 熊本の阿蘇山の麓のピラミッドはまさにお墓です。金欲に目がくらんで出来た天下一家の会の象徴です。観光として行って見てはいかがでしょうか?こんなこといってはなんですが、他人を踏み台にする構造を知った上で儲け話に乗った人達は、純粋な被害者かどうか怪しいです。まあ、騙されても良い金額なら、一口乗っかって見てるのも経験かもね(笑)

アメリカ(USA)
好む好まないにかかわらず、今僕らの住んでいる国はアメリカの軍隊が駐留している。世界大戦に負け、占領されたままだ。アメリカは占領したままで日本に制限付き独立を許してくれた。アメリカに従順な飼い犬になることによって安住の地を約束された。偉大な国アメリカ。それでもソ連に占領されなくて良かったね。

ハラハラ時計
木村哲人『テロ爆弾の系譜―バクダン製造者の告白』(三一書房)

当時世界最高の爆弾制作者の自伝(ただし本人のいうところテロはやってないらしい)。現在は映画の録音技師さんである。 ヘルメットのオニイサンたちが配ってたという「これさえあれば、高校生でもバクダンがつくれる」というパンフレットで、「ハラハラ時計」というのがある(あった)。お聞き及んだことのある人もいるだろう(持ってる人だっているかもしれない)。 そういう爆弾パンフレットの元ネタ(その手の爆弾製造本は、すべてここからのパクリだという)で、知る人ぞ知る「球根栽培法」という小冊子があるのだが、そこは実作者の強み、この「球根栽培法」がいかにインチキで実現不可能なガラクタばかり載ってるシロモノかを、どんどんあげつらう。返す刀で、こんなデタラメ本を後生大事に「テロリストの聖典」みたいにしてた、日本のテロリストの程度の低さもぶったぎる。(たぶんこの冊子は、テロリストにスカつかませるために、官警がでっちあげたシロモノだろう、というのが彼の推理である)。 その筆は冷静さと自信にあふれる。ヨーロッパの爆弾制作者に会いに行き、化学天秤も使わず黒火薬を調合して見せ、そのお返しに伝説の爆弾の仕組みを教えてもらったりする。 序文は何故か大島渚。

ロボット検索で京大のHPに行きついたのですが、なにもありませんでした。既にサーバーから削除されたようです。またいつか誰かがUPするでしょう。毎日のようにTVで報道された発禁本。内容はたいした事無い時限爆弾の本。過激派のバイブル的な役割を果たしたとは到底思えない内容でした。今ならネットで直ぐにこの位の情報は手に入りますね。うる星やつらで不良少年が読んでたのには笑いました。勿論TVではカットでした。

せまい日本、そんなにいそいでどこへ行く(1973)

わが巨人軍は永久に不滅です(長島茂雄、引退試合後のあいさつ)

日本列島改造論「田中角栄研究--その金脈と人脈」(立花隆)によって金権実像を暴露される。国会で問題化し政局混迷

1969 は特別な年でした。最適なリンク先がみつかりません。全てが1969に集約されてる不思議な年です。 イーグルスのホテルカリフォルニアは1969を素直に歌った。そして、世界中で記録的セールスをし、彼らはその活動に終止符を打った。1969はどんな意味があったのか?今更ながら振り帰って見たい。

FUKUSHI's Web PageWeb ザ・20世紀 1996を知るおすすめ年表

全共闘,東大安田講堂で攻防戦を展開.
ベトナム和平のためのパリ会談実質審議に入る.
社共両党・総評など86万人が統一講堂、反共産党系学生のゲリラ活動で1,505人逮捕。
アメリカ大統領ニクソンと南ベトナム大統領グエン・バン・チューが会談.米軍の一部撤退を発表.
日本初の原子力船「むつ」進水.
アポロ11号月面に着陸.アームストロング船長,オルドリン飛行士,“静かな海”に立つ.
ウッドストック・コンサート開催.当初5万人程度と考えられていた観客がなんと40万人に!!(〜18日)
ホーおじさんこと,北ベトナム大統領ホー・チ・ミン氏,心臓発作で死去
「男はつらいよ」封切り
<いいじゃないの幸せならば>
<港町ブルース>
<ドリフのズンドコ節>
6.29 新宿駅西口地下広場での反戦フォークソング集会 (7000人参集。機動隊ガス弾64人逮捕)
フォークゲリラ
6月 コンドームの自動販売機設置
パルコ池袋店開店
10.15全米にベトナム戦争反戦デモ
新宿西口地下広場反戦フォーク集会始まる
経済企画庁、1966年度GNP世界第二位と発表
ウッドストック野外コンサート(米)
家庭用ビデオテープレコーダー発表
美術家共闘会議(美共闘)結成(彦坂尚嘉ら)
コンセプチャル・アートはやる
UCC缶コーヒー[UCC上島珈琲、100円] テスト販売として登場した世界初の缶コーヒー
ホンダドリームCB750 FOUR[本田技研工業、385,000円] ナナハンの登場

菊屋橋101号
どの闘争か、まだ定かではないが、本富士署に逮捕された全共闘の女性闘士が、氏名や住所なども一切告げず、完全に黙秘したため、当局はしかたなく、この女性を留置先でつけられた留置番号である「菊屋橋101号」と名づけて、起訴した。菊屋橋とは、警視庁菊屋橋署をさす。女性の容疑者を留置する警察施設は、都内には数ヵ所しかなく、菊屋橋署はそのひとつである。
また、このとき、マスコミでは、この女性闘士は誰かというスクープ合戦が展開され、当時、創刊間もなかった夕刊フジが、逮捕時に警察で撮影された写真を手に入れ、それをデモ風景の写真と合成し、あたかも新聞社がデモの現場で彼女を撮影したかのように装って報道し、通報者を募るという人権侵害事件が起き、問題となった。
《コメント:たぶん、篠原とおるの人気漫画シリーズ「さそり 女囚701号」は、この菊屋橋101号からネーミングなどのヒントを得たに違いない。=風太郎》

パリの女学生 フランシーヌ・ルコント
1969.3.30仏]ベトナム戦争やビアフラの飢餓状態に抗議してパリの女学生が焼身自殺。「
フランシーヌの場合」のモデルになった。

【シージャック事件】1970年5月12日:窃盗で逃走中に警察官を刺した男が広島港に停泊中に観光船「ぷりんす丸」をライフルで脅して強奪、13日警察隊に狙撃されて死亡。 この時初めて人が撃たれて死ぬところを見ました。

カネミ油症
正式には、カネミライスオイル民事訴訟といい、西日本一帯を中心に、15府県で千余人にのぼる中毒患者を出しました。

カネミ油症事件の患者のうち、福岡、山口など8府県108世帯300人が、昭和45年11月16日に福岡地裁小倉支部に起こした損害賠償請求訴訟のことをいう。被告は中毒油(商品名カネクロール)を製造、販売した北九州市小倉区のカネミ倉庫会社と加藤三之輔同社社長、国、北九州市の四者(のちに中毒原因物質の製造販売責任を問われた鐘化を加えた五者)で、請求総額は9億7187万円。小倉支部では48回口頭弁論が開かれ、国側はポリ塩化ビニール(PCB)と中毒との因果関係を認めている。51年8月に結審し、53年3月原告側の主張をほぼ認めた判決が出たが、鐘化と行政責任を問われた国、北九州市が控訴して係争がつづいている。 >>>我が家も当時、父親の仕事の関係でライスオイルを使用していた。母親から生まれた妹は真っ黒で生まれて48時間で死にました。医者は化学物質による可能性もありますと言ってました。家族は全員わかってましたが、何も訴えることもしませんでした。何も出来ない状況だったのでしょう。触れたくない思い出です。

蜂の巣城http://www.kansai-u.ac.jp/Library/annai/collection/murohara_int.htm

「蜂の巣城は沈んでも・・・・不屈の斗争魂は残った。城主室原さんの文献 関大に永久保存−−13年、血と汗の記録」「関大に”室原文庫”誕生 貴重な資料5千点永久に芳子夫人ら招き感謝状」昭和46年6月、7月にかけて各社新聞はおおむね右のような趣旨の標題を掲げて室原文庫の誕生を報じました。

室原 知幸(1899〜1970)http://www.kumanichi.co.jp/20hito/20hito.991227.html

室原知幸。今の下筌ダムサイト右岸、急峻(きゅうしゅん)な山の斜面に構築した「蜂の巣城」を中心に、命尽きるまで十三年間にわたりダム建設に反対し続け、「公権に対する私権の闘い」を繰り広げた。

<<<<<ここからは音楽関係>>>>>

ニュー・ロック
社会現象となったグループサウンズによる「GSバブル」は1968年には木っ端微塵にはじけて、その後は解散や併合を繰り返しながらも結局はどのグループもフェードアウトしていった。そんな中、欧米でレッド・ゼッペリンなどを代表とする「ニュー・ロック」と呼ばれるバンドが多数デビューし、日本でもGS残党や非GS組達が「ニュー・ロック」に新たな可能性を見出して、さまざまなグループを結成した。代表的なのが内田裕也氏がプロデュースした『フラワー・トラベリン・バンド』。エレキギターを中心に延々とインプロヴィゼーションを繰り広げながら、そして洋楽のカバーをいかにうまく演奏するかというテクニック志向が特徴で、その演奏は長ければ長いほど良かった。他にも陳信輝の『フード・ブレイン』、ミッキー・カーティスの『サムライ』、成毛滋の『フライド・エッグ』など、個性あるグループが登場した。またそれと並行してエンケンや吉田拓郎などのフォーク勢が力を付けてきたのもこの頃。1971年の中津川フォークジャンボリーでは吉田拓郎が『人間なんて』を1曲だけで2時間も熱唱するという離れ業を遂げている。

京都大学の西部講堂「村八分とPYG」

ジャックス

友川かずきウェブサイト
友川かずきはフォーク音楽の中に留まらず一つの文化を作ったと思う。
日本ロック大百科・年表編

駒沢大学で共演したことがきっかけで頭脳警察のメンバーと知り合う。特にパーカッショニストの石塚俊明(トシ)と意気投合し、以後彼は重要な音楽的パートナーとなる。1975年10月1日、頭脳警察のメンバー(石塚俊明、勝呂和夫)がバッキングとアレンジで参加したファースト・アルバム『やっと一枚目』をリリース。徳間音工からはこのほか、1976年に育ての親、故・児玉利道氏(祖父)に捧げたセカンド・アルバム『肉声』、1977年に寺山修司の劇団「天井桟敷」のJ.A.シーザーがアレンジを担当したサード・アルバム『千羽鶴を口に咬えた日々』をリリースした(友川かずきは寺山修司とも知り合っているが、このころのことだと思われる)。後年「日本のオリジナル・パンクス」とも形容されることになる特異なイメージは、この『千羽鶴を口に咬えた日々』の冒頭に収録された「生きてるって言ってみろ」の新バージョンで確定的になったと言われている。歌というよりは絶叫に近い圧倒的な声の存在感、力強く鋭角的なギターのカッティング、文学性の高い歌詞等はだれにも真似のしようがないものだった。>>>いちてっるって言ってみろ!この叫びが今も聞こえます。

ビートルズ
 どう考えても世界最高のロックミュージシャン達。好きな曲も多数あります。 70年代初期は彼等の音楽を意図的に無視することが命題のような感じでした。そのくらい偉大でした。彼等への反感からあの頃は、ビートルズを感じさせないパンクやレゲェーに夢中になったりしました。

メンタイロックと沖縄の紫 
ボーカルの菊率いるサンハウスと紫は当時のロックをストレートに伝えてくれた。日本人がロックをするってカッコ悪いと思っていた自分の考えが彼等によって変えられました。田舎町までこのグループはコンサートに来てました。サンハウスには勿論鮎川誠さんとかもいました。福岡の伝説的バンドです。沖縄の紫はリーダーはキーボードのジョ−ジ紫、Vo- 城間正男 Bass-城間俊男 Dr-宮内英一 G-比嘉(ひが)清正 G-下地行男という6人編成。最近(1999年?)ライブを行ないTVでも紹介されてました。当時はパープルより紫でした。

架橋される60年代音楽シーン
いま20代くらいの世代に,音楽に限らず「60年代のことを知りたい」という強い雰囲気があって,60年代に活躍した人を招いたイヴェントが結構うけています。

音楽で言えば明らかですが,70−80年代で細分化,分業化が進み,いい意味でも悪い意味でもプロフェッショナルになってきて,全体性というものが失われてきたわけです.つまりトータルに音楽というものを見る人が誰もいなくなってしまって

In Those Days...Back In '69 And '70s
- ラジオ番組「All Japan Pop 20」で放送された1969〜70年代の洋楽ヒットチャート(ウィークリー)を記録

 

70年代はヒーロー無き時代と呼ばれ続けた。音楽が時代を変えるとも言わなくなった。そのヒーロー無き時代のヒーローがLED ZEPPELINだった。ただただカッコよかった。彼らの乱痴気騒ぎまでもカッコよかった。ビートルズやボブ・ディランの音楽や若者文化は1969で燃え尽きている。70年代は残り火も捜すのが苦労するほどだった。70年代は敗北感の支配した時代。LED ZEPPELINの音楽は1969年以降の癒しの音楽であったのかもしれない。

 

 

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by ゆう

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