Rock'n Roll BABYLON..kill by durugs overdose,

「ジミーはぼろぼろになっていたよ。」ケネスアンガー

 

ZEPもドラッグとの付き合いは日常的に取り沙汰されていた。ヘロイン中毒で苦闘していたジョン・ボーナムは、アルコールと精神安定剤に依存してしまい、ジミー邸のベッドでこと切れてしまった。ジミーページもイギーポップとへロインを毎晩のように楽しんでいた。それもロックミュージシャンとして見れば、特別な行為ではなかった。ジミーページが、まだギターを握るはるか前から興奮剤や鎮静剤のピルを常用したり、イリーガリーに手を出すミュージシャンはいくらでもいた。ロックにおいては傑出した存在の彼らも、この件については、先駆者と言うわけではない。むしろ、ZEPのメンバーが、音楽を離れれば普通の若者だった証明である。


1967 マリファナ解放運動のロバートプラント(中央左)


ツェッペリンの音楽を心底楽しむためにはドラッグを用いなければなりませんね。のインタビューの言葉に対して

ジョン・ポール・ジョーンズ - そんなことはありません。
僕たちは特定の人たちのために音楽をやっているわけではありません。勿論、僕たちの音楽にしびれて欲しいし、例え誰かがしびれてくれなくても、他の誰かが楽しんでくれるでしょう。ドラッグミュージックやアッシドロックのようなものに基づく駄作は作りません。僕達はコンサートに来てくれる人たちののために演奏するだけです。その人たちの中にはドラッグを使っている人もいるかもしれませんけどね。どんな状態であれ、彼らが本当にツェッペリンの音楽を楽しんでくれると信じています。
(こんな質問が出るほどの状態だった、シンコーミュージック・ロックの伝道者より)

LSDはヘイト・アシュベリーの過激派と結合し、バークレー大学の革命家やSEX伝道師(FREEDOM LEAGUE)などと共に若者文化に浸透して行った。
ケン・キージーは、ジャック・ニコルソン主演の映画『カッコーの巣の上で』の原作者としてよりも、ヒッピー・コミューン“メリー・プランクスターズ”のリーダーとして知られる。彼のメッセージを・・・60年代は終わったのではなく、続いていることを忘れないでください。我々は現在も持続していて、勝ち負けがはっきりするまで戦っているのです。太ったご婦人方がハイになるまで、60年代は続くのです。彼女たちがマリワナを吸うかどうかは本人が決めることだ。けれども意識は我々が高めるのです。ねじれた心で国家を運営してはいけません。外を見て、葉っぱにも意思があるのだ、石にも精神があり、空には血があると言えるようにならなくてはいけません。これは長い過去からインディアンが主張してきたことです。彼らは我々が生き延びるために必要な何かについて目覚めた。人間同士だけでなく、岩にも空にも尊敬の念を持たなくてはならないことを知っているのです。参照 佐野元春事務所/ 扶桑社THIS(年4回発行)


酒瓶を抱いたジャニス・ジョップリン

死ぬと言えばヘロインとLSDが一般的である。1970年にはジャニス・ジョップリンがヘロインの打ち過ぎで死亡した。10月4日、パールのレコーディング中に致死量のヘロインを打ち、ベッドから転落して頭を打って死んだ。


1968年麻薬所持の容疑で連行中のジョンとヨーコ このショックでヨーコは流産してしまう。

ジョンレノンは毎日8時間の演奏なんてピル無しではやって行けないと必要性を説いていた。この状況は60年代ロックが生まれた場所ではどこも似たり寄ったりだった。ロンドンでは酒、スピード、マリワナがあふれる中でR&Bやソウルが氾濫していた。亜硝酸アミル、コカインなども珍重された。人気番組レディー・ステディー・ゴーの出番直前で、出演者が客の前で亜硝酸アミルを開けて関係者を慌てさせることもあった。

1965年ビートルズはMBEの授与式があったバッキンガム宮殿の便所でマリワナを吸ったと公言した。グリニッジビレッジではボブ・ディランと名乗る反体制のフォーク歌手に影響を受けたビートルズはピルからマリワナと瞑想の世界に染まって行った。サンフランシスコでLSD(アッシド)のリアリーたちはビートルズをサイケデリックの新人類と呼んで持ち上げた。(カリフォルニアは1966年までLSDを違法としなかったのでドラッグ文化の中心となった。バーズのデビッド・クロスビーもディノ・ヴァレンチノとアッシドをやっていたと公言した。


女体に食らいつくキース

1977キースとアニタはヘロイン所持で、ハーバー・キャッスル・ホテルをカナダ騎馬警察隊から手入れを受ける。最低でも20年間の禁固刑という重刑に処されることとなる可能性があり、ストーンズ解散の噂まで。(Brown Sugarは、ヘロインとも黒人女性の性器とも言われる。)


1967年 レッドランズで麻薬不法所持

キースとミックは、サセックス州の片田舎でドラッグの不法所持で逮捕され背広で出廷した。チチェスターの市民が見守る中、タバコを吸いながら逃げるように車に乗りこんだ。政府の麻薬撲滅キャンペーンによりロックスターは格好の餌食となった。


手錠のミック 

レッドランズの裁判でストーンズは評判を落とした。ミックは、その直前に「麻薬とポップスター」と言う特集を組んだことに名誉毀損の告訴を起こしていた。彼の主張によるとワールド誌は、その報復に逮捕劇を仕組んだものだと言う。実際にワールド誌は、警察に麻薬が見つかるかもしれないと情報を流したことをみとめざるを得なかった。このことによりイギリス中の非難を浴びることとなった。新聞記者は、警察の犬にならないことが報道に関わるものの倫理なのだ。一方でロックの開放的な楽しさを宣伝し、もう一方ではロックを危険で嫌悪を抱く対象として扱う。日本だって全ての報道に、この原理が今でも成り立っていると言える。


ミック・ジャガー&マリアンヌ・フェースフル

1967年6月開廷されたミックとキースの裁判は、体制対放蕩ロックの対決だった。イタリアで合法的に買ったアンフェタミン4錠と自分の敷地内でマリファナを吸うことを認めた罪で懲役6ヶ月と懲役1年を言い渡された。しかし、結局無罪となって釈放された。そのときの裁判で、事件現場に全裸でいたマリアンヌ・フェースフルがX嬢として矢面にたった。


X嬢と呼ばれたマリアンヌ・フェースフル (美人だけど、小ぶりなオッパイで垂れてると思うが・・・。)


釈放直後のブライアン・ジョーンズ(1968年5月21日 チェルシーのアパートで大麻所持で逮捕された。)

ミックとキースの構想からは少しづつ外れてゆき、レコーディングでもキースが一人でギターをプレイすることが多くなっていく。そんな中、ミックが新しいギタリストを探し始めたことを知ったブライアンは脱退を決意。69年6月8日、「今作っているアルバムは彼らと意見が一致することはないだろう」というコメントし脱退した。ドラッグ漬けで1ヶ月後の7月5日、自宅のプ−ルで水死体で発見される。


1969年12月6日オルタモント 玉突きのキューで暴行の末、殺人をしてしまうヘルスエンジェルス

ストーンズとグレートフルデッドが主催したフリーコンサート。若者達は地べたに座り込みマリファナを吸いながら話し合い、眠り、音楽を聞いた。しかし、それは愛と平和の幻想を木端微塵に打ち砕いた。ミックジャガーの眼前で殺人事件は起きた。オルタモントの悲劇と呼ばれた惨劇、この時をさかいにフリーコンサートは衰退していった。まさに1969年を象徴する出来事だった。


手入れ後の緊急会見のグレートフルデッド

キャプテン・トリップの名で知られるジェリー・ガルシアはLSD漬けの連中を引き連れてローワックスと言うバンド名でLSD大会のようなアッシド・テストに出演した。それがグレートフルデッドの起源となった。グレートフルデッドにブルース魂を教えたビッグペンは27歳で疲れきってアルコール中毒で死んだ。
そのころジョン・レノンはアッシドを数千回して、スピードの力でレコーディングを続けたと告白している。


こんな麻薬が好きな男は居ないと言われたジミ・ヘン


オー、ミステイクと言ったとか。ポールの成田でのマリファナ所持

1966年から1967年はLSDの爆発的猛威がロッカーたちを襲った。「アッシドは音楽的冒険だ。」と語ってエリック・クラプトンは全く古いブルースを弾かなくなった。1966年ローリングストーンズはLSDに音楽的新天地を求めた。サイケデリックなアルバム サタニック・マジェスティーズをだした。しかし、ブライアンは意識もうろうとしてただ片隅に居るだけだった。ドノヴァンは大麻を卒業すると宣言したが逮捕はまのがれなかった。ムーディ・ブルースのメンバーとマリワナや興奮剤をやっていたピート・タウンゼントはLSDに手を出し、ジンジャーベーカーはヘロイン、コカインに走った。

キース・ムーンが死亡したのは1978年9月6日、バディホリーの誕生日の翌日だった。9月6日の晩に少量のコケインを吸ってガールフレンドとバディホリー物語を見た。ポールマッカートニーのパーティに参加して帰った彼は睡眠薬の代りに致死量の2倍のヘミネヴィンを飲んだ。ガールフレンドが起こそうとしたときには既に事切れていた。


ステージで注射器の教習をするルー・リード

アヴェレージ・ホワイト・バンドのロビー・マッキントシュは、パーティの会場でコケインと勘違いしたヘロインの吸引で死亡した。

1976年デイープパープルのトミー・ボーリンは新結成したセイラーとアメリカのツアー中にヘロインを飲みすぎて死亡した。

70年代初頭、フランク・ザッパのマザーズ・オブ・インヴェンションで活躍したリトル・フィートのローウエル・ジョージも1stソロ・アルバム「特別料理」をリリース直後誤ってヘロインを打ちすぎて死亡。しかし、この事件について近親者以外には秘密にされた。


乱痴気騒ぎのストラングラーズ

音なんかどうでも良かった。彼らは演奏をしばしば間違えたり、ミュージシャンとしての基本的なテクニックを欠いていた。しかし、その音楽は指示され、彼らのSEX、ドラッグ、不可解な行動がそのままメッセージとして受け入れられた。パンクが持つメッセージは抑圧された若者たちを熱狂させた。


注射器をカメラの前で(シド)

勝手にしやがれ!が全英1位に、全米ツアーを行ったが失敗し、ツアー終了と同時にバンドも終了。その後シドは何度となく麻薬事件を起こす中、大列車強盗の犯人ロナルド・ピッグスを加えてニュー・セックス・ピストルズの結成 恋人のナンシーをSMプレイの末に刺殺(事故だった説や喧嘩の説もありますが、あの頃の情報をリアルタイムで聞いていたのでこちらが正しいと思います。それでも愛し合った阿部定事件を思い起こします)。あとを追うように、79年2月2日、ヘロイン中毒により死亡。


血まみれのシド


シドが殺人したナンシー

この直後 彼をビジネスに利用したかった連中は高額な費用を払い音楽活動をさせようとした。しかし、自らの死によってそれを拒否してしまった。

ナンシーの母親は、娘の殺された後のインタビューに答えて「麻薬と暴力とSEXでどうしようもない娘だった。あの子はシドに会えて始めて幸せを知ったんだ。」と涙を流した。


シドの亡骸

丁度この頃、シド自身が、ナンシーとSMプレイに使っていたナイフを雑誌プレイヤーで紹介しています。


大きなガンジャを巻くボブ・マーリー

大好きなボブに付いては何を書いたら良いのか?第三世界が生んだ始めてのロックスター。ガンジャを吸いながらレゲーの魔術師は突然襲いかかるようにやってきた。その時の衝撃と言ったら表現できない程の興奮だった。しかし、その世界観はジャマイカの既成の信仰への内容であった。マルクス主義者達のバカ騒ぎが彼の伝説に一役買った。冷静に考察すると、共感できない部分も多いのだがそんなことはどうでも良い。クラプトンが、レゲーをカバーしたことにによる音楽への影響は計り知れないほど。


映画「アイ・ショット・ザ・シェリフ」 40年代の伝説の山賊に扮したアイバンを演じるジミー・クリフ

アイバン(ジミー・クリフ)は西部劇を見ている時に「ヒーローは、最後に死んでしまうんだ。」と教えられる。売れないレゲーミュージシャンが、生きる為にガンジャの売人になり、失望の中で警察官を撃ち殺す。一夜で彼は有名人となった。アイバンの名声を利用する人々に翻弄されながら、憧れのヒーローとなり、「ヒーローは、最後に死んでしまうんだ。」の言葉を思い出しながら短い人生を終えることとなる。レンタルビデオにあるかも・・・・探してください。

 

 

1968年から1969年にかけて若者のロックは激動した。ウッドストックを迎えた余韻の中で、ジミーヘンドリクス、ジャニスジョップリン、ジム・モリソンが死んでしまった。カリフォルニアでは、CS&Nが結成され、ママス&パパスなどの美しいフォークソングがもてはやさた。それと同時にドアーズやアイアン・バタフライなどが席巻した。ニューヨークではアンディ・ウォーホールとルー・リードがアッシドで気勢をあげ、デトロイトでは、MC5やストゥージーズがパンクを作った。 そして、ヒッピー達の敗北は、空騒ぎで社会的メッセージを持たない(良い意味で)アリス・クーパーやキッスに存在価値を与ることとなった。彼らが否定しようがレッド・ツェッペリンも含めてこれら全ては、サイケデリックなドラッグに影響されていた。・・・・ドラッグが、社会の底辺から若者たちを支えていたに違いないからだった。

 

 

 

イリーガリードラッグの使用を肯定するものではありません。

参照:Rock'n Roll BABYLON 白夜書房より
参照:SONICNET
参照:lHONEY FITZ チェックしましょう

 

 

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