最初に、まとめを書きます。 今日、一般には、「飯綱の法」は、太古の開山の頃の飯綱三郎(山の神?)の創始した法と言われている。実際の「飯綱の法」は、13世紀に誕生したが、古くからの信州の「管狐の呪法」の存在とが重なっていると思われる。 管狐とは、東北地方以北に生息する「こえぞいたち」のことらしい。 戦国時代には、修験者の一部の者は、軍につき、祈祷師、呪術師として、重要な役をしていた。陣を構える、また引き払うときには、必ず祈祷をしたようだ。また、諜報、伝令などの活動、さらに、武士としても、活動していた。・・・ ほとんど、「忍者的」です。 伊賀忍者・甲賀忍者は、忍術をさらに精錬させ、プロフェショナル(専門職)として、その技術を各地大名に請われた。 飯綱の法は、伊賀・甲賀にも伝わっていたようで、忍者の術の、奥義であったのだろうか? 参考 「天狗の研究」 知切光歳著 大陸書房 昭和50年発刊 |
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まずは、修験道の始祖 「役ノ行者(えんのぎょうじゃ)」について
役ノ行者については、早くは『日本書紀』に記載され、つづいて『日本霊異記』『今昔物語』と次第に詳しく書かれ、そして誇張されていった。何れの書でも、彼の修行の厳しさと、無双の神適者であることを強調している。役ノ行者は奈良県の葛域山麓の、葛上郡一帯を領有していた高賀茂氏の出生で、父は役大角、従って行者は小角と呼ばれた。高賀茂氏は代々、葛城山の神託を伝える呪術師として朝廷に仕え、父の大角は笛の名手として雅楽の方面でも奉仕していたという。 そうした代々の呪術帥の血を受け継いで育った小角は、幼時から神異を以て知られていた。常に葛城山を自分の庭同様に心得て、峯々谷々の秘処を知りつくし、時には二泊、三泊四泊と山に籠り、帰らないことも多かったという。十七歳の頃にはすでにひとかどの呪術を身につけ、しかも従来の神道的な呪験に加えて、当時流行の仏法を身につけ、孔雀王経を誦して呪験力を会得した。 呪験を得てからの行者は、ほとんど山を住処とし、木の実を食し、木の葉衣を行衣として諸山を巡り、葛城山では山神一言主命を使役し、河内生駒山では二鬼を折伏し、大峯山中では前鬼、後鬼を従えていた。さらに、修練を重ね、熊野那智の滝に打たれて思念を擬らした。雲に乗り、水をくぐるはもとより、その通力は究まるところを知らなかったという。その間、日本全国の霊山を巡峯したといわれる。
信州の修験者飯綱山千日太夫 とは?
修験道の場に、「飯綱の法」を、浸透普及させたのが、飯綱二十法の創始、飯綱山千日太夫である。 千日太夫は代々世襲の家であり、武田信玄が弘治三年(1557年)、大久保長安が慶長九年(1604年)に、千日太夫に下附した社筍安堵状は、初代の千日豊前に与えたものでないことは確かで、恐らく四、五代は代替りしているであろう。
天福元年(1233年)、水内郡荻野の城主 伊藤豊前守忠縄(飯綱山千日太夫) が、飯綱明神の神託を蒙ったとして、山頂に飯綱神(飯綱山の神)を祀り、大願を発して五穀を断ち、山菜、木の実を食して千日の間、祈念を凝らし、神通自在、不老長生の通力を得て下山し、修験道場を開いた。世人これを千日豊前と称し、飯綱の大天狗として怖れ敬った。つづいて息子の次郎太夫盛綱もまた、飯綱千日の荒行を修して神通を得、長寿を得た。
千日豊前は応永七年(1400年)まで在世したという。父子二代の千日行者が、行験によって会得した神通と荒行によって組立てた「飯綱の法」とは、一種独得の超能力を生む行法であったらしい。この父子二代にわたっての、天狗道の実技者が、鎌倉末期から室町時代を通じて、少なくとも二百年以上(実は三代四代の千日太夫も同じく千日行を行じたから、戦国末期までつづいている) の間、生身の身体(実在の人として)で道場を支配した。その荒行と「飯綱の法」の奇験は諸山に鳴り響き、より以上の行力習得を目指して、諸山の行者たちが、我も我もと飯綱道場に参集したと思われる。その中に京都愛宕山の「愛宕の法」に通達した呪術者の一群もあったであろう。愛宕の法は印度の妖巫「ダキ二天の法」を加味した狐を使う妖術である。
千日豊前の創始した飯縄の法は、三年にわたる山籠りの体験により、山霊の啓示によって体得した霊力、山中跋渉と荒行によって鍛錬した体力、忍耐力、軽捷俊敏な身のこなし、跳躍、走法、木登り、岩登り、山中のあらゆる物と同化する隠形、あるいは若干の飛翔力、如えて山気と融合する超能力、天文、星占、透視、合気道等々、すべて体験に基づく天狗道の実技を主体とした、山育ちの者でなければ到り得ない行法であった。そこへ、祈祷、調伏などの愛宕の法に習熟した呪術者が来り加わって、法験を加味した。 愛宕の法と飯綱の法を結びつける煤体は狐妖であったと見る。愛宕の法は、タキニ天の使う「狐」を用いる呪術であり、これと結びついたのは、信州地方には、古くから、「管狐(くだきつね)」を使う呪術があったからと思われる。
イタチより小さい「管狐」とは、「木曽路名所図会」に出ている「山神えのころ」と同じ獣らしい。「木曾深山にこれあり。形猫の子の如くにして少し大なり。頭リスに似て、短尾い脚、毛色あるいは淡白く、あるいは淡黄にして腹の下白し。人を見て篤かず、三四疋ずつ群をなし、十月初雪の後、山中に入れば傍に来る。敢て捕えず、これを捕らうれば山神たたりをなすという」
「信州の管狐」といって、竹の節の間に入れてかこい、呪術師が巫を行なうという伝えが、古くからあった。 飯綱の法が、土俗信仰の管狐を採り入れることは、当然の稚移であったろう。これに愛宕の呪術師たちが、ダキニ呪法を結びつけた。この後、飯綱の法は、かえって京都に逆輸入するに到るまで発展していった。応仁の乱の火付役の一人である細川勝元の長子、細川政元が、愛宕の法の使い手として、気味悪がられていたことは、「応仁記」などで有名である。時代が下って戦国末期の関白九条植通は、同じ呪術を習得しながら、飯綱の法を習ったと称したことは「大日本史」にも載っている。
飯綱の法は千日豊前から興った呪法であるが、一般には、飯綱三郎以来、つまり、開山の山の神以来と言われている。
飯綱三郎は、日本八天狗(鞍馬山僧正坊、愛宕山太郎坊、大峯前鬼、比良山次郎坊、飯綱三郎、彦山豊前坊、大山伯しゃ坊、白峯相模坊飯綱三郎)の一人である。飯綱三郎(伊都奈三郎)は、「戸隠山流記」には、「日本第三の天狗」とある。飯綱三郎は、中部から関東、東北にかけて、飯綱系呪法の総帥とされている。 流布された天狗像には、白狐に乗った天狗像が非常に多い。これが飯綱系の天狗で、秋葉、道了、高尾、加波山など、みな孤に乗っている。 飯綱三郎の前身については、山岳行者説、あるいは山岳行者の流を汲む学問行者説などがあるが、古くからの山神説もある。 ちなみに飯綱三郎は古い天狗で、当時はまだ「飯綱の法」はなかった。飯綱の法は、飯綱山の千日豊前から興ったもので、戸隠修験とは別の法である。
戸隠連山は、高妻山(2332m)、乙妻山(2315m)が、最高峰で、ノコギリの歯のように尖った岩盤が並び立つ。戸隠山は、1904m、飯綱山は、1917mである。戸隠連山では、かつて幾多の行者が、籠山練行した行場が、百ヶ所以上ある。あまりの荒行のため、命を落とした行者が幾人もある。戸隠回峯は、吉野の大峯回峯以上の難行といわれた。
戸隠山は天の岩戸を押し開いた手力雄命(たぢからおのみこと)が、投げ捨てた岩の扉が落ちた所といわれ、手力雄命を祀る。もうひとつの九頭竜権現は地主神だったらしい。 戸隠と飯綱の間は飯綱ッ原と呼ばれて、昔は魔所とされていた。文徳帝の嘉祥三年(850年)、学問行者が飯綱山での練行を終え、峯伝いに戸隠に移り、初代の別当職に就いたという。
戸隠の奥行場は、関西では見られない荒っぼい行場で、普通の行者ではとうてい堪え切れないような荒行をつづけたという。それだけに成就した行者の行験は絶妙とされている。
飯綱山は、昔は、「飯砂山」と書いた。山中に、天狗の麦飯といわれる、「食用になる土の堆積層」があった。木の葉や木の実が、堆積し、何年もかかって、土になりかけたその層が、土中の運気、風雨、温暖などにより、温譲され、食べれる土となる。信州には、このような層をもつところが多く、天然記念物に指定されている。形は、小豆大の粒状で褐色、栄養分は、微弱だそうだが、蒸して食べると、一応腹はふくれる。飢饉のときには、ふもとの住民は、争って掘り採ったそうだ。飯綱山千日太夫は、山にこもって、この天狗の麦飯、山菜(草)、木の実、薬草などを食べていたと思われる。 後年、飯綱修験は、特別の呪法を創始し、狐を使い、通力に優れ、身体軽捷を以って鳴った。
以上は、「天狗の研究」 知切光歳著 大陸書房 昭和50年発刊 から引用しました。
その後、中央〜北アジアのシャーマニズム関連の本「シャーマニズムの世界」に、いたちなどの小動物を使う呪術があったという記載が見えた。「管狐の呪法」は、その系統かもしれない。
山口正之著 「忍者の生活」の中で、「忍術の神さま」として「飯綱権現」が紹介されていた。
甲賀忍学者 大原数馬著「甲陽軍鑑的流」の中で、「雄雌の鹿の皮を、亀の甲羅の黒焼きを混ぜたノリで貼り合わせ、これを飯綱権現の神前に供え、3月2日から5月5日まで、「忍術を授けたまえ」と祈り念ずる」との記述があった。
以下は、小学館 国語大辞典を参考にしました。