私の「岡本太郎」
 
最終更新 2012年11月

 2011年は、岡本太郎の生誕100年ということで、テレビなどから、岡本太郎さんのいろんな情報が入ってきました。

 「岡本太郎」という人物・存在は、自然発生的にあったものではなく、つくりあげていったんだ と思います。 たしか、敏子さんの言葉だったかな、「太郎は、太郎をつくっていった」。

 

     

〜 以下は、「岡本太郎 歓喜」から
の転載・引用です。

私の感想は、「私見」としました。


 「今日の芸術は、うまくあってはならない。
きれいであってはならない。
ここちよくあってはならない。」


私見・・・太郎氏の有名な言葉ですが、「うまくあること、きれいであること、ここちよいこと」が、良いことであるという「我々の常識」を履がえそうとしている。では、どうあればいいのか。 ・・・それが、創造であり、答えはない。賞賛を求めるのか、無名のまま死んでいくのか。自分に賭けるしかない。


 生きる瞬間、瞬間に絶望がある。絶望は空しい。しかし絶望のない人生も空しいのだ。絶望は、存在を暗くおおうのか。誰でも絶望をマイナスに考える。だが、逆に強烈なプラスに転換しなければならない。絶望こそ孤独のなかの、人間的祭りである。私は絶望を、新しい色で塗り、きりひらいて行く。絶望を彩ること、それが芸術だ。絶望するとき、あたりがくろぐろと淀む。その虚しさを抱きながら、私はまったく反対の世界をひらくのだ。絶望のブルー。眼の前に、透明なブルーが流れている。そしてその向こうに、紫のニュアンスがすっと切り抜ける。そして、キラツと莫赤な緑がひらめき、そのなかを舞うのである。それが、絶望の色。リズム。

私見・・・新しい道を行かんとすれば、限界を知って、絶望するときもあるが、その絶望の壁を突き抜けることで、新しい創造がある。絶望とは、自分の限界に突き当たっているときであり、そこを超えれば、新しい自分を開拓できるのだ。「人間的祭り」とはどういう意味だろう。

 「挫折を乗り越えた先にこそ、希望はある」 「行き詰ったときこそ、成長のチャンス」 という言葉と同じ意であると思うが、色彩を扱う太郎氏の表現であろう。太郎氏は、常に絶望と闘っていたのかもしれない。

 我々は、「ハッピー」 「幸福感」を求めているが、そうではなく、「絶望」に向かっていくべきなのか。もちろん、小さな絶望もあれば、耐えられないような絶望もあるだろうが、絶望こそ、向上させてくれる向かい風か。


 だれでも、青春の日、人生にはじめてまともにぶつかる瞬間がある。そのとき、ふと浮かびあがってくる異様な映像に戦慄する。それが自分自身の姿であることに驚くのだ。それはいわゆる性格とか、人格とかいうような固定したものではない。いわば自分自身の運命といったらいいだろうか。 自分自身との対面。考えようによっては、きわめて不幸な、意識の瞬間だが。 そのとき人は己れを決意しなければならない。人間誕生の一瞬である。 それからは生涯を通じて、決意した自分に絶望的に賭けるのだ。変節してはならない。精神は以後、不変であり、年をとらない。ひたすら、透明に、みがかれるだけだ。 もちろん貫くには、瞬間、瞬間、待ちうける膨大な障害がある。それはこちらをねじ此げ、挫折させ、放棄させようとする。だが、そのようなマイナスは、それと徹底的に対決することによって自分を豊かにし、純化し、深める、いわば触蝶であるにすぎず、そのたびに己れは太く、強くなるのだ。どんなことがあっても、自分がまちがっていたとか、心をいれかえるとか、そういう卑しい変節をすべきではない。一見、謙虚に見えて、それはごま化しであるにすぎないのだ。

私見・・・「精神は以後、不変であり、年をとらない。ひたすら、透明に、みがかれるだけだ。」

 強烈な言葉だ。

 精神は、どのようにもなれるだろう。もし、肉体が老化しなかったら、精神は、永遠に若返っていける?


 軍隊生活四年。収容所での一年。あの五年間、私は冷凍されていたような気がする。わが人生で、あれほど空しかったことはない。

 私はつくづく考えた。自分を特殊視し、なにか運命がひらかれるかと、空しく期待するのがここではどんなに無意味であるか。そんな逃げ道を考えたり、弱気になったら、オレは本当にダメになってしまう。ぱかばかしいほど不合理だが、しかしぶつかってきたこの運命に正面から戦いを挑んでゆくほかはない。でなければ、滅亡するだけだ。そのうちに新しい集合教育が始まった。私はただの兵隊になることに腹をきめた。
 以来、私に変なことをしたら、だれでも構わず、いつでもこいと強気に構えた。不潔なやつをドナリつけ、にらみつけた。ふしぎなもので、そのほうがかえって親しまれ、人気が集まる。それはまた救いでもあった。

 兵隊を特別訓練する係に東京帝国大学哲学科出身の、いわばインテリ将校がいた。士官学校出の生粋の軍人よりも、かえって軍人ぶって残酷なしごきをやったものだ。私はそれに抵抗して、何を質問されても「解りません。」と突っぱねた。そのために、血みどろになぐられた。
 「四番目主義」 はその象徴的行為だ。
 夜、就寝前、突然班長の命令が響きわたる。「下士官室に集合ッ。」さあはじまった。胸のつまる思いで、分隊の十数名がみな薄暗い部屋に入って整列する。淋しい石油ランプのまたたき。「一列に並べ。貴様らの今日のザマは何だッ。一人一人、名乗って出て来い。」 班長は身構える。そして順々に出て行く初年兵を力まかせに引っぱたく。倒れる。うなる。一人。二人。・・・私はそのころ決意していた。調子の出て来る四番目が一番強烈だ。だから私は四番目に出る。このような空しい、どうにもならない中にいて、弱気になって逃げようとしたら、絶対に状況に負けてしまう。逆に、挑むのだ。無目的に、まったく意味のない挑み。それこそが私の生きる筋だった。

私見・・・まったく意味のない挑み、自分の臆病を突き抜けるということか、正義を貫くという、まったく得にならないことだが、もっとも崇高な生き様だ とも思う。

夜明け

私見・・・妖怪ども?が、うごめいている、あるいは、縦横無尽に飛び交っているようにも見える。
なんとも不気味な光景だ。
そして、それらは、もうすぐ一瞬にして、黄金の歓喜(日の出)へと爆発するのか。

 「芸術は爆発だ」という言葉が流行語になった。爆発などというと、ドカーンと大きな音がして、物が飛び散ったり、血が流れる暴力的なイメージを抱かれるかもしれない。が、私のいう爆発はそんなのではない。音もなく、おどろおどろしい残骸もなく、ぱーっと宇宙に放射する、無償、無目的に。色でない色、形でない形で。全生命が瞬間に開ききることが爆発なのだ。

私見・・・これは、そのままに、解りやすい言葉ですね。


 芸術は呪術である。人間生命の根源的渾沌を、もっとも明快な形でつき出す。人の姿を映すのに鏡があるように、精神を逆手にとって呪縛するのが芸術なのだ。


 知的、政治的であるがために、かえって歴史的にズレてしまった高度な宗教よりも、私は原始宗教の絶対的であり、無邪気な、根源的感動の方を信用するし、そこに問題をぶつけたい。そこには人間本来の生命力がある。そして自然と人間との、もっとも緊張した対立と融合がある。


 一日、「伝統芸術の会」に誘いを受けた。
 その日はお茶がテーマで、利休の墓のある大徳寺に、京都の知識人たちが集まるのだという。行ってみると、お茶席に、年配の男女をまじえた三十人ばかりの人たちが、互いに席を譲りあったりして、ひどくお行儀がいい。
 一応、専門家からお茶の歴史や精神についての説明があった後、討論に入った。場所がらを心得て、おとなしく、黙って拝聴していたが、そのうちに意見をもとめられた。

 お茶の作法もお茶室も結構だけれど、何といっても時代ばなれがしている。せっかくお茶の味はすばらしいのに、あんな固くるしい約束ごとで、現代生活にひろがっていかないんじゃつまらない ということを話した。別に意見ではない。当たり前の、現代人としての実感である。
 実際京都では宿についても、普通の家をちょっと訪問しても、まずお薄一服だが、東京あたりの生活のテンポと雰囲気の中で誰があんなことをやれるだろう。ごく特殊な人のお道楽になってしまう。お茶道も文化財保護の意味でのこすのはいいかもしれないけれど、芸術としてなら、もう少し新しい時代に即したやりようもありそうなものだ。創造性のなさ、無気力    といって声を切ったとたんに、発言があった。遅れてきて、後ろの方に席をしめた年配の紳士。大学の文学部教授だと後で聞いた。私だとは気がつかなかったらしい。いささか心得た高飛車な調子で、

 「只今のご意見には異議がある。お茶などというものは、その道に十年精通してみなければ解るものではありません。ちょっとのぞいたくらいで、不キンシンなことを言うべきではないと思う。」

 お定まりのテだ。使い古された文句だが、みんなこれでヘエッと引き下がってしまう。ところが、相手が私だったから、具合が悪かった。

 「そりや、おかしい。そんなこと言うなら、今僕の言った意味がお解りになるには、あなたは僕を十年やらなくちゃならないってことになる。」 

 つつましやかな座に、一瞬、笑いがおこつた。すべて十年の修行がいるとしたら、いったい芸術家や評論家はどういうことになるんだろう。たとえば百姓を描くのには、十年畠を耕さなきやダメだとか、小説家がオメカケさんを書こうとしたら、オメカケさんにならなくちゃ、なんて珍無類だ。
  批判だってシンラバンショウあらゆることに向けられる。それは人間の情熱だ。しかしいまのデンでいったら、身体が何万あったって足りやしない。つまり何ごともすべきじやない、言うべきじやないってことになる。しかも、一つことだけに十年くい下っている間に、すべての現実は進んでしまう。それじゃ世の中に追いつけっこない。ならもういっそのことすべて諦めて、墓石の下にでももぐり込んじゃった方がいい。

 こんなことをくどくいったのは、芸道社会に限らず、とかくこぅいう人たちは他愛のないエセ論理で素人をオドカシ、芸術の問題をそらしてしまうからだ。
 私はけっしてそうは思わない。まったくの素人がお茶について発言しなきやいけないのだ。なまじその道に苦労した目は、あぶない。知らずにゆがんで、平気でにぶってる。素人が素直に直観で見ぬくものが、案外本質であり、尊い。お茶が芸術であるならば、そのような素人を相手としてこそ、新鮮に生かされていくんであって、もし玄人だけでいいんなら、こんな会をやる意味もないじゃないか。論理だ。きわめて明解にボンボコいったら、相手はいつの間にか、席をけって? 帰ってしまっていた。


 ”自由とは認識された必然性である“   マルキシストの常套語である。しかしこれは嘘だ。 必然に対して、無意味にノンと言う、言い得ることが自由なのだ。  それは素朴な否定ではない。よりたくましい、高次な現実肯定の弁証法、創造である。

私見・・・いろいろ考えてみたが、ようは、「意味なく、深くも考えずに、ノー と言えることが自由ということ のようだ。「ノー」と言えない雰囲気は、マズイよ。もっと言えば、お互い気楽に、「ノー」と言い合えれば、いいですね。そこから始まるんではないでしょうか?

Non nonという相手を認めること、これは、基本かも。

「イエス」と言われれば、気持ちがいいが、「嘘や下心」があるかもしれない。


感想 ・・・ NHKテレビで、生誕100年ということで、ドラマをやっていました。敏子さんからみた太郎さん。

太郎氏も亡くなり、敏子さんも亡くなりました。ご冥福をお祈りいたします。