2011年は、岡本太郎の生誕100年ということで、テレビなどから、岡本太郎さんのいろんな情報が入ってきました。 「岡本太郎」という人物・存在は、自然発生的にあったものではなく、つくりあげていったんだ と思います。 たしか、敏子さんの言葉だったかな、「太郎は、太郎をつくっていった」。
「今日の芸術は、うまくあってはならない。
生きる瞬間、瞬間に絶望がある。絶望は空しい。しかし絶望のない人生も空しいのだ。絶望は、存在を暗くおおうのか。誰でも絶望をマイナスに考える。だが、逆に強烈なプラスに転換しなければならない。絶望こそ孤独のなかの、人間的祭りである。私は絶望を、新しい色で塗り、きりひらいて行く。絶望を彩ること、それが芸術だ。絶望するとき、あたりがくろぐろと淀む。その虚しさを抱きながら、私はまったく反対の世界をひらくのだ。絶望のブルー。眼の前に、透明なブルーが流れている。そしてその向こうに、紫のニュアンスがすっと切り抜ける。そして、キラツと莫赤な緑がひらめき、そのなかを舞うのである。それが、絶望の色。リズム。 私見・・・新しい道を行かんとすれば、限界を知って、絶望するときもあるが、その絶望の壁を突き抜けることで、新しい創造がある。絶望とは、自分の限界に突き当たっているときであり、そこを超えれば、新しい自分を開拓できるのだ。「人間的祭り」とはどういう意味だろう。 「挫折を乗り越えた先にこそ、希望はある」 「行き詰ったときこそ、成長のチャンス」 という言葉と同じ意であると思うが、色彩を扱う太郎氏の表現であろう。太郎氏は、常に絶望と闘っていたのかもしれない。 我々は、「ハッピー」 「幸福感」を求めているが、そうではなく、「絶望」に向かっていくべきなのか。もちろん、小さな絶望もあれば、耐えられないような絶望もあるだろうが、絶望こそ、向上させてくれる向かい風か。 だれでも、青春の日、人生にはじめてまともにぶつかる瞬間がある。そのとき、ふと浮かびあがってくる異様な映像に戦慄する。それが自分自身の姿であることに驚くのだ。それはいわゆる性格とか、人格とかいうような固定したものではない。いわば自分自身の運命といったらいいだろうか。 自分自身との対面。考えようによっては、きわめて不幸な、意識の瞬間だが。 そのとき人は己れを決意しなければならない。人間誕生の一瞬である。 それからは生涯を通じて、決意した自分に絶望的に賭けるのだ。変節してはならない。精神は以後、不変であり、年をとらない。ひたすら、透明に、みがかれるだけだ。 もちろん貫くには、瞬間、瞬間、待ちうける膨大な障害がある。それはこちらをねじ此げ、挫折させ、放棄させようとする。だが、そのようなマイナスは、それと徹底的に対決することによって自分を豊かにし、純化し、深める、いわば触蝶であるにすぎず、そのたびに己れは太く、強くなるのだ。どんなことがあっても、自分がまちがっていたとか、心をいれかえるとか、そういう卑しい変節をすべきではない。一見、謙虚に見えて、それはごま化しであるにすぎないのだ。 私見・・・「精神は以後、不変であり、年をとらない。ひたすら、透明に、みがかれるだけだ。」 強烈な言葉だ。 精神は、どのようにもなれるだろう。もし、肉体が老化しなかったら、精神は、永遠に若返っていける?
軍隊生活四年。収容所での一年。あの五年間、私は冷凍されていたような気がする。わが人生で、あれほど空しかったことはない。 私はつくづく考えた。自分を特殊視し、なにか運命がひらかれるかと、空しく期待するのがここではどんなに無意味であるか。そんな逃げ道を考えたり、弱気になったら、オレは本当にダメになってしまう。ぱかばかしいほど不合理だが、しかしぶつかってきたこの運命に正面から戦いを挑んでゆくほかはない。でなければ、滅亡するだけだ。そのうちに新しい集合教育が始まった。私はただの兵隊になることに腹をきめた。 兵隊を特別訓練する係に東京帝国大学哲学科出身の、いわばインテリ将校がいた。士官学校出の生粋の軍人よりも、かえって軍人ぶって残酷なしごきをやったものだ。私はそれに抵抗して、何を質問されても「解りません。」と突っぱねた。そのために、血みどろになぐられた。 私見・・・まったく意味のない挑み、自分の臆病を突き抜けるということか、正義を貫くという、まったく得にならないことだが、もっとも崇高な生き様だ とも思う。 夜明け 私見・・・妖怪ども?が、うごめいている、あるいは、縦横無尽に飛び交っているようにも見える。 「芸術は爆発だ」という言葉が流行語になった。爆発などというと、ドカーンと大きな音がして、物が飛び散ったり、血が流れる暴力的なイメージを抱かれるかもしれない。が、私のいう爆発はそんなのではない。音もなく、おどろおどろしい残骸もなく、ぱーっと宇宙に放射する、無償、無目的に。色でない色、形でない形で。全生命が瞬間に開ききることが爆発なのだ。 私見・・・これは、そのままに、解りやすい言葉ですね。 芸術は呪術である。人間生命の根源的渾沌を、もっとも明快な形でつき出す。人の姿を映すのに鏡があるように、精神を逆手にとって呪縛するのが芸術なのだ。 知的、政治的であるがために、かえって歴史的にズレてしまった高度な宗教よりも、私は原始宗教の絶対的であり、無邪気な、根源的感動の方を信用するし、そこに問題をぶつけたい。そこには人間本来の生命力がある。そして自然と人間との、もっとも緊張した対立と融合がある。 一日、「伝統芸術の会」に誘いを受けた。 お茶の作法もお茶室も結構だけれど、何といっても時代ばなれがしている。せっかくお茶の味はすばらしいのに、あんな固くるしい約束ごとで、現代生活にひろがっていかないんじゃつまらない ということを話した。別に意見ではない。当たり前の、現代人としての実感である。 「只今のご意見には異議がある。お茶などというものは、その道に十年精通してみなければ解るものではありません。ちょっとのぞいたくらいで、不キンシンなことを言うべきではないと思う。」 お定まりのテだ。使い古された文句だが、みんなこれでヘエッと引き下がってしまう。ところが、相手が私だったから、具合が悪かった。 「そりや、おかしい。そんなこと言うなら、今僕の言った意味がお解りになるには、あなたは僕を十年やらなくちゃならないってことになる。」 つつましやかな座に、一瞬、笑いがおこつた。すべて十年の修行がいるとしたら、いったい芸術家や評論家はどういうことになるんだろう。たとえば百姓を描くのには、十年畠を耕さなきやダメだとか、小説家がオメカケさんを書こうとしたら、オメカケさんにならなくちゃ、なんて珍無類だ。 こんなことをくどくいったのは、芸道社会に限らず、とかくこぅいう人たちは他愛のないエセ論理で素人をオドカシ、芸術の問題をそらしてしまうからだ。 ”自由とは認識された必然性である“ マルキシストの常套語である。しかしこれは嘘だ。 必然に対して、無意味にノンと言う、言い得ることが自由なのだ。 それは素朴な否定ではない。よりたくましい、高次な現実肯定の弁証法、創造である。 私見・・・いろいろ考えてみたが、ようは、「意味なく、深くも考えずに、ノー と言えることが自由ということ のようだ。「ノー」と言えない雰囲気は、マズイよ。もっと言えば、お互い気楽に、「ノー」と言い合えれば、いいですね。そこから始まるんではないでしょうか? 「イエス」と言われれば、気持ちがいいが、「嘘や下心」があるかもしれない。 感想 ・・・ NHKテレビで、生誕100年ということで、ドラマをやっていました。敏子さんからみた太郎さん。 太郎氏も亡くなり、敏子さんも亡くなりました。ご冥福をお祈りいたします。 |