心境小説、歌詞
歌の歌詞を考える時、考える前に、自分のことを考えてしまうと、歌詞の筆が進まなくなります。自分のたいしたことのない人生を考えてしまったら、歌詞など出ないんです。かといって自分の全く体験していないことを書く事も難しい。その時私は瞑想して、体験したとかしていないとかに捕われない、自然に浮かんだ言葉を歌詞にすることにします。
しかし歌の歌詞を考える時、自分のことを考えてしまうことで歌詞に嘘を感じたり、自分の歌詞ではないと感じたりすることそのものが、純粋なる芸術性から懸け離れているような気がして、そういう平凡な自分が、嫌で嫌でたまらなくなることもあります。
芥川は晩年(といってももうすぐ私もその年になる(愕然))になってようやく心境小説を認めた、ということを聞いた事があります。芥川は晩年になるまで心境小説は否定していたそうです。なぜなら、芸術(特に文に関わる芸術)というのは「作者の体験」を披露するものではなく、虚構のものであって、もちろん作者という人間が体験経験し成長したことによって芸術作品は生み出されるものであるが、体験そのものを文にすることは芸術ではない。という考えです。作品そのものが、経験談や心境であってはならない、ということですか。
芸術を生み出す人間が様々な人生経験をし個性豊かな作品をつくり出して行く、ということと、経験そのものを作品にすることとは、違う、ということを芥川は言いたかったのだろうか。しかし芥川は晩年、心境小説も一つの芸術だと思うように変化していったそうです。
私は芥川ほど高尚な考えは浮かばないし芥川は日本文学の新しい形の先駆者だったから様々な悩みや考えが浮かんだだろうと思います。
今では私小説、心境小説に芸術性がないというのももはや違うし、おのずと作者自身の人間性が現れてくる作品そのものも、やっぱり芸術の一つだろうと思います。
結局何を言いたいのかね、チミは(笑)。自分が嫌になることはこれからもいつでもあることだろうと思うので、自分の表現はこれだ、と、今は気持ちのおもむくままに書く、そう、思いました。