もっと高く!人間は月へ行くぞ!もっと高く!
(NYタイムズマガジン1969年7月13日号に掲載)
kurt vonnegut
兄のバーナードはかつてケープケネディから宇宙船が打ち上げられるのを見たあと、わたしに言った、「なあ、あそこで大丈夫なら、全部成功したも同然だよ」あれはほとんど10億ドルのスリルだった、と兄は言った。特にあの轟音は。
『轟音。』
「大した仕掛け花火だ!」と兄は言った。「地球が揺れたぞ!」二人とも相当な年だから、花火に関しては豊富な実地経験を持っている。兄弟とも、通信販売や近所のお店でよく花火を買ったものだ−−−線香花火(レディースフィンガー)、空中魚雷(エリアルサリュート)、炸裂弾(チェリーボム)、黒んぼいじめ(ニガーチェーサー)。
『黒んぼいじめ(ニガーチェーサー)。』
ケープケネディーの轟音について兄が話したことは、わたしの心のなかに子供っぽい反応を起こす引き金になった。「へえ!」とわたしは言った。「そんな音なら是非とも聞いてみたいな」
しかし、わたしは一度もそれを聞いたことがない−−−1ドル銀貨大のテレビスピーカーを通した音を除けば。打ち上げ現場への招待状をNASAからせしめるところまでいったのに、都合が悪くて出かけることができなかった。しかし、招待状に合わせて、わたしはアメリカ人と宇宙とを祝賀するいろいろな無料出版物を受け取る資格を与えられた。これまでのところただで頂戴できた最上のものは、「カメラを持って宇宙を探検」という、この世離れしたカラー写真の本である。それはいま、わたしの宇宙参考書の棚で、パトリシア・ローバーの「惑星と恒星を調べて見る本」(ランダムハウス社)のすぐ横に立っている。
『調べて見る。』
ミス・ローバーは子供向けに書いている。その語り口をちょっとお目にかけよう。
わたしたちは宇宙を飛行しています。わたしたちの飛行船は地球という名前で、太陽のまわりの軌道を時速10万8000キロで飛んでいます。この地球という宇宙船は太陽の周囲を回りながら、自分でもこまのように回転しています。太陽は恒星です。
わたしがもし酔っ払っていたら、この本のことを大声で宣伝して回るかもしれない。あらゆる地球人は、まぎれもなくわたしの愛する宇宙飛行士仲間なのだ。
『愛する。』
ジェームズ・E・ウェッブはそれほど友好的ではない。彼は国家を念頭に置いている。勝つ国あり、負ける国あり。彼はそのことを「カメラを持って宇宙を探検」の序文のなかで言っている。
歴史のあらゆる過程を通じて、新しい環境を支配すること、あるいは主要な新しい科学技術を支配すること、あるいはわれわれが現在宇宙開発で見るとおり、その両者の結合は、国家の未来に−−−すなわち、国家の相対的な力と安全性とに、国際関係に、また国内の政治・経済・社会の諸問題に、また国民大衆が持つさまざまな現実観念に−−−深い影響を及ぼしてきた。
『国民大衆。』
ウェッブ氏は例をひとつもあげていない。そこでわたしは、第一次世界大戦中に海中での戦闘方法を研究していたドイツのことを思い浮かべる。第二次世界大戦中のドイツの驚くべきロケットのことを思い浮かべる。第三次世界大戦におけるあらゆる人間のあらゆることを思い浮かべる。昔のよろいや二輪戦車や火薬のことを、そして、それを使ってあらゆる国が、また別の国が、一時的に海面を制覇した水上浮遊砲座のことを思い浮かべる。
わたしはスペイン人による<新世界>の征服を思い浮かべる。当時ここにはすでに他の百万人の地球人が住んでいたし、少なくとも他の二つの文明が存在していた。わたしは横暴なスペイン人がインディアンに加えた拷問を思い浮かべる。どこに金を隠したかを白状させるために、インディアンを拷問にかけたのだ。
『金。』
わたしはまた、アメリカの白人が、さらってきたアフリカ人を巧妙に用いて南部を支配したことを思い浮かべる。DDTのことも思い浮かべる。
新しい科学技術を利用して新しい環境を支配した実話の大部分は、冷酷さと貪欲さに満ちているとわたしは思う。支配的な国民がいだいてきた現実に関する観念は、振り返ってみると、きまって愚劣な、あるいは独善的なものであった。めだって安全を確保した人間などひとりもいなかった。支配者があっという間に支配の座から落ちた例はいくらでもある。片付けなければならない恐るべき混乱が残り、荒れ果てた風景には、打ちのめされた地球人と彼らの機械が点々と倒れている。
『愚劣。』
アメリカはこれまで宇宙に330億ドルばかりの金を注いできた。われわれはその金を、この地球上の汚らしい植民地を一掃するために用いるべきであった。木星からのおみごとな無線信号の発信源を発見したがっているアーサー・C・クラークじゃあるまいし、宇宙のどこかへ行き着こうとあせる必要など全然ありはしない。といって、われわれがすでに宇宙のどこかへ向かっていることを否定するわけではない。急速に過ぎていく一時間ごとに、この全太陽系はヘラクレス座の球状星団M13に7万キロメートルずつ近づいているのだ。
『球状星団M13.』
アーサー・C・クラークのような輝かしき宇宙崇拝者たちは、巨大な利潤を生む宇宙船商売に従事する何万人もの人々にとっては、もちろん貴重な存在である。クラークはその何万人の自己主張よりも、もっと魅惑的な話をする。彼の文才と彼らの商業的利益とはみごとに一致する。「木星(ジュピター)がかなり暖かく、そのうえ、地球上に生物が発生したとき存在したと信じられる大気とまさしく同種のものに包まれているという事実の発見は、今世紀におけるもっとも重大な生物発見の序曲かもしれない」と、クラークは最近「プレイボーイ」に書いた。
『プレイボーイ』
どこかでキャッシュレジスターがいっせいにチーンと鳴る。
無邪気な宇宙狂がほかにもいる。ハロルド・C・ユアリー博士やハロルド・マサースキー博士などのような科学者、つまり、月のクレーターは衝突によってできたものか、噴火活動によってできたものか、それともその両方か、そうでないとすればなにか、を知ろうと猛烈な好奇心を燃やす人々である。彼らはできることならすぐさま真実を知りたいと望むが、いま知ることは可能である−−−途方もない大金を注ぎ込むならば。納税者から集めた金を。その金はしばしば、(使い古された比喩を用いるなら)ヨブが飼っていた七面鳥より貧しいアメリカの地球人から取り立てられている。
『ヨブ。』
もし最初の月面着陸が万事うまくいったなら、アメリカのあらゆるヨブたちも、あらゆる裕福な人たちも、月から持ち帰る20キログラムの石と砂を買うためにそろって惜しみない大金を拠出した、ということになる。彼らはまた、宇宙計画で重要な役割を演じているわたしの大学友愛会の兄弟を援助したということになるだろう。いつもジャガーXKEを乗り回している男だが。
『XKE。』
われわれは共にコーネル大学でD・U(デルタ・ウプシロンという友愛会の寮友)であった。
『D・U。』
わがフラタニティーブラザーは宇宙計画を心から誇りにしているが、それは当然のことだ(彼はまたフラタニティーのことを誇りにしているが、これは宇宙計画とは全然別のものらしい)。彼はエンジニアであり、いつかの晩わが家で二人してやたらにスティンガー(ブランデーとリキュールのカクテル)を飲んだとき、〈鳥たち(バーズ)〉の製造と発射がいかに正確かつ緻密であるかについて熱弁をふるっていた。そのときわたしはつい、水中で拘束服や金庫や錠のかかった櫃のなかから逃れることによって暮らしを立てていた、あの奇術師ハリー・フーディーニのことを思い浮かべていた。
『水中で』
わたしはスティンガーの勢いで、もしフーディーニに330億ドルの金があったら、彼は当時の最も有能な科学者たちを雇い、自分が乗れるような一種の圧力釜と大きなロケットを発明させ、それを発射させて月に向かっただろう、と言った。
フーディーニがなぜそんなことをするか。なぜなら、彼は使える金が限られていたにもかかわらず、おそらく古今東西で最も偉大なショーマンだったからだ。彼はいつも最善の方法で人々にスリルを与えた。ショーにいのちを賭けたのである。フーディーニは根本的にエンジニアであり、力と勇気と道具と、そしてエンジニアリングによって何度も何度も自分の生命を救ったのだ。
宇宙計画のうち、こういうフーディーニ的な側面だけが地球人の大半−−−愚鈍な連中、落伍者たち、エレベーターボーイや速記者等々−−−の期待に報いてくれる。彼らは月面クレーターの成因について興味を持つほど頭がよくはない。彼らに木星からの無線信号のことを話してみたまえ。たちまち忘れてしまうだろう。彼らが好むのは人々が必ず殺されるようなショーだけだ。
『殺される』
しかも、彼らはそういうショーを見せられるのだ。
愚鈍な地球人VS賢明な地球人について。わたしは長年のあいだに相当な数の科学者と知り合ったが、彼らはしばし愚鈍な人々に劣らず、おたがいの仕事に対して冷淡である。わたしはしばらくのあいだジェネラル・エレクトリック(GE)社付属研究所の広報部員をつとめたが、そのあいだ何回か、ひとりの科学者が新知識に有頂天になって別の科学者の研究室に飛び込むのを見る光栄に浴した。心のなかではアルキメデスよろしく「見つけた!(ユリーカ)見つけた!(ユリーカ)」と大声で叫びながら。
『ユリーカ』
ところが、その大声のすべてを聞かされる科学者のほうは、相手が口を閉ざして立ち去るのを明らかに待ちかねていた。
わたしはときどきGEの科学者たちに、『サイエンティフィック・アメリカン』で見つけた心を踊らせるような記事を読んで聞かせたものだ。当時わたしはこの科学雑誌を毎月欠かさず講読していた。それも仕事の一部だと思っていたのだ−−−遅れをとらない努力も。聞き手のほうは、話題にした記事が当人の研究分野に無関係であると、平気で居眠りをはじめるのであった。バビロニア語で話しかけられたかのように。
だから、わたしの推測では、現代の最も俊敏な科学者でさえ、月だの星だのに直接の関わりがないかぎり、宇宙計画にはかなりうんざりしているのだろう。彼らにとっても、それはひどく金のかかったショービジネスに見えるに違いない。
『ユリーカ』
わたしの兄は雲の物理を研究するにあたって、ある程度は海軍の予算に頼っている。最近兄は同じようにお恵みの金で研究をしている科学者に、百億ドル単位の金が宇宙に投資されているという話をした。その同僚は皮肉たっぷりに言った、「それだけの金がありゃあ、やつらはどう悪く見積もっても神様を見つけられるぜ」
『神様を見つける』
20キログラムの月の石を掘り起こして、なにが手に入るのか。一日伸びれば、借金はつのるだけ。神様(セントピーター)、どうか呼ばないで。呼んでも行けない、のも道理。なにしろ俺の魂は会社で借りた金のかた(アイ・オウ・マイ・ソウル・トウ・デ・カンパニー・ストー)。
『デ・カンパニー・ストー』
NASAが送ってくれた写真集のなかで、地球はとても美しい青とピンクと白の真珠だ。そこには飢えて腹を立てた地球人も、排煙も下水も塵芥も、精巧な兵器も、さっぱり見えない。わたしは先日アパラチア山脈の上を、高度8000メートル、時速800キロで飛んだ。地上の到るところで生命も生活もひどい状態だと言われるが、わたしにはエデンの園のように見えた。はるか上空でポリポリとピーナッツをかじり、ジンをすすっているわたしは、けっこうリッチマンであった。
『エデンの園』
「地球はわれわれの揺りかごであり、われわれはいまやそこから出ようとしている」とアーサー・C・クラークは言う。「そして太陽系はわれわれの幼稚園だ」もちろん、われわれの大部分は、死が宇宙飛行の形をとるのではないかぎり、この揺りかごから絶対に出ようとしないだろう。
ジンはいつでもある。
『ジンならば。』
わたしは巨大なシネラマ映画「2001年宇宙の旅」に出てきた猿人を思い出す。彼らの血走った目、彼らの夜の恐怖を。また彼らがおたがいの頭蓋を叩きつぶすために道具の使い方を習得したことを思い出す。われわれはなるほどシネラマを持ってはいるが、進化の程度から言うと、その段階を大して過ぎてはいないようだ。わたしが「2001年宇宙の旅」を見たその晩、ハーヴァード大学総長ネイザン・ピュージー博士はケンブリッジ市警察の機動隊が学内に入ることを要請し、機動隊はいくつかの頭蓋を叩きつぶした。
『シネラマ』
われわれは幼稚園を見つけるため太陽系の他の部分にほんとうに入りこむ必要があるのか。わたしには疑問だ。この地球上に幼稚園を建てることは、かろうじて可能なのではあるまいか。
無理だろうか。
わたしはいま、自然保護運動に熱心な詩人ジョン・ヘイが書いた本「自然を守るために」(アトランティック・リトル・ブラウン出版)を読んでいる。ジョン・ヘイは、この揺りかごから決して出ようとしないメイン州のハマグリ採りのじいさんのことを描写している。
衛星が四万キロの上空で宇宙を回転しながら、渦巻く雲に覆われた地球の写真を撮っているあいだ、その老人は岩の上に腰を下ろして休む。コンピューターの助けを借りた研究所の秀才たちが彼らの気まぐれな方法を未来に投射するとき、老人は過去を夢見ているかもしれない。科学が太陽の方法を核融合に応用し、人類のために無限のエネルギーを獲得すべく前進しているとき、老人は股をひろげて立ち、頭と背をかがめ、貝掘り熊手で一区画また一区画と万遍なく、一生懸命に掘りつづけるのだ。
『哀れな猿人』
現在のすぐれたSF作家は、かならずしもアーサー・C・クラークほど熱心に木星での幼稚園建設を説いたり、哀れなメイン州の猿人とその貝掘り熊手をはるか遠くに残していけと説いたりはしていない。大物であるアイザック・アシモフは、アメリカのSFがこれまで三つの段階を経て発達したと認めており、いまわれわれはその第三段階にあると言っている。
1.冒険優位
2.科学技術優位
3.社会学優位
わたしもこれが地球人の歴史の予言的なアウトラインであると、希望をもって認めることができる。わたしはその〈社会学〉を広く解釈する。つまり、地球に住む地球人の揺りかご的な諸特性に対する、敬意のこもった、それでいて客観性のある関心、と解釈しているのだ。
『第三段階』
このわたしが住んでいるところ(ケープゴット半島)では、通常のまる一日を通して、宇宙探検を気にかけている人間にはたったひとりも出会わない。格別危険な発射が報道された日に郵便局へ行くと、たまたま集まった人々のあいだでそのニュースが話題になることもあるが、それ以外はいつもお天気の話だ。郵便局でみんながしゃべっていることは、実際には「やあ、こんにちは」の別の表現にすぎない。
『やあ、こんにちは』
もし宇宙船が何日かつづけて飛び、ようやく安全に着水すると、うちの近所の人たちは「ああよかった」というようなことを言うだろう。彼らは、圧力釜で飛び上がったGI刈りの白人スポーツマンが殺されなかったことを、神に感謝するのだ。
興味深いことに、ソ連の宇宙飛行士が無事帰還したときにも、同じような安堵の声が聞かれる。わが隣人たちにとって、亡くなった共産国の宇宙飛行士の名前がベトナムにおける一般的な死体勘定(ボディーカウント)のなかにまぎれ込むことは、その名前が(きょうも何百何十何人のコミュニストが死んだという)勇ましい軍事ニュースのなかにむなしく埋もれてしまうことは、不当に思えるのだろう。
『死体勘定(ボディーカウント)』
「幼年時代のたったひとつの神聖な記憶こそ、おそらく最高の教育だろう」とフョードル・ドストエフスキーは言った。わたしもそう信じている。そしてわたしは、地球人の多くの子供たちが、月面最初の人間の足跡をひとつの神聖な記憶にしてくれることを希望する。われわれには聖なるものが必要だ。われわれが努力しさえすれば、その足跡は、地球人が創造主の測りがたい意図に従って、信じられないほど困難で美しいことを成し遂げたということを意味するものになりえよう。
『足跡』
しかし、その足跡はアメリカにおいて広告のおかげでたちまち俗化するであろう。利潤を追求している多くの会社は、その足跡の名のもとに自社とその製品とを賛美するだろう。足跡は子供たちにとってさえ、またひとつの安っぽい販売戦術を代表するものになるだろう。
『販売戦術』
だが月の足跡は、実際そんなものより上等な足跡なのかもしれない。掛け値なく神聖なものかもしれない。古いことわざにもある、「遠くへ旅をするにも一歩また一歩」と。もしかすると創造主は、われわれがこれまで旅をしてきたよりもはるか遠くまで旅をすることを本気で望んでいるのかもしれない。そしてまた想像主は、われわれの神経組織が絶えずもっと高級なものになることを、ほんとうに欲しているのかもしれない。より高く!(エクセルシア!)
『エクセルシア』
だがわたしはつぎのような素朴な理由から、そうは考えたくない。創造主が明確にあれやこれやを求めていると、思ったり言ったりした地球人たちは、まず例外なく片意地で冷酷であったという理由だ。これはまちがいない。
先日、ひとりの若いアメリカの男性地球人がわが家に立ち寄った。前に読んだわたしの作品のことで話したいことがあると言って。アル中の浮浪者として死んだボストン人のひとり息子で、自分はユダヤ教ではないけれども、なにかを見つけたいのでこれからイスラエルに行くところだ、と言っていた。この青年は、われわれは自分の世代に未来がないと信じている最初の世代だ、とも言った。わたしは前にもそういう表現を聞いたことがあった。
『未来がない』
「アメリカの宇宙計画がこんなに順調だというのに」とわたしはたずねた、「どうしてそんなことが言えるの」
その青年は、宇宙計画を支えている惑星そのものが死にかけているのだから、宇宙計画にも未来はないと答えた。その日、新聞はいっせいに、数十トンだか数百トンだか、とにかく大量の神経ガスを積んだ二隻の老朽リバティー船が大西洋で沈められることを報じてる、と彼は言った。五大湖のうちただひとつきれいであったスペリオル湖は、デュルース市の工場が捨てるタコナイト鉱滓の下水道として利用されている。産業革命以来、大気中の二酸化炭素の量は15パーセントも増えており、これがもっと増えれば地球全体が巨大な温室になり、われわれは丸焼けになってしまう。彼はさらにつづけた。きっと建設されるに違いない弾道弾迎撃ミサイルシステムは、敵のミサイルシステムと力を合わせ、レーダー、人工衛星、コンピューターの統合された驚異的機能を通じて、この地球を一触即発のものすごい一大爆弾に変えてしまうだろう。
『爆弾』
「自分たちの地球についてそんな恐ろしいことをほんとうに信じているのなら、どうしてきみは生きつづけることができるの」とわたしはたずねた。
「その日暮ですよ」と青年は答えた。「僕は旅をする。本を読む」彼は女を連れていなかった。イブなしのアダム。
『イブなしの』
どんな本を読んでいるのかと聞くと、青年はリュックのなかから一冊の本を取り出した。それはガイ・マーキー(1907年生まれの米国のユダヤ教思想家で、元航空士であった)の「天上の音楽」(ホートン・ミフリン、1961年)だった。わたしはその本のことをすでに多少は知っていた。マーキーが時間について述べたつぎのような考えを、わたしの本の一冊に無断拝借したことがあったのだ。
わたしはときどき、人類が生の有限(死の必然)とか無限(生の不滅)とかいう問題を提起するとき、真に重要な点を見逃してきたのではないかと疑問に思う。言い換えれば、生命の有限性そのものが無限の幻想であり、実は永久不滅なのではないか。そして、この人生はわずか数「年」から成っているとしても、その数年こそ真に存在している時間の全てであり、したがって、実際に絶えることは決してありえないのではないか。
わたしはその訪問者に、その本のどこにいちばん感心したか教えてほしいと頼んだ。青年が示した箇所にはこう書いてあった−−−
では、われわれと来たるべき天国とのあいだには幻想的な時間空間しか存在していないのだろうか。当然のことながら、わたしは手を伸ばしてその天国に触れることはできないが、頭でなんとかそれを想像したり、心でその潜在的な可能性を感じたりすることはできる。そしてわたしはその美と秩序を見ることが−−−とりわけ、はっきりと音楽の諸要素を認めることが−−−できる。わたしはほんとうの意味で、妙なる天上の音楽を聞き取ることができる。