譜面台の陰から





                        >演奏の評価について<






 クリスマス会が終わって早一週間が過ぎた。

それぞれ演奏の結果があるわけで、

いろいろな感想が寄せられている。

ここで演奏を終わった後の評価について少しまとめておきたい。

しかし、一人一人の演奏は同じということは絶対になく、

それぞれ違いがあるので一つにまとめて語るのは実際難しい・・・。


 しかし、それにしても自分で演奏しているときのようになぜ人前に出ると弾けないのだろうか。

これは必ず演奏後に出てくる話だ。

答えは極めて簡単でそれが100パーセントできたらプロになりなさいということだ。

ギターを習っている人で99パーセントの人はそんなことはできない・・・。


 普通の人ではまず自己練習が100パーセントとして、

実際に力を最大限に発揮して、

当日の体調も精神状態も良くても75パーセントくらいだろう。

しかし、それも毎回はまず無理で何回かに一回あれば大変な確率といえる。


 実際には、自分で練習していて90パーセント完全に弾けていて、

実際に人前で弾けるのは60パーセントくらいで大満足の結果といえる。


 では、なぜ90パーセントの練習が90パーセントの確率で演奏できないのだろうか。

この大きな原因の一つに人間の保守的性向を理由にあげられると思う。

人間というのは大体一つの環境にいるとそこを安住と感知して、

そこの変化を極力警戒する。

要するに人間というのはそもそも変化には弱い動物だということだ。

その変化に弱い動物である人間は、

一つの環境を受け入れてそこを安住と認識するには、

繰り返しその環境に自分をさらす必要がある。

人間という動物は不思議なもので、

ある一定の期間を過ぎると始め抵抗があった環境でも、

受け入れてしまうとそこはもう安住の地となってしまう。

しかし、今度は一度慣れた環境から出るというのはこれまた大変なこととなる。

一番ひどい形では神経がやられてしまう。


 それほど一つの環境に対して保守的な人間が、

安住の地で練習した90パーセントの練習結果を、

まったく環境の違う不特定多数の目の前で演奏するというのは、

極めて厳しい状況に自らを置くことになる。

そこで発揮される力というのは極めて小さなものとなって当然だと思う。

要するに大人になれば環境の変化に対しては自己防衛本能が強く働き、

身をできるだけ縮め声をひそめ目立たないようにふるまう・・・。

そういう人間の性向とは全く逆の行動をしなければならないのが人前演奏だ。

全く慣れない環境で静かに目立たないように行動しなければならないところで、

自分を最大限表出しなければならない。

しかも最も繊細な動きを要求されるギターという楽器を持ってだ。

これで90パーセントいや100パーセントは不可能だろう。

そしてもっと悪いことにこの防衛本能とは、

大人になれそれだけコントロールできない本能だということだ。


 そういう環境に対しては身を縮めて、

頭の上を通り過ぎるのを待つ体勢になっている、

その中での演奏となるわけだ。

これは酷寒の中、手がかじかんだまま演奏しているのと一緒だろう。

これで90パーセントの実力を90パーセント出せない理由が分かっていただけると思う。


 ここまで読んでいただければいかに自己練習の90パーセントの結果が、

人の目の前になると60パーセントに減ずるか分かると思う。


 しかし、人間というのはよく出来ていて、

ことパニック状態ということに対しては防衛本能が働いて、

その状況は体に確実にインプットされる。

その本能を利用してパニック状態を作り出しその状況をインプットさせる。

そこでの指の動き、脳みその回転数、そこの場の空気感・・・、

すべてインプットされて忘れないようにしようとする。

要するにパニック状況の確定だ。

そこで演奏したギターに対するすべてが確定された記憶となる。


 次に演奏する時はその状況に対して何らかの対策がなされ、

防御本能を押さえて指を働かせようとする。

そこにレッスンという重要なアドバイス機関が存在する。

そこで確実に演奏に対しようとする意思は確たるものになって、

人前で演奏するたびに積み重なっていく。

それはもちろん微々たる物でしかないが、

その前とその後ではまったく違ってくることは確実だ。


 あいまいな演奏技術というのは何もしないとあいまいなままだが、

一つパニックをくぐるとはっきりとした形で自己の中に記憶される。

パニックというのは自己防衛本能を引き出すには最適な方法だろう。

自己防衛本能がある限りパニックを乗り越える意識は常に働く。

乗り越えるたびにそれが上達したということの結果になってかえってくる。


 実際本番の演奏で60パーセントの出来具合というのはかなり微妙な数字だ。

聴いている聴衆と演奏者の間での評価が一番食い違う数字といえる。

70パーセントを超えた演奏というのは、

比較的聴衆と演奏者の間の意見は近い場合が多い。

それでも見解の相違というのがあるから完全に一致するというのは難しいと思うが・・・。


 60パーセントくらいだと以外と演奏した本人には不満が残っている場合が多い。

しかし、面白いもので聞いてるほうの感想は、

これまた意外と本人の感想より高得点である場合が多い。


 この違いはどこから来るのだろうか・・・。

話を聞いていて一番多く感じるのは、

演奏した本人は技術的ミスが大きく心に残るということだ。

練習している時に完成度を高めるために、

一つ一つの音に対してどんどんミクロ的に視野が狭くなっていく。

一つの音のミスもしないようにと神経を尖らせて練習をする。

ここから実際にいくつかの音を弾き間違えると、

もう大変な失敗をしたという意識が黒雲ように頭を駆け巡る。

暗澹たる気分に支配されてしまうのだ・・・。


 しかし、ここでもう少し視野を広げてみよう。

一つの曲というのは音価があり、テンポがあり、リズムがある。

その他、音色なり細かくいろいろな要素から出来ているわけで、

音をいくつか間違えたくらいでは全体に及ぼす影響はかなり小さい。


聴衆というのはその全体を聞いているわけで、

ミスに気がついたとしても全体の流れを感じて聴いているものだ。

60パーセントの出来というのは大体において全体は無難に通ったケースがほとんどだ。

しかし、演奏者というのは音の間違いに神経を尖らせて練習してるわけで、

そこだけが終了後大きくクローズアップされてしまうため、

聴衆と演奏者の結果に対する評価に大きなギャップがうまれてしまう。


 こちらはよく出来たといおうと待ち構えていると、

いきなり悲壮感の漂った一言が本人の口から出てきて、

戸惑ってしまうケースが多々あるパーセンテージといえる。

なにを嘆いてるのか分からないことすらある。


 では、そのボーダーラインの60パーセントを下回る演奏というのは、

どういう状況になった時をいうのだろうか・・・。


 一番大きな原因となるのは演奏が止まってしまった場合がある。

一つの曲の流れというのは自然な時間の流れを形成していて、

この時間の流れが分断されしまったとき人間の気分のなかに不快な圧迫が起こる。


 人間というのは一生を止まることのない時間の流れに乗ってるわけで、

これは止まるということがない。

止まるはずのない時間の流れがある瞬間に途切れると、

受け入れがたい不快な気分が心の中に一気に広がる。


 音楽というのは時間の流れの芸術といわれている。

一度始まると時の流れをリズムで区切り、

音程の変化で高低をつくり、

音価で時間の長短を調節して、

フィーネまで止まることなくない流れを作っていく。


 その流れがある場所で断ち切られると、

聴いている側にある種小さな圧迫と恐怖心が形成されて、

きわめて不安定な記憶となって残ってしまう。

また一部、形の崩れた印象となって終わった後も尾を引いている。

時間の流れの分断というのは、

止まるということがかなり強烈に人間の心理にインパクトを与えるということがわかる。


 その結果、聞き終わった後、その演奏に対する印象は、

厳しい評価が聴衆の中に形成されてしまっている場合がほとんどだ。


 演奏が立ち止まって先に進むことが出来ずに戻って弾く場合も、

時間の逆走ということであるから、

基本的に不快感となって聞き手の印象には残る・・・。


 しかし、ここまでの演奏になると、

なぜそういう演奏になってしまったのか分析が可能になる。

細かくその演奏を一つ一つ検証してみると、

意外なほど納得できる答えが出てくることがほとんどだ。

ようするに修整が可能な場合がほとんどだということだ。

あきらめる必要はまったく無いことがわかる。

分析と修正でかなりの確率で演奏は改善される。

今迄の経験でそのへんはかなりの自信を得ている。


 逆に音を間違ってしまうというのはほとんど分析しても効果が無い。

これはギターという楽器の難しいところで、

フレット楽器の宿命ともいえる。

一つを直しても別の間違いが起こる場合がほとんどだ。


 練習の仕方、暗譜の仕方に難がある場合は別として、

ギター演奏に関してはあまり深く気にする必要は無いようだ。


 ここまで読んでいただくと人間というのは普通の人であれば、

それほど変わらないということが分かる。

同じプロセス、同じ経験を通して習得していくことというのは、

時間の長短があるにしても、

だれでもほとんど同じことだということが分かる。

これは西洋楽器のいいところで和楽器だとそうないかない気がする。


 人前に出て演奏して緊張もなにもしないということになると上達はしないから、

ギターはやめたほうが得策で次のことを考えたほうが賢明だと思うことがある。

人間は何かに取り組む時上達を考えて取り組んでると思う。

上達していくプロセスはほぼ失敗の積み重ねだといっても過言ではないと思う。

発表会での大小の失敗と修復の繰り返しによって、

上達していくということがよくわか手いただけると思う。

上達というのは失敗なくしては成り立たない人間の中の法則だと言ってしまってもいいと思う。

また演奏の評価というのは、

以上までの読んでいただいたことでなされるものだというのがわかっていただけたと思う。


 失敗というのは本人にとって苦いものだ。

だから逆に薬なんだということが言える。

「良薬口に苦し」

失敗を繰り返しながらより高く深く上達してほしいと思うしだいである。






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