譜面台の陰から





                     >人前で演奏するということ<







 毎年恒例のクリスマス会まで一週間となった。

ベテランであってもこのクリスマス会のステージというのはなかなか手ごわいらしい。

左右を人の目に囲まれて演奏するというのはどっちにしても大変の伴う演奏となる。

 長年、発表会やクリスマス会を開催していると、

必ず次のような質問が出る・・・。

「なぜ人前で演奏しないといけないのか」

もちろんいけないという決まりがあるわけではない。

首に縄をつけて引きずってくるというような趣味はこちらにもちろんない。

出演しなければしないでそれでいいのだ、

ただそれまでのことだ。


 では、なぜ先生は人前で演奏することを結構しつこく勧めるのだろうか・・・。

勿論それには理由があるわけで、

なんとなく勧めるているわけではもちろんない。


 ギターに限らず何かを習得するということは、

修得したことをできるだけ自分のものとして、

自在に操り自分を表現したいという欲求は、

習いに来ているだれにも普通にある気持ちだと思う。

おけいこ事というのは自己表現の手段である場合がほとんどだ。

では、なぜ自分の部屋だけで弾いているだけではだめで、

人前で演奏することを勧められるのだろうか・・・。

 
 そこでまず第一に言えることは、

人間というのは頭に取り入れるということと、

体に取り入れるということにはかなり差があるということが一番の理由だ。

どういうことかと言うと、

まず習いに来てギターをどう演奏していくのか説明があると、

頭でまず分析して両手に動きを伝える。

頭から出てきた命令に左右の手の指はできるだけ忠実に従おうとする。

それによって弦を押さえ弦をはじいて曲が演奏されていく。

これで弾けるようになればそれでもうなにも必要ではないのではないだろうか。

実際程度弾けるようになるわけだからそれはそれでいいということになる。

しかし、この段階では実際にはいわゆる身に付いた状態にはならない。

自己を自由に、より的確に表現する状態にはなっていないということだ。

 頭の中というのは一時ファイルのようなもので、

今、演奏が仕上がった曲の動きを長く記憶しておくことができない・・・。

皆さんの経験で、前にしっかり覚えて仕上げた曲が、

半年もたたないうちに演奏できなくなってしまうということが少なからずあると思う。

これもまた愚痴の一つとしてよくレッスンの時によく出る言葉だ。

次の曲を練習すると同時にだいたいは消えてなくなってしまう。

あれだけ練習したのになぜ・・・的な現象だ。

これは当然のことで頭の中というのは先ほど書いたとおりに一時ファイルでしかない。

一時的にということは時間がたてば消えていくものということだ。

何も残らないのであれば時間と金の無駄の金メダリストになりかねない。

 では、これはどこにも残せないのだろうか、

実は長く貯蔵しておける場所が人間にはある。

それは首から下。

からだ全体だ。

これは面積も頭より広いが、

なかなか動きも鈍く物覚えも極め付けで悪い。

しかし、一度しっかりとりこむとなかなか抜けないという特徴がある。

 スケートの天才浅田真央がなぜ際限のない練習を繰り返すのか、

あれだけの天才であれば頭の中では完全に自分の動きもスケートのイメージも出来上がっているはずだ。

しかし、無限を象徴するかのような練習を続けている。

なぜか・・・、

それは体に頭でイメージした動きを覚えさせるために、

繰り返しそのイメージした動作を覚えさせるために練習しているということだろう。

あれほどの天才でも体が覚えるにはそうとうな時間がかかるということだ。

厳しい練習を繰り返さなければならないのは普通の人間となんら変わらない・・・。


 そう考えるみると、

はたして普通の人でしかない我々が体に覚えるのは、

ひとえに不可能ではないかという思いにとらわれてくる。

普通の人というのは天才ではないから当然そう思って普通だ。

では、趣味の範囲でしかない普通の人が、

体で覚えるにはどうしたらいいだろうか・・・。

そのひとつの方法論が発表会でありクリスマス会といえる。

 人間というのはパニック状態におかれると、

その瞬間というのはかなり深く体に刻みこまれるという特徴がある。

赤ん坊から成長して危険と安全を判断できるようになるのは、

この一種パニック状態を経験しながらの積み重ねで、

体が自然と判断していくようになる。


 この体の性質をギターを習得する上で利用できないだろうか・・・。

要するにパニック状態を人工的に作り出して、

その状態にできるだけ鋭敏に体を反応させる。

体にそのパニック状態に対処させるために神経を総動員させる。

そしてその状態の中でギターを演奏させていれば、

体全体はギターを弾くという行為を、

パニックを切り抜ける手段として記憶するのではないだろうか、

このようにパニック状態の中で鋭敏に記憶された状態というのは、

体には長く残っていきやすい記憶となるのではないだろうか・・・。

この状態の積み重ねによって、

ギターを弾くという行為を体がしっかり感覚として取り入れ、

パニック状態を乗り越えるための手段として、

そこで行われた動作、弾かれた曲すべてを記憶するのではないだろうか、

パニック状態を切り抜ける手段として記憶された一連の出来事は、

楽器を持った時に瞬間で発露されて、

自分の意思の伝達手段の一部となって、

長く記憶されていくと思う。



 いったんギターから離れてしまうと、

もう以前のように弾くことができなくなるという話もよく聞く。

これもよく聞く話ではある・・・。

 体に一度しっかり取り入れた記憶というのは頭で忘れてしまっても、

楽器を体に持って弾いていくと断片的でも思いだしてくるものだ。

そこからだと意外と早く弾ける状態に復帰できると思う。

曲についても同じことが言える。

曲というのは弾かないでいるとこれは必ず忘れる。

しかし、頭は忘れてしまっても体に取り入れた曲の情報というのは、

練習していると断片的に思い出し徐々につながっていくものだ。

頭だけで覚えて何もしないでいる曲情報というのは完全に消えてしまう。

まさに霧の彼方へ消えて完璧に雲散霧消してしまう・・・。

 人前で演奏するということは、

すべてギターという楽器をより自分に近づけて、

自分自身の一部として扱えるようにする大きな手段と言えるだろう。






                   メニューへ




                    topへ