譜面台の陰から
>練習曲を練習する<
最近練習曲が面白くないという話を時々聞くようになった。
特に中級くらいまでの練習曲というのは、
そう練習していて楽しいというものは少ないかもしれない。
この曲を弾いていて楽しい楽しくないという感覚は、
どういうところから発生してくるのだろうか・・・。
そこは人間の感覚、感情的なところから来るに違いないなとは思う。
そもそも練習曲というのは、
上達するうえでどういうプロセスで練習していくのだろうか。
なんとなく意味もなく弾きましょうということはないと思う。
カルカッシやカルリの練習曲から入っていく人が多いと思う。
これがまた同じような印象の曲が並んでるいう感想を持つ人も多いと思う。
最初の2〜3曲は興味深く弾けても、
一曲づつ弾きこなして曲が進むたびに、
なんか変化に乏しい感じに支配されていくのではないだろうか・・・。
ただ技術的な面から見ると、
やはり当初の技術というのは、
複雑な動きのある曲というのは弾きこなすことはできない。
やはり最初の練習曲から入るのが一番妥当ということだ。
しかしながら聞いたことのないような曲を楽しくというのはなかなか難しい。
しかもメロディーはクラシックそのもの・・・。
巷にあふれる現代の曲に慣れた耳には、
刺激の乏しい平板なメロディーとしか聞こえないと思う。
ここでただ単純にメロディーを練習しようとすると、
頑張ろうとするだけ反対の気分も大きくなる・・・。
頑張ろうとする気分と反対の気分とのせめぎあいの中で、
なんとかレッスンまでに仕上げようとする。
ここでレッスンというのが、
いかに大きな意味を持っているかクローズアップされてくると思う。
しかし、もっと練習することに意味をはっきり持たせて練習できないものか・・・。
レッスンというが一つの駅となっているから練習できるというのは、
たしかにあると思う。
それも一つの練習できる要素として存在はするが、
もう少し自身の感覚の中に発生させられないか・・・。
練習曲をメロディーという面だけでとらえないで、
もう少し違った方向から見ることはできあいだろうか・・・。
メロディーだけの面からとらえるとなんとも地味な存在になってしまう。
これはどんなことでもいえることだと思うが、
こちらから見てるといやに地味でさえないと思えるものでも、
角度を変えて見るといきなり光芒を放つことがある。
どっから見てもダメってこともないこともないが、
練習曲の中にそういう曲はそれほど多くはないと思う。
メロディーを聞くという面から角度を変えてみると、
はっきりとした輪郭が見えなかったものが、
はっきり見えてきてそれが意外と魅力的だということがあると思う。
ここに一曲の練習曲がある。
パッと聞いたところなんともピンとこないメロディー・・・。
これはメロディーという面からだけ見たときの感覚だ。
これをとりあえず一回メロディーという面から離れて、
角度を変えて見てみるとどうだろう・・・。
まったく別の面が見えてくるかもしれない。
そこからまた角度を変えてみると、
またまったく別の面が見えてくるかもしれない。
人間見る対象を一方向からでなく、
様々な角度から見ると、
見え方は全く違ってくる。
たとえば一本の木という具体的なものであれば、
目に見えてるぶんだけ具体的に変化をとらえられる。
しかし、音楽というのは感覚的なものであり、
目で見ることは楽譜を通してしかできない。
ページの反対側から見ることはできないということだ。
この感覚的なことを見方を変えることで、
全く違う感覚を導き出そうということだ。
感覚が一新されると新鮮に感じるものだし、
新たな興味へとつながっていくものだと思う。
角度を変えることによって生じる新鮮な感覚の積み重ねで、
ひとつの練習曲が多くのものを与えてくれると思う。
メロディーを聞くという一面的な見方ではなく、
角度を変えながら新しい発見をしながら、
練習曲に向かえば、
多くの意義ある練習につながっていくと思う。
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