銀ゴスメンバーnaomiさんによる心温まるエッセイ(o^-^o)/ 彼女のHPより少しづつお届してます |
ネットの世界での 小さな奇跡 |
「専門医として意見を言わせていただくなら、お父様の受ける手術法は納得がいきません。 私がセカンド・オピニオンになってもかまわないし、他の信頼できる神戸の医師を紹介することもできるし、東京で手術することが可能であれば、こちらの病院を受診していただくことも出来ます」受話器を握りしめ、暖かい話し声に安堵しながらも私は途方にくれた。 すでに一ヵ月後に神戸の病院での胃がんの手術が決まっていた私の父。 年老いた私の両親が、唐突なこの話にいったいどう反応するだろう。 第一、今のこの事態が理解できるだろうか?当事者の私でさえ半信半疑なのに・・ ことの始まりは、わずか一時間半前に届いた一通のメールだった。 いや、もっと遡ればことの始まりは私が買った中古のパソコンだ。知り合いにゆずってもらった中古のパソコン。 これでいったい何がしたいのか、何ができるのか、いまだ自分でもはっきりしないまま私はインターネットに接続し、メールはなんとか使えるようになり、プロバイダーのサーバーを借りて 知人の手助けを得ながら小さなHPも作ってみた。そのHPには「日記」と称してエッセイを綴っており、それは専業主婦の私が初めて持った自己表現の場所で「だれかに見てもらいたい」という気持ちもあった。 かといって知人に公開するのも気恥ずかしかった私は、あるサイトで自己紹介の欄に自分のHPのアドレスを載せられることを知り、そこに登録した。そして、そのメールが届いたのは一時間半前だったのだ。 「・・HPのエッセイ拝見しました・・」差出人のプロフィールを確認すると「外科医」とあったので「ご専門は何ですか?」と尋ねるメールを出すとすぐに返信があり「胃・食道外科です」とのことだった。 私は「実は私の実父が来月胃がんで手術を受けることになっており、・・」と以下、簡単に病状・現状を書き送ったのだ。10分もしないうちに次に送られてきたメールをみて驚いた。 「名前をあかすつもりはなかったのですが、専門医としてぜひお話いたいことがあります。 現在、外来も手術もないので○○病院の内線○○番にお電話いただければ、私が電話で直接ご説明したいと思いますが・・」とそこには書かれていた。 物騒なご時勢。しかし、父の体のこと。ネット上でつい一時間半前に「知り合った」ばかりの人に電話をしても良いのかどうか? しかし、名の通った大病院の電話番号であることは確認した。間違いない。 私は何がなにやらわからないまま、その番号に電話をし、内線番号と医師の名前を告げ、つないでもらった。 そして「あまりの偶然に無視できなくてメールしてしまいました。きわめて珍しい僕の専門分野だったものですから」という前置きの後、最初の言葉があったのだ。 医師の話の内容は、しろうとの私にも納得のいくものであった。 私は受話器を置いた手ですぐさま神戸の父に電話をした。 父は70を越していたが、あたらしもの好きでパソコンにもなじみがあった。私が事情をあらまし説明し、その医師の名前を告げると父は電話口で驚きの声をあげた。 「僕が癌告知を受け、ショックの中、本屋に行き、そこで最初に買った本の著者と同じ苗字だ。ひょっとしたら、その著者の息子さんではないだろうか?」 そして驚くべきことには、事実、その著者は私にメールをくれた医師のお母様であった。 のぞみの個室で車椅子に乗って運ばれた父は病室の窓から見える見事な大銀杏の黄葉を静かに眺めていた。 転院直後、神戸の医師からお借りした写真をみた東京の医師は 「一期という診断でしたがおそらく三期には進んでいます。慣れない医師だと見間違うのですが・・こちらで改めて全ての検査をやり直します。」と私たちに告げた、予想しないなりゆきに私たちは呆然とした。 しかし、同時に「もし、あのまま神戸で手術を受けていたら・・一期と思って開けるのと三期と思って開けるのでは手術の手順も全然違うだろう・・。連れてきて本当に良かった」と母と私と妹は病院の食堂で頭をつきあわせ、お互いに励ましあった。手術室を出た医師は「最善を尽くしました。しかし、一年以内の再発の可能性は高いです。」と私たちに話した。頭に毛糸の帽子をかぶり、まだ少し冷たい空気の中、父が元気に退院したのは桜の開花もまじかな3月の末だった。 しかし、父は今も元気だ。 今も私たちは顔を合わせると、あの時の一通のメールから始まった奇跡について語り合う。 今年も11月の「手術記念日」に私は医師に御礼のメールを送った。 術後4年目の正月を今年も元気で迎えることができそうです」 そう、あれから既に4年が経過した。父は常人と全く変わることのない生活を今も送っている。 ネットの中に生まれた小さな出会いと医師の誠実に驚きと感謝の念が絶えない私たち一家である。 |
時間 |
時間ほど主観に満ちて流れていくものはないと、それはだれもが感じたことがあるでしょう。 「一緒にいる時間が過ぎていくのをみたくない」と、車を降りて散歩するときに腕時計をはずした若かりし頃のボーイフレンド。あってなかったような門限を律儀に守っていた昔の話です。(笑) 「3分休んで1分」の陣痛。休みの3分は「あっと」いうまに過ぎ去り、痛みの一分は「秒針の動きさえスローモーションをかけている」と思えるほどの差がありました。 待ち合わせをしたときに、「待つ時間」と「待たせる時間」の感覚が同じであれば喧嘩にならないし、それが同じでなければ片方がいらいらさせられるはめになります。 「目がさめたら起き、お腹がすいたら釣りをして御飯を食べる」なんて生活をしたことがあるという友人は「自分のからだが時計になっている最高の時間だった」と話してくれました。 時間はだれの上も、全くいやになるほど公平に過ぎているはずなのに、その実態は、おそろしいほど伸び縮みしながら流れている・・ だれもが知っていて、それでいて誰にも数式にできない、不思議な真実です。 |
指先 |
私たちが中学一年生の時、大阪万博が開催された。 万博を思う時、「こんにちは、こんにちは」の張りのある歌声が頭の中をリフレインする。 なりたてほやほやの中学一年生の私たちは万博に遠足に行った。 坊主頭も初々しい男子生徒とセーラー服がまだ似合わない女生徒たちだ。 お昼は万博広場でお弁当を広げた。私のお弁当箱に入っていた卵焼きをかすめとったヤツがいる。 クラス委員長のNくん。私は副委員長。とられて嬉しい玉子焼き・・・微妙な乙女心というところ。 何故か記憶に鮮明に残るワンシーン。 委員長は陸上部だった。同じクラスだったのは中学一年生の時だけ。 でも三年生になると朝の朝礼で頻繁に彼の名前を聞いた。陸上部には四人衆の足の速いやつらがいた。 陸上は個人競技だから、幅跳び、百メートル、二百メートル、高飛び、地区大会、 県大会、インターハイと勝ち続けるとやたらに名前を朝礼で連呼される。 ついに四人衆は八〇〇メートルリレーでインターハイで優勝した。 日本一だ。今もその時の四人の名前を載せた表彰状は校長室に飾られているらしい。 そして、卒業三十年後。私たちは初めての大同窓会開催の準備でお互いの近況を知った。 四人衆のうち一人はスナックのマスター、一人は医師、一人は小学校の先生。 そして最後の一人はもう二度と会えない場所に旅立ってしまっていた。 同窓会本番の前、マスターのお店で小さな集まりが開かれ、私も参加した。 どの人にも三十年ぶりに会う。来るメンバーの名前はわかっていた 。 みんな、どんな姿に変わっているのだろう。委員長も来ることになっている。 神戸の三宮駅近くの、そのスナックの重い木のドアを押した。集合時間より五分ほど早い。 一番乗りしていたのは野球部のH君。今も社会人野球チームで現役で活躍しているという。 某宗教法人の関西支部会長や 景気の良い運送会社社長など、個性あふれる「おもしろいやつ」達が次々と顔を出す。 委員長は小一時間遅れてきた。神戸の繁華街にある小学校は生徒指導で忙しいらしい。 細面だった中学時代よりは顔は丸くなっていたが、切れ長の目は変わらずに溌剌と優しかった。 彼が早い時期に奥さんを亡くし、その後、縁あって再婚していることは人づてに聞いていた。 「奥さん死んだときなあ・・・。娘たちは小学校四年生と二年生やってん。 二人とも葬式の日はずっと大泣きでな・・・当たり前やけど・・・。 でもなあ、その二人が葬式の明くる日に俺の前で漫才してくれてん。 『一番辛いのはお父さんや。だからお父さんを笑わせたあげんといかん。お父さんの笑う顔が見たい』言うてな」 スナックの一番奥の席に座って、そう話してくれた。 時折混ざるユーモアたっぷりの語り口と彼の明るい笑顔は、三十年前と同じで、悲しいはずの話もさらりと聞けた。 二度と会えない遠いところへ旅立ってしまった友の話も彼の口から詳しく聞いた。 中学時代から心優しい責任感の強い男の子だったことを思い出しながら、私はその話を聞いた。私の心の中では彼は永遠に少年だ。 委員長が脳卒中で倒れ、意識不明でICUに運ばれたという知らせを聞いたのはそれから僅かに四ヶ月後のことだ。 その知らせはS君からメールで来た。皆心配していたが、ただ黙って祈るしかないと、誰もが口にせずとも理解していた。 陸上の仲間だった医師を通じ、私たちは彼が意識を取り戻したこと、 医師が「奇跡的」と驚くような回復を持ち前のがんばりで取り戻しつつあることを聞いた。 それから二年。また開かれた中学同窓の小さな集まり。 今回は東加古川の駅から暗い道を十分ほど歩いた先にある小さな居酒屋だ。 この店は、その日が最後の営業日だ。やはり同窓生の一人である、ソフトボール部の口は悪いが気の 優しい女子が、息子さんと営んでいたお店だった。 店が駅から少し離れていること、行く道筋が暗くて危ないことなどで、何人かで駅前で待ち合わせをした。 店に着くと、もう委員長は来て、また店の一番奥の席に座っていた。 血色がいい。少しやせて顔の輪郭が中学の頃に近くなっている。 また男前があがったね」とからかう。 座る姿は元気そうだったが、右半身は感覚がないこと。 右胸から右指先までしびれていつも痛みがあること。 考えながらでなければ右足を出すことが出来ないことを彼はニコニコと明るく語ってくれた。 「なんせ、右腕の感覚がないやろ。この間なんか電車に乗ったらな、なんでかわからへんけど、体が前に進まへんのや。おかしいなあ思たら、なんと右腕がドアにはさまっとったんや!」 おもしろおかしく身振りを 交ぜて再現してくれる。 「ほんまに感じへんのん?さわってもええ?」 「ええよ」 右胸から指先までそっと触れてみる。 それを見ていた同級生から、「ピッピ〜!触ったらあかん!イエローカード!」と さっそくに野次が飛ぶ。 奥さんが亡くなった時、小学校の四年生だった彼の長女は来春結婚するという。 「意識が戻って最初の一年はなあ、あんまり痛いから 『なんで生き返ったんやろ。死んでしもたほうが楽やった』思うたこともあるねんで。 でもリハビリ、がんばったで。夜にな、一人でこっそり廊下で練習するねん。 ほんまはあかんねん、一人でやったら。だから隣の病棟まで車椅子で行って練習した。 そしたら、あくる朝には先生がびっくりしはるんや。昨日出来なかったことが出来るようになってるからな。『すごい!』って。 隣の病棟の看護婦さんは見て見ぬふりしてくれた。ありがたいなあ」 楽しい時間はあっという間に過ぎ、応援団長の三々七拍子でみんなで手締めする。 「ええなあ。ほんま生きてることに感謝や。こうやってみんなにも会える」 駅までの道は暗い。 「長い時間歩くときは使う」と委員長は杖を取り出した。 「手、つないでもええ?」 「ええよ」 麻痺しているという右手は指先までこわばり、指と指の間できりきりと締め付けられるように私の指も痛い。 でも、何も感じないというその指先は暖かだった。前方を元クラスメート達 が大声で楽しそうに喚きながら歩いていく。酔っ払って肩を組んで歩く二人組みのシルエットが右へ左へとがに股の千鳥足なのが、かわいい。 「この間だなあ、キャンピングカーを衝動買いしてん。六人も寝れるんやで。 はよ、来えへんかなあ」六人も寝られるキャンピングカー。お嬢さんやお婿さんやお孫さんと出かけるんかなあ。 万博広場でかすめ取られた卵焼き。 そして、今日の暖かな指先。同じくらい忘れられないシーンになるんだろうな |
鏡 |
私は一つ気づいたことがあるのですが、怒ったり、悲しんだりしているとき私は決して鏡を見ないのです。 心が自分のうちへうちへと入っていって、外から自分を眺めようとしなくなるのか・・どうか・・ それとも、本能的に今の自分のみっともなさを知っていて鏡をのぞこうとはしなくなるのか・・ いずれにせよ、お化粧をして鏡の中の自分ににっこりと笑ってみる。そんな、女性ならだれでもするような日常の中に平凡で平和な幸せが隠されていると思います。 |
いとこ |
私の娘達は月に一回「いとこ会」で居酒屋で集っています。とはいっても3人なのですが・・ いとこというのはおもしろい存在で、姉妹よりは薄い、でも、友達よりは濃い、同じ遺伝子を分け持つ不思議な存在です。 先般、私の祖母が94歳でこの世を去り、その子供世代である私の母や叔母、叔父、そして、祖母から見れば孫世代の私たち、いとこ連が一堂に顔を合わしました。 告別式も終え、座もなごみ、お茶を飲みながら、いろんな思い出話に花がさきました。 祖母が亡くなってしまった今となっては、一人も欠けることなくいとこが顔をそろえるのも、これが最後かもしれません。 下は28歳から、上は50歳まで。年代に幅はありますが、みな所帯を持ち人の親となりました。 一つ世代が移ったなあと、皆が心に感じる集まりでした。 |
絵文字 |
メールを使うようになってから、私も時々絵文字を使うようになりました。 使い出すと、ないと不便です。笑顔の絵文字の代わりに(笑)を使うこともあります。 昔、手紙を書いていた頃は、そんなのなくても全然平気だったのに・・何故?と考えたら、メールのほうがより会話に近いのでしょうね。 同じ言葉でも笑顔で言っているのと、真顔で言っているのではニュアンスが全然違う。 そのニュアンスを伝えるのが絵文字です。絵文字が必要ということは、それだけその部分にジョークの要素が入っているということでもあります。 笑顔のジョークが通じる相手というのは気分のいいものです。 |
後ろめたさ |
これと同じ感情を、遠い昔に味わったことがあるなあ・・と記憶をたどった。 あれはおそらく大学の三年生ぐらいだろう。同じ大学に通う部活仲間の男友達が「せっかく神戸にいるのだから一度ぐらいおいしいステーキを食べたいけど一人じゃ敷居が高いし、かといってだれかにおごれるほど俺は金持ってない。割り勘で二人で食べにいくのつきあってくれないか?」と提案してきた。 アルバイトでそこそこのお小遣いはあったし、私もその「おいしいステーキ」とやらを一度食べてみたかったので快諾した。 今のように若い人たちが贅沢をする時代ではまだなかったし、私の家もごく普通のサラリーマン家庭だったから家族で豪華な外食など経験なかった。「神戸牛」なる言葉は知っていても、20年以上神戸に育っても「高級牛肉」とは無縁だった。 目の前の鉄板で焼かれる分厚いステーキ。味わったことがないほどの風味豊かな牛肉。約束通り割り勘で勘定をすませ、良い気分で家に帰り着き、テレビの置いてある和室にぺたんと座って、一人でくつろぎながら、私は突然、激しい「後ろめたさ」に襲われた。 それは、いくら自分が働いたお金で食べたとはいえ、おそらく「両親」がまだ一度も食べたことがないようなおいしいものを私一人が、こんな若造の私一人が身分不相応にも食べてしまったという「後ろめたさ」だった。 世の中には「順番」というものがある・・私は漠然とそう感じていたのかもしれない。 先日、私は友人と二人で温泉旅行に行った。私は結婚も子供を産むのも比較的早かったので独身時代に友人と旅行を楽しむという経験はなかったが、おかげさまで、一般的なパターンよりは少し早くゆとりのある暮らしに入ることができた。 どんなふうに素敵な宿だったかと母に報告しながら、私はまた「後ろめたさ」におそわれた。限られた年金の中でつましく暮らしている両親を連れてもいかないで自分だけが贅沢をしたことに実は「恥」を感じていた。 そして、またもう一つの情景が頭を巡った。それは新幹線の待合室で「高級」で知られる和菓子の紙袋を両手に山のように下げた年配のご夫婦を見かけたときのことである。私にはその夫婦が日々つましく暮らしながら「いなか」に帰るにあたってはみんなに喜んでもらおうと、そのお菓子を買ったのだということが良く分かった。 夫婦の会話のニュアンス。お菓子の袋を扱う丁寧な手の動き。二人の笑顔。 私自身は帰神するとき、「荷物が重くなる」「いまどきおいしいものはどこでも買える」などという「合理的」?理由を勝手につけて「娘が帰るのが何よりのおみやげ」などとうそぶき手ぶらで帰る。 自分の快楽を追及するだけの人生は薄ら寒い。ちょいと無理して両親のために宿の予約を入れた私である。 |
同窓生 |
同窓生というのは実に不思議な存在だ。 考えてみたら48年の人生の中で、わずかに3年だけ同じ空気を吸っていた。 しかし、3年とは言っても、それぞれの個人的な付き合いレベルに落とせば一瞬のつながりさえない人もいるし、同じクラスにいても、数度しか話したことがないという人もいる。 でも「話したことがない」と「知らない」というのが一致しないのもまた同窓生のおもしろところで、実は心ひそかに恋していていまも目に焼きつく姿を、それぞれがお互いにこっそりと持っていたりする。 つい先日、高校の卒業30周年記念大同窓会が開かれた。大々的な同窓会は卒業以来初めてであった。450名の卒業生のうち現住所が確認された人が400名以上。230名が参加した。予想外の出席率に、計算によると会場は一人一平米もないというありさま。うれしい誤算である。 知り合いのT君は、元、クラスメイトのK子さんに「実はずっとあなたのことが好きでした」と、告白した・・と私に報告。で、私がK子さんに「ねえ、ねえ、だれかに『ずっと好きでした』って言われたでしょ?」って聞いているのに、本人は「ええ〜!?言われてないよ!」と答えるものだから業をにやした私が「だってT君が、さっき『やっと告白できた』って私に言ってたわよ」と笑うと本人は「え〜!?あれ、本気だったの??冗談だと思ってた」と目を丸くしている。 同窓生達のそんな会話を小耳に挟むたびに、私はうれしくて笑ってしまう。 「昔、片思いだった人とツーショットの写真を撮る!」と私に宣言して同窓会に出席した友人もいる。にっこり笑った二人が写った携帯を私もしっかり見せていただきました。 思えば16歳から18歳という年齢は、動物としての人間が本能でパートナーを求め始める時期だと思う。あれほど、本当になにげない一言やしぐさが永遠に脳裏に焼きつく時間というのは人生のあの時期の特権だと思う。 それぞれが歩いた30年は決して共有できないけれど、深い根っこのところで同じ土地の養分を吸って育った同窓生には、何か安心できる空気がある。私はこの暖かい空気のような存在の同窓生にずいぶん癒されているなあとつくづく思う今日この頃・・なのである。 |
真夜中のファミレス |
私はいらいらしながら、自宅マンションの向かいにあるファミレスのドアを押した。 夜中の2時半である。私が住んで20年になるマンションは東海道線沿線の駅徒歩4分という便利な場所にあるが、 おかげさまで徒歩圏内に早朝5時まで営業している居酒屋さんもたくさんある。 次女が、中学時代の友人と飲んでくると出かけたのが夜の8時ぐらい。 12時までには帰ると言ったのに話がはずんでいるらしく、業をにやして夜中の一時に電話したら 「二時には帰る」と約束した。が、この次女は大体に自分の言葉通りに帰ってきたことはない。案の定2時半になっても帰ってこない。 明日は彼女は仕事なのだが、ブライダルの仕事は変則的な勤務なので午後の2時に出社だとういう。 当人は朝寝ができるからまあいいや・・ぐらいのノリなのだろう。 が、母親としては成人した娘ではあっても、家に帰ってくるまではなんとなく心配で寝付けない。 高校生の頃はもっと心配した。あの頃に比べたらはるかに中身も大人になって、基本的には信頼してはいるのだけれど・・ 私は3日前に欧州旅行から帰ってきたばかりというのもあって、時差ぼけも手伝ってますます頭が冴えてくる。 私はパジャマのズボンだけはき替えて、Tシャツにワンマイルパンツという気楽な格好でバックに財布と携帯をほりこんで家を出た。 このまま起きて待っていたら、帰ってきた次女の顔を見るなりいやみの三つもいいたくなるし、少し気分転換したくなったのだ。 が、ファミレスの席に案内されて、ハーブティを注文してすぐに、鍵を入れたポーチがバックに入っていないことに気づいた。 これはまずい。さっき注文をとりに来てくれた女性の店員さんに「向かいのマンションに住んでいるのですが鍵を忘れたのでちょっと取ってきますね」と断りをいれる。 「では、ハーブティはお見えになってから用意しますね」と彼女は笑顔で答えてくれた。 自宅に戻り、ポーチをバックに入れてファミレスに戻る。お茶を飲んでいる間に次女から携帯に電話が入る。帰宅して私がいないものだから電話してきたのだろう。少しは心配する側の気持ちも分かってほしいと、私は携帯に出ない。年甲斐もなく、娘に反抗するの図・・というところである。 ティーポットで出てきたハーブティはカモミールが主体の精神を落ち着かせる成分。これで少しは気持ちもおさまるかな?? お茶を飲み終えて、お会計をお願いした私に、さっきの女性店員がレジを打ち込みながら話しかけてきた。 「眠れない夜ってありますよね。そういうときにハーブティ、いいんですよ。なんだか急に食べたくなるってこともありますよね、ホットケーキって。この間も夜中におじいちゃまが『どうしても食べたくなったから』ってお見えになったんですよ。そういうお店の使い方していただくと、なんだか嬉しくなります。」 嬉しくなってしまったのは私の方だ。夜中のファミレスでニッコリと世間話ができるなんて・・。 「また寝られないときはいらしてくださいね」の声を聞きながら帰途につく。 家に帰ったら、娘はさっさともう寝ていた。・・親の心子知らず・・寝顔に向かってつぶやいて私もベットにもぐりこんだ。 おやすみなさい。 |
期待 |
「期待する」という言葉は一見いい意味を持つようなニュアンス・イメージがあるが、よおおく、考えてみるとそうでもないことに気づく。 だいたいが、「期待」という言葉の裏には、期待される人間の意志ではなく、期待する側の希望的観測が入っている。 それは言い換えれば「甘え」かもしれない。期待して待っているぐらいであれば、自ら状況を分析し、対策を練り、出た結果で自分が判断すればいいのだ。 人は往々にして「期待する」。そしてそれがかなわなかったとき、「裏切られたのごとく」感じ、自らを犠牲者のように位置付ける。 「期待」は家族間でも、恋人の間でも、友人との間でも、そしてまたビジネスの場でももたれる。 期待して待つことはやめよう。そしてまた、期待に答えようと、それを目的に行動するのもやめよう。他者の期待に答えることを目的にすると自分を見失ってしまう。今、何をすることが必要かを考えなくてはいけない。 昔、「くれない族」という言葉があった。「〜してくれない」と不平を溜め込む人たちのことだ。そうはなるまいと努力してきた。思うようにならない自分がいるときもあるけれど・・ |
モテないワケ |
「やりたいことをやってきた人生」と「やるべきことをやってきた人生」と、人は死ぬ時、どちらが後悔が少ないだろうか? 私の人生は、他人の目にどう映ろうと、私自身では「やるべきことをやってきた人生」と感じている。「やりたいこと」と「やるべきこと」を選ばなくてはいけないときは、いつも「やるべきこと」を選んできた。これはおそらく持って生まれた性格なのだろう。どちらが後悔が少ないかと、おそらく無意識に自問自答していたのだと思う。そして「やるべきことをする」方が、後悔が少ないと私は判断したのだ。 明日死んだとしても、後悔しないだけの自信はある。それしか道がなかったから。 明日死んで残す悔いは、おそらく「親より早く逝って親不孝をしてしまった」ということぐらいだろう。でも、夫や子供たちは大きな悔いを残すかもしれない。「もっと優しくしておけば良かった」と(笑) しかしまあ、今、自分のこの書いた文章を読み返してみると、「明日死んでも悔いはない」とは随分尊大で自信過剰な物言いだなあと我ながら思う。こんなふうに思い込めるとことが私の最大の欠点であるという可能性もなきにしもあらずだ。 私は社交ダンスをながらく趣味で踊っている。人はよく「どうだった?」と自分の踊りの評価を尋ねる。先生に尋ねるのは別段問題ないが、私のようなアマチュアに意見を求められたときは少し困る。なるべく正直に感想を述べるよう努力しているが、やはり一応は「相手がいやな気分にならないよう」「なるべく良いところをみつけて」という無難な線になってしまう。 私は他人に自分を評価してもらうよう頼むことがない。結局は誰の目にどう自分が映ろうと「あるべき自分」は自分で決めるしかないと思い込んでいるのだろう。ある意味、がんこでかたくなな人間かもしれない。私が学生時代からいまいちモテないのもそのへんのかわいげのなさが原因かもしれない。 それはちょっと「後悔」かな。(笑) |
空想癖 |
子供の頃、雲やモルタル壁の塗りむら、天井の木目を見ては、その中にいろいろな動物の姿を探して時間が過ぎた。 もう少し大きくなって小学校の高学年になると、朝礼での校長先生の長い訓話の間などに、物語を空想しては遊んだ。 大抵は、地球救う少女が主人公で、それはもちろん私であり、頭の切れる美少年とペアで活躍する。 中学になれば、空想することもだんだん現実的になり、あこがれの先輩との架空のデートなどになる。 しかし、子供は大人になっていく。「赤毛のアン」の空想癖がだんだんなくなっていったのと同じように、私もいつしか空想の世界では遊ばなくなっていた。 あの頃のように、空想の世界を楽しめる日はもうこないのか?それとも再び訪れるのか?あれは未成熟なものの特権だったのか?無垢で現実を知らないものの宝だったのか?今の私にはいまだ判断がつかないでいる。 |
あ〜あ |
昨日、湯船に身体を浸したとき「あ〜あ、気持ちいいなあ〜」って独り言を言っている自分に気づきました。今の「あ〜」はビールをごくごくって飲んだ後に発している音と同じ!とふと思い、それを文字すると「あ〜」になるけどため息を文字にするときの「はあ〜」とどう違うように発声しているんだろう??
なんて、変なことをあれこれ考えてしまいました。(笑) ヨガでは人間が怒ったり、悲しんだり、緊張したりしたときに、体のどこがどうなっているのか?というのを考えされられる時があります。たとえば、嬉しいときには眉間が自然と開いていたり、緊張して肩が上がったり。 で、この「あ〜」っていうのを、ホッとしたとき、悲しいとき、驚いたとき・・とか色々やってみると結構遊べます。 何か嫌なことがあって、「はあ〜」ってため息をついてしまった時。温泉につかって「はあ〜」って手足を伸ばしている自分を想像して「はあ〜」って言ってみる。そうすると、体のあちこちが喜んでいるときの筋肉になるのです。 ちょっとの嫌なことぐらいなら、これでカバーできるかも!ですよ。 |
Thank you |
「Thank you」と、満面の笑みでその中年の金髪女性は通り過ぎました。
調度、たまたま正面からその笑顔を目にした私は、妙に爽やかな気分になりました。その笑顔は私に向けられたものではありません。
人通りの絶えない駅の改札通路。笑顔の相手は某消費者金融のテイシュを配っていたお姉さんです。
私も有難く頂戴することもありますが、大抵は無言でどちらかというと「本当は別にもらいたくないけど、差し出せれたからもらっておく」ってな顔をしています。(笑) 配るほうは商売上の笑顔を一生懸命浮かべていることがほとんどです。 「ふううん」と思わず考えてしまいました。「ありがとう」とにっこり笑って受け取ってみようかと。そうすることによって、別に私は害を受けることはなくいくらバイトで配っているとはいえ、相手の女性もそのほうが嬉しいに違いない。 きっと、一日中、能面のような顔をして通り過ぎて行く人たちに、笑顔で配っているに違いない。もし私がバイトでその仕事をしていたら、「ありがとう」と笑顔で受け取ってもらえたらなんとなくその一瞬は気分いいに違いない。なんでそんなことに気がつかなかったのだろう。 「消費者金融」というものに対する毛嫌いする気持ちの意思表示。 そんなものをあの若い人たちにしていったいどういう意味があるのか。 師走の冷たい風が駅前通路を吹き抜ける季節だから素直に「ありがとう」って笑ってみようかな。 私にそんな風に考えさせた金髪の笑顔でした。 |
仮縫い |
若い頃に、少しだけ洋裁を習っていました。 デザインを決め、型紙を作り、布目を整え、布を裁ち、印つけをして、仮縫いをする・・ 仮縫いをすると、急に洋服の形を示すようになり、初心者にはそりゃあ、嬉しい瞬間です。で、試着をすると、いろいろ不都合があるわけです。家で着てみて、あれこれ「ここをちょっとつまめば」とか小策を弄するわけですが先生の所にもっていくと、あっさりと仮縫いの糸にはさみを入れられ、型紙を直し印を付け直し、また仮縫いをするわけです。 私にとっては、断腸の思いの?仮縫いのやり直しも、先生にとってはなんてことはない手作業の一つ。 でも、しばらく習っているうちに、本縫いに比べれば、仮縫いのやりなおしなど簡単なもので、しかも、そこで手を入れておかなくては後での修正はなんとも、みっともなく、効率が悪いということを、私も悟るに至りました。 「ものごとは、やはり基礎となる土台が大切なのだ。」と身をもって体験したといえます。 ひょっとしたら、うまくいかないかも・・という予感を持ちながら、自分を言い聞かせて、あれこれつじつまを合わせようとしても、結局ははさみをいれてやり直すしかない。 「離婚」などというのも、仮縫いのやり直しに似ているかもしれません。自分の「身に合う」生活は、結局は一からやり直さなくてはなんとも収まりが悪いもの・・思い切ってはさみを入れたほうがいい。 最近離婚した友人の顔を思い浮かべながら、ちょっと、そんな風にも考えました。 |
少子化に寄せて |
この間、娘の勤める幼稚園の運動会を観にいってきました。 小さな子供たちがたくさん集まっているのを見ると私はいつも不思議な気持ちになります。たとえば、学校の入学式や卒業式でも・・ 今ここにひととき同じ場所にいる子供たちが10年、20年、30年とこれから実に様々な人生を送っていくのだなあと思うと何故か胸が一杯になるのです。 ここ数年、中学や高校の同級生と集まる機会が増えました。 まだ40台の半ばすぎというのに既に亡くなられた方もいます。頭の中の残像は当時のままなのにもう、2度と会えないのかと思うと不思議な気持ちになります。 「命をつなぐ」という生き物としての大前提。これを放棄する生き物は地球上にいる何百万もの陸、海に住む生命体の中でただ「ホモサピエンス」一つです。 これは、どんな理由の流れがあろうともやはり「絶対に生き物としてはおかしい」とマクロ的には言わざるを得ないでしょう。 むずかしいことは言えません。でも、若いお母さんたち、「応援しています」 |
光る |
台所というところは、よく汚れます。
ところが不思議なことに、まんべんなく薄汚れているとずっと住んでいる人間は気にならないのです。(私だけ? 笑)
これが、一箇所でもふと気が向いて磨くと、気になるんですねえ〜。他の部分の汚れが。
なんといっても、磨いたところは「光って」「明るく」なるのです。
で、拭きだすと、実は台所というところが「立体」でまあ、あっちもこっちも磨く羽目に陥り自滅します。??(笑)
年齢を重ねていくと、身体にも心にも少しずつ台所の油汚れのような「澱」が沈殿し、若さの輝きにベールをかけ、人間としての「汚れ」がたまっていくように感じます。
これは意識して、自分で時々磨いて光らせないと油汚れはしつこいので、とれなくなります。(笑) どうやって、「磨いて」「光らせて」「光っていない部分を自覚するか」う〜ん。なかなかむずかしい。 |
貸金庫 |
私は自分専用の貸金庫を持っている。何が入っているのかというと少々のへそくりとメモ用紙に小さな字で綴られた私の雑文だ。 いつもバックの中に入っている小さなメモ帳に、私は時々、「今」の自分をありのままに書き綴る。だれに見せるわけでもない、だれにも見せたくないありのままの自分がそこにある。 毎日の生活の中で澱のように静かに自分の中にたまっていくいろいろなこと。私はそれを鉛筆の黒い芯の先からはきだしていく。常に10年分ぐらいのものが金庫の中で眠っている。10年たつと、私はそれを読み直す。気恥ずかしくなるような文字が静かに並んでいる。 私はそこに吐き出された文字を使って自分を浄化してきたのだなあと思う。自分の中だけでひたすら問う。今の自分をさらけだして問う。往々にして堂々巡りの自分がそこにいる。 それでも書くことが好きな私は、そこで一人で癒される。 10年たつと、私はそれを捨てる。捨ててしまうと記憶から消えて、もう二度とよみがえらないかもしれない私の昔の姿がそこにある。すこしためらうこともあるが、結局は捨ててしまう。良い思い出はちゃんと記憶に残り、忘れてしまいたいことは小さな文字列と一緒に消えていく。 |
関西弁 |
私の友人で横浜出身で現在関西在住の人から「細雪」の映画を久しぶりに見たらなんか違和感があるので、何故だろうと考えたら、俳優さんたちの間違った関西弁が耳に障るのだとはたと気づいた・・というメールをもらいました。そのメールに対する私の返信メールです。
でしょ、でしょ?? 正確でない関西弁は全て指導?したくなります。
今度、機会があったら細雪を読んでごらん。会話部分のイントーネーションがちゃんと全部関西弁になって とってもくつろげるよ!??
私は普段は関西弁があまり出ないけど 本で言うと谷崎潤一郎と、灰谷健次郎の本は 読んだ後、関西弁になってしまうし、 ある意味での、快感を感じます。 と、いうわけで、この辺のニュアンスは関西出身の方は 深〜くうなずいてくださるでしょう・・?? |
お茶 |
私は一人でお茶を飲むのが好きです。それも家ではなくお店で飲むのが好きです。 最近は安くでコーヒーを飲ませてくれるお店が増えて本当に嬉しいです。 私が一人でお茶を飲むようになったのは下の娘が幼稚園に上がってからです。上の娘が生まれて以来、24時間子供が側にいるという生活から調度10年ぶりに開放されて、一人でいる時間が嬉しくて、嬉しくて、とても主婦どうしのランチをしている場合ではありませんでした。(笑) 幼稚園に上がってすぐは2時間ぐらいですぐにお迎えにいくのでまず、新聞をすみからすみまでゆっくり読みましたね。 そして、一週間に一回ぐらいは、500円近いお金を出して、気に入ったお店でくつろぐ楽しみを覚えるようになったのです。 一人で居るけれど、決して孤独ではない。 まわりには、そこでくつろぐ人の気配が漂っている。 好きな本を読んで時々目をあげればそこに幸せそうな人が居る。 そこであれこれとめどなく色々考えを巡らす。 雨が降っていても暑くても寒くても、そこから抜け出てほっとする。 そんな環境にいられることに感謝する。 この楽しみは当分やめらそうにないですね。(笑) |
言葉と気配 |
私は本を読むのが好きだ。 特に、時間がたつのも忘れてしまうような引き込まれる文章に出会ったときは、かなりの幸福度である。ベットにもっていはいると何故か15分以内に必ず眠くなってしまう「巨匠」と呼ばれる作家もいるし、たまにだが「読んで損した」と思う作家もいる。 気に入った作家の作品でも、全てが好きというわけでもない。 だが、気に入った作品には一つの共通点があると思う。それは、その作品を書くときに、作者に「強烈に伝えたい事柄」がある時だ。人は「本当に伝えたいこと」がある時、その文章は生きている。ますを埋めるために言葉で遊ぶとき、どんなに「上手」に書けていても心には迫ってこないのだ。 一方で会話のコミュニケーションは少し違う。 本では「言葉」が全てだが人間の会話では、私は「気配」をもっとも大切にする。 この「気配」なるものは「言葉」ではなかなか表現できないものだから、これまたやっかいでもある。 ただ、「心が通っている」ときは不思議とお互いにその「気配」を感じるものだ。 ・・・と私が一方的に思っているだけだったら寂しいけどね。(笑) |
窓 |
私の実家の私の部屋の窓は足元までの大きな一枚ガラスが4枚でした。
高台にあるそこからは、瀬戸内海、向いに淡路島。東は大阪湾、西は明石港。そして、にぎやかな漁船、客船。冬の夜には満月の月明かり。
私は、毎朝、窓を磨きました。毎朝磨いていれば、あっという間に終わります。
レースのカーテンはつってありましたが、だいたい束ねてありました。
朝、目がさめると、まず窓の外に目をやる。春霞の日もあれば、ぬけるように蒼い空の日もある。 自分のことさえしていればよかった娘時代。 遥かに遠い、それでいて明晰な、幸せの記憶です。 |
声 |
結婚した頃、母に電話するときには気を使った。 「元気な声」で電話するように、気を使っていた。 娘の幸せに敏感な母は、別に何もなくても、少しでも声のトーンを落とすと 「何かあったの?」と心配するからであった。 その母も70の誕生日を数年前に過ぎ、さすがに電話に出てくるときの声が「おばあさんに」になったなあと思っていたのだが、ある日、とても若々しい声で出てきた。 「あら、今日はなんだか声がとっても若くて、10年前に若返ったみたいよ。」というと、お客様がみえているとのことだった。 それ以来、母は私がいつ電話をしても、とても元気で若々しい声で話すようになった。 母が、そうしているのは「母自身のため」でももちろんあるのだが、でも、私のためでもあることを私は知っている。 かつて私がそうしてきたように、母は私を気遣って元気で明るいトーンで話すようにしている。 でも、私は知っている。そうすることによって、母自身もまた元気になれるのだ。 「相手をおもいやることは自分をも救う」うまくできている。 |
神戸弁 |
神戸は都会ですが、東京に比べたら、もう、遥かに小さな街です。今では神戸を離れてもう23年にもなるので、もうそういうことはありませんが昔は元町、三宮を歩けば必ずだれか知っている人に会いました。都会だけれど、都会の持つ冷たさやよそよそしさはない、ある意味関西の「おせっかい」が残っている。そんな街です。 関東の人には分からないと思いますが、大阪、芦屋、西宮、神戸、と微妙に同じ関西弁でも違いがあります。私は完璧な神戸弁。この間、表参道のカフェで隣に座った女性二人組みが完璧な神戸弁だったので、おもわず話し掛けてしまいました。調度世代も同じぐらいで、妙に盛り上がって、本当に20分ぐらいのおしゃべりでしたが、楽しかったですよ。 |