第15章 私小説家

 「俺はとうとう石屋になってしまった/他にどうするアテもなかったのだ/マンガ家、中古カメラ業、古物商と手を出してみたけれどこ とごとくもくろみがはずれてしまった」
         ーーーそして"彼"は多摩川の河原で石を売り始める。

 3年ぶりにまともな職に就き、しどろもどろしている内に夏休みに入り、また寝そべった日々を送っている。

「マンガだって芸術などとおだてられて調子に乗るから結局注文も来なくなったじゃない/カメラ屋だってフルーツポンチ(部品の寄せ集めで組み立てる)で信用落としたり/古物ときたらニセ物でなくては承知できないほどニセ物つかまされたりしてさ/そのあげくが石屋/そして今度は渡し守 あんたのやることだんだん 落ちぶれていくじゃない」

 しがみつくように暮らしていると、こんな漫画の吹き出しにさえ時として胸が痛くなる。それはこの漫画家があながち創作だけで描いているのではなく、そこに彼の私生活がちらつくからでもある。彼の日記を私小説と云った人もいる。
 つげ義春が芸術的漫画家として脚光を浴びたのが「ねじ式」「紅い花」ーーーもう20年近く前の話。その後長いスランプが度々続き、夢を漫画にしたり、画風ががらりと変わったり、ポツポツと発表される作品はいつも話題となり、特集が組まれたりした。そして今年に入って出版されたのがこの「無能の人」ーーー石を売る"彼"は、つげ義春の私生活と隠者願望から生まれた。
 小田原の老作家川崎長太郎は吉行淳之介との対談[作家の姿勢]の中で、私小説家には私生活はないという鉄則を引き出し、晒し出しきれない自分が「やましい」と云う。80年間私小説一筋できた作家は、そして永井荷風の作られた私小説なるものを批判する。更に「吉行君の場合"夕暮まで"なんか、作っているんですからね。‥‥吉行君の"夕暮まで"は小説。私小説は概ね私事で、あらず小説。どっちが人を動かすかという事になると、価値問題は別ですね 」と厳しく私小説と小説の境界線をひく。
 僕はこのどちらも好きだ。つまり誇張も面白いし、その人なりの空想も許せる。格好良さ或いは格好悪さばかりが強調されて生活が見えない作家はあまり好きではない。文学的生き方なんてのも苦手だ。
 つげ義春の近作を「私生活のパロディー化」と評した人がいる。ああ そうなんだ。こんな言い方があったんだと感心した。そして「世捨て人になりたいという気持ちと、いやそれはもう不可能だという気持ちに引き裂かれている」彼。

「その商売がだいたいにおいて まともとは思えないのですよ/その辺で拾った石を売るなんて/売れる訳がないのを承知の上でしょう/‥‥‥‥/ようするに あんたはなんの役にもたっていない 」「ひどい事を言うね 結果はどうあれオレは一生懸命やってる/努力しているんだ」「ふりをしているだけでしょう」

 こんなナンセンスなやりとりを真剣に演じる"彼"に同調してしまうのは何故だろう。それは旅人を自称できなくなった僕の私生活にひびく。
 夢を追ってるーーーふりをしているだけなのかと。