第10章 フィールドフォーク'86

"フォークジャンボリー"という言葉は死語に近い。この言葉を聞いて"中津川"を思い浮かべる人は一昔前かなりフォークにのめり込んでいたに違いない。関西フォークが京都から東京(吉祥寺)に移っていった後も、フィールドフォークの主流はここ中津川にあった。無論、'69〜'71の"フォークジャンボリーin中津川"は、その後の妻恋や合歓と同様作られたブームである。ではブームが去った後フィールドフォークは何処へいったのか。ーーー実はまだ中津川に根付いているのである。ブームをはさんでその前後にこの地を盛り上げてきたのは、この地に生まれ育った人達だった。笠木 透、我夢土下座の面々は全国のフォーク村を流れながらフィールドフォークを育ててきたのだ。
      生きている鳥たちが 生きて飛びまわる空を
      あなたに残しておいてやれるだろうか父さんは
       目を閉じてごらんなさい 山がみえるでしょう
    近づいてごらんなさい こぶしの花があるでしょう 
                        (私の子供達へ)
 「中津川へ行こう」という誘いをうけた時"今更"という気がした。でも「笠木さんや我夢土下座も出るよ」と聞かされた時"これは行かねば"と思った。顔も知らずその唄だけを聞いて育った僕にとって彼等に会う事は一昔前に抱いた憧れである。かと云って"ただ会いに行くのか""自分は何をしに行くのか"という疑問は中津川に着く迄、僕の中でくすぶっていた。「ただ河原で遊ぶんだ」という言葉に従って嫁さんと息子も同行した。
 9月23日の早朝、朝焼けのきれいな空をひさしぶりに見ながら身支度をする。6時半頃、長田のKさんが車で迎えに来てくれる。彼も妻子連れなのでホッとする。途中大津と養老のインターで休んだが、そこで姫路から来ている岩田 健三郎さんに初めて会う。木版画家で今年からラジオ関西のDJもやっている。唄い始めたのが36才というからただものではない。今回のフィールドフォークはこの人と笠木さんとで話しがまとまったらしい事を知る。
 中津川の河原に立った時、やはり込み上げてくるものがあった。ここがあの中津川かーー 昔、その名前の大きさ故に近づき難かった河原に今、自分は遅れてでも来る事が出来た。それだけでもう一杯だった。
 "河原うた遊び"と題されたステージは河原の段差を利用しただけのもの、河原から天に伸びる三本のさおに10本以上の鯉のぼりーー近藤 アイコさんの草木染めである。この素朴な演出に神戸では見られないあったかい地方色を感じた。
 嫁さんと僕は五平餅をかぶりながら河原に座り込み、子供達は早くも河の中に入っていく。
 笠木さんと我夢土下座、岩田さんと唄者の演奏が続き、途中で「神戸勢で一曲」という事になった。Kさんが「一緒にやろう」と言って僕を表に出してくれる。
 "中津川で唄いたかったんだ"ーー自分の本心が素直に出てきた。「15年遅れてやっと中津川のステージに上がる事が出来ました」Kさんが言う。同じ思いなんだと唄に力が入った。
 コンサートの後で「昔のフォークを聞いた気がする」と僕の唄を評してくれた中津川の人達ーーインパクトがあった事にホッとする。その後の姫路勢の打ち上げ‥‥満足感溢れる雰囲気の中、岩田さんが締める。「お前らは俺と違う付き合いを中津川の連中とせなあかん。火花散らしてもええ。もっと積極的になれ。俺らは失うもん何もないんやから」40にしてこの言葉である。「神戸の連中からも取れるもんは取ってしまえ」ーーこの言葉の裏にあったかいものを感じながら、僕も僕なりの付き合いをしていこうと思った。「この人達に会わせたかった」ーーーKさんの心遣いしっかり受けとめて‥‥‥。