*これはセブンスファーアスタリズムの神話でのオリジナル設定(フィクション)です。

◆聖杯神殿について

【教会と精霊】

この世界には二つの教会がある。
人間が建造した教会と、人間が存在する以前に存在した教会。
聖杯神殿は後者であり、
最後の教会……最後の(真の意味での)教会と伝えられている。
ここでは便宜上、旧教会と呼ぶことにする。

教会と旧教会の違いは何か?決定的な違いは、
教会が宗教のシンボルとして建造された建物
(ちなみに国のシンボルとして建造されたものは城という)であり、
実質上は神に祈りをささげるだけで、神の啓示が降りる場ではないのに対し
(もちろん神の啓示が降りる場であると、神父たちは言い張るだろうが※1)、
旧教会は精霊が神と交流をする「場」であったということだ。

※1 このセブンスヘブンの世界においては天使が伝言を持ってくることはありえる。

そして実は旧教会の多くは聖杯神殿のように建物ではなく、
まさにそのままの意味での「場」だったのである。
それこそ山の頂上とか、森の中の泉とか、海岸のモアイ型の岩とか……。

わかりやすく言うと、神々と精霊の「待ち合わせ場所」であり、
聖杯神殿のようにわざわざ建設された、かしこまった場所は、
「大使館」のようなものである。

すでに話の中で出ているが四大聖者とは「精霊」の末裔である。
彼らは自然を治める存在で、人間や動物は神(と天使)が治めていた。

精霊に命を吹き込んだのは神だが、
それは「無」に神が降りて、動き、
空間の波を発生させた際に偶発的に生まれた力の流れ「波動」が、
物質(人間側の世界)と精神(神側の世界)の中間に位置する、
不思議な存在であったため※2、
神が色をつけ(波動の流れに固有の傷…変な歪みをつける)
「エレメント」と進化させたことが発端であり、
その存在全てを神が生み出したわけではない。

※2 なお波動の生む力(振動)に触れた神は、
精神の存在である自分を物質化させる力があることに気がつく。
また波動の歪みのさきっちょを枯れた小枝のようにちょん切って、
固定化させると、それはチリ……全ての生命の元となった

生み出されたエレメントが己の意思を持ち、
自身のエネルギーによって火や植物、水といった、
動物とは異なる命のようなものをもつ存在(無機)を生み出したため
(正確にはそれ自体ではなく、さらにその元を生み出した)、
神はそれら上位のエレメント存在に「精霊」という名前を付け、
自然を治めるものとした。

そして長い年月を経て、
精霊は神と同等にコミニケーションをとれる存在へと進化した。

また、精霊は物質界に肉体を持った姿で現れることもでき、
精神世界に確固たる意志の存在として存在できるという、
神と同等の能力を持つ数少ない存在であるため、
度々、神の相談役として色々とコミュニケーションをとっていたらしい。

旧教会の「きょうかい」の語源は「境界」であり、
正確には、エレメントの存在量、
大地の流脈と生命エネルギーの力関係などのバランスで、
物質と精神の境界となっているおぼろげな「場」のことを指した。

そのときのいわゆる現在でいえば喫茶店的存在が旧教会であり、
人間が世にはびこり、大陸を支配してからは、
ほぼ全ての旧教会は忘れられ、失われてしまった。

唯一、大掛かりに立てられた聖杯神殿だけが、
建物であったために今でも残っているというわけだ。
これが最後の教会と呼ばれる由縁である。

【聖杯】

聖杯とは無限の力を得るとも、命を失うともいわれる、
神の血が注がれているとされるグラスで、
聖杯神殿のどこかに秘匿され封印されていると伝えられている。
その在り処は四大聖者のみ知るとされていたが、
現在はどこかにある禁書に記されたのみで、
聖者たちも詳しいことは知らない。

実は聖杯を飲むとは、
精霊と契約し精霊の加護を得ることである。
それはすなわち、精霊と同化することを意味するのだが、
エレメントたる精霊との同化とは、
肉体が希薄になり、精神存在に近づくことを意味するため、
生半可な覚悟や強さでは、そのまま肉体を失って死ぬことになる。

炎、自然、光、水のエレメントエネルギーを得た勇者は、
大地に生きる力を授ける神に近き存在になるという。