洋楽【数字】 名前 2pac 読み トゥパック 本名 トゥパック・アマール・シャクール 出身 ブロンクス |
ブラック・パンサー党員アフェニ・シャクールを母として、71年ブロンクスに生まれます。演劇を学びラップを始めたボルチモアを経て、88年貧困のため祖母を頼りにカリフォルニアへ移ります。90年に人気沸騰中のデジタル・アンダーグラウンドに、ダンサー兼ローディとして加入、91年発表の『This Is an EP Release』と『Son Of The P』に参加し、来日も果たします。間もなくソロになり91年にデビュー作『2Pacalypse Now』を発表、腐敗した警官やシングル・マザーの問題などを取り上げた社会意識の高いアルバムで、ゴールドディスク(50万枚)を記録。翌92年に公開された映画「Juice」で準主役のビショップを演じ、好演によって人気が高まります。しかし同時にビショップのサグなイメージがトゥパックについて回るようになると、あたかもそのイメージに自身をはめ込むかのような言動が目立ち始め、以後は警察沙汰が激増します。しかし93年発表のセカンド、『Strictly 4 My N.I.G.G.A.Z.』は依然、社会意識の高い内容で、プラチナディスク(100万枚)を記録します。映画「Poetic Justice」(ジャネット・ジャクソンとの共演)、「Above The Rim」への出演を挟み、94年は実兄モプリームを含むユニット、サグ・ライフの『Thug Life Vol.1』を発表。その直後の11月、NYのビルのロビーで銃弾を浴びます。トゥパックはこれをノトーリアスB.I.G.らの罠と思い込み、この事件は東西抗争と呼ばれる東西の緊張関係を、一触即発の危険な状態へと向かわせました。怪我の手術後間もなく、ファンの女性への性的虐待容疑の裁判に車椅子で出廷、翌年2月の判決で実刑が下ります。(本人は無罪を主張)。投獄された直後の3月に発売されたサード作『Me Against the World』は、一転してギャングスタな内容で大ヒットし、トゥパックは初のアルバム・チャート1位を獄中で体験。同年10月には、出所後の契約を約束した<デス・ロウ>が140万ドル(約一億七千万円)の保釈金を負担して仮釈放されると、即座にレコーディングを開始し、96年2月『All Eyez on Me』を発表、ラップ・アルバムとしては初の二枚組みにもかかわらず大ヒット。しかし96年9月、ラス・ヴェガスでマイク・タイソンの試合を観戦した帰路、ドライヴ・バイの襲撃を受けて他界。間もなく発表されたマキャヴェリ名義の遺作『The Don Killminaty ...The 7Days Theory』も大ヒットとなりました。結果的にスキャンダルが起こるごとに存在を大きくしていったトゥパックの生き様が自体を呼び込んだ死でしたが、以後も人気は一向に衰えず、出所から1年足らずの間に録音した未発表曲が次々と発表され続け、いずれも好セールスを上げています。
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