DELIUSのCDについての雑感
≪Songs of Sunset≫
E.Fenby / RPO Rec.Dec.1983&Dec.1986
UNICORN-KANCHANA : DKP(CD)9063
私がDELIUSに目覚めたCDです。 もっともジャケットに一目惚れしての購入でしたが。
表題曲のテンポがBeechamより遅めなのはそれなりの理由があります。 また一方でDance
Rhapsody No.2はBeechamよりかなり早めの印象を受けます。 続けて聴くからでしょうか? あるいは一枚のアルバムとして聴くことが十分意識されているのでしょうか、既出音源(UNICORN-KANCHANA
DKP(CD)9009)のFennimore‐Intermezzoで呼吸を整えてからAn Arabesqueで締めくくるいという、かなり練られた構成です。 手元のDMS-64とナンバリングされている日本フォノグラム直輸入盤には三浦淳史さんによる訳詞がついており、これがまた秀逸です。 残念ながら現在では内外盤とも廃盤で、各曲ばらばらにカップリングを変えて再発されています。 その代わり、時々中古CD屋で\1000前後で見かけることがあり、つい手にとってしまいます。 なんにしろこのように作りのよいCDからDELIUSに入れたのは幸せです。
≪DELIUS:MINIATURES≫
N.del Mar / Bournemouth Sinfonietta Rec.Jan.1977
Chandos : CHAN8372
R.Straussの研究でも有名なdel MarはBeecham時代のRPOでホルンを吹いていましたから、当然BeechamのDELIUS演奏を肌で体験しているはずです。 にもかかわらず彼はBeechamとはだいぶ異なったアプローチをしています。 初めて聴いたときはそのあまりにも乾いた肌触りに戸惑いを覚えましたが、意外と聞き飽きのこない演奏です。 del
MarのR.Strauss研究の中身は寡聞にして知りませんが、あの時代特有の空気をDELIUSの中にも見出しているのでしょう。 DELIUSを単なる「可愛らしい小品作曲家」だと思っている人にこそ聴いて欲しいとおもいます。 このジャケットは現在では「可愛らしい小品作曲家」に相応しいものに変えられてしまいました。 残念。
≪DELIUS THREE SONATAS FOR VIOLIN & PIANO≫
W. Wilkomirska / D. Garvey (P)1974
Connoisseur Society : CD-4012
DELIUSらしさとは何か? これは受容する人によって異なってよいと思います。 もちろん可愛らしい小品作曲家として愛好しても、いっこうにかまわないと思います。 DELIUSのそういう面は、私も大好きです。
大ざっぱに言って、レコードを通して音楽を受容すると言う行為は、音楽の再現者であるプレイヤーのその音楽に対する受容の在り方を含めて受容すると言う、二重のフィルター行為なのではないでしょうか。 ここに曲の好悪とは別に、個別の演奏に対する好悪が生じるのですが、ここでリスナーが問われているのは、極言すれば一人のプレイヤーの在り方そのものの受容の可否を問われているのではないでしょうか? Wilkomirskaを聴くと、ふと、そんな感覚におそわれることがあります。
このWilkomirskaの受容したDELIUS像、はたしてリスナーはどのように受容するのでしょうか。 私はこの演奏でこれらの曲に出会い、以来十数年来の付き合いですが、HolmesやLittleの演奏に触れながらも、やはりこのWilkomirskaに帰って来てしまいます。 彼女がDELIUSの中に見いだした前衛性
− それは作曲技法と言う観点ではなく、もっとエモーショナルな部分での −
を受容するのか、迫られ、迷い、戻って来る。 私が生まれ、そしてこの演奏が為されたころ、もはや「前衛」という言葉は死にかけていたとのことですが、あるいはそれだからこそ、DELIUSに「前衛」を見出してしまう彼女の演奏。 そしてこの演奏が、DELIUSの演奏としてはBarbirolliの晩年のものとほぼ同時代であると言う事実に、DELIUS受容の現実を、そして世の中の現実を思い知らされます。 そして今にいたるまで、これ以上にとんがったDELIUSのレコードは生まれていないのではないでしょうか。 これはDELIUSを受容する者にとって、幸せなことなのでしょうか。
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