見沼田んぼでの地学ハイキングは、234回(1989.12)、277回(1994.4)、307回(1997.4)以来となります。今回の案内は、277回「見沼田んぼで潮干狩り」の時に初参加して以来、毎月の地ハイに参加され、また学習会等で発表されている、東浦和に住まわれて20年の「小松 恵さん」の案内で、小松さんの住む町をみんなで歩いて調べました。
今回は東海林さんのご厚意により資料と写真を提供いただき作成しました。
ホームページ作成者は参加していません。ごめんなさい。
1958年発行の地形図をみると、この付近には「谷」のつく地名が多く見られます。大谷口・広ケ谷戸・不動谷・内谷・会ノ谷・西谷などです。この「谷」という名前は、このあたりの地形のようすを物語ってくれています。また、柳崎・大崎・木崎・山崎・瀬ケ崎なども、低地にはりだした高台にある町の名前です。市街化がすすみ、町名変更でこのような名前が消えていくのが残念です。
浦和の町を歩くと、とても坂が多いことに気づきます。(都内もそうです) これは、大宮台地には細い谷が虫喰い状に入り込んでいるためです。このように、都内や埼玉県中央部には、台地と低地の地形が広く見られます。これらは第四紀の最終氷期の前後に形成された、最も新しい地形です。谷は、氷河時代のもっとも寒冷化した2万年前項に、海面が100m以上も低下したため、侵食作用が強くなり台地が削られてできたものです。谷や坂は氷河の置き土産なのです。
台地は基本的には最終氷期の前の、リスーウルム間氷期の海面上昇期(下末吉海進)に形成された地形です。氷期に河川がその台地の一部を削り込んで深い谷をつくり、氷期終了後の海面上昇(縄文海進)でその谷に海が進入し、土砂で埋め立てられて低地ができました。
氷期に侵食が進行するのは、次のようなしくみです。
1)氷期には、大陸氷床の発達のために、海の水が減って、水位低下が起こる。
2)海岸線が沖の方に移動(海退)、それまでの陸地の標高も相対的に高くなる。
3)河川の傾斜が急になり、侵食が激しくなる。
4)河川の道筋に沿って深い谷が削られる。
氷期に刻み込んだ深い谷に、間氷期、特に約6000年前をピークとする縄文海進の時期に、海面が上昇し、海が進入して、その後埋積が進行しました。
このため、昔からの幹線道路(中山道や赤山街道)は、台地の上の平らなとこうを選んで通っています。谷は湿地で歩けるような状態ではなかったのでしょう。
大宮台地の下部には、大宮層という砂層・シルト層・粘土層・砂れき層などからなる地層が分布しています。これは、最終氷期のはじまりの頃、7〜8万年前に海が退いたあとの平野に川が運んで毒た土砂が堆積してできた地層です。台地の上部は関東ローム層に厚くおおわれています。ローム層は赤土とよばれて、冬から青先にかけて砂ぼこりの原因になります。
ロームとは、もともと土嬢学の用語で、砂・シルト・粘土を等分にもっている土の名称のことです。1930年頃、矢部長克博士が赤土の地層名として関東ロ一ム層を用いることを提唱し、定着したようです。関東ローム層の成因については、「関東平野の西にならぶ富土・箱根・赤城などの火山から飛来した火山灰だ」(東京書籍「地学」教科書より)とあるように、火山から噴出した火山灰が風に運ばれて台地の上に堆積したものであるという解釈が定説になっています。
これに対して、「火山の小規模噴火による降灰よりむしろ地表風に吹かれて細粒子が裸地から舞い上がり、近くの草地に着地する過程が重要である」(新版地学教育講座「地震と火山」より)という考え方も提案されています。
ローム層の中から鉱物を洗い出して顕微鏡で観察すると、鉱物組成から火山灰の起源が推定できます。今日見ているローム層はおもに富士山が起源であること、また、東京軽石は、約5万年前の箱根火山の大噴火が起源であることがわかっています。この厚いローム層は5万年以上もかけて堆積したのです。
最終氷期がもっとも塞冷化した頃(2万年前)、海水面は100m以上も低下しました。芝川にそった見沼たんほや台地に入りこむ谷はこのときに削られたものです。この谷を埋め立てて土砂が堆積したところが低地です。低地の地盤は、まだ新しい軟弱な地層(沖積層)からできています。
ここは民家の脇の北面のがけになっています。下の方は氷ついています。
上部は、ローム層です。下部に東京軽石(T.P.)が点在していますので武蔵野ローム層です。この辺りは削るとガリガリして少し堅い感じがします。がけでは出っばっていることがあります。その直下の厚さ20cmの層は、たて割れが目立つのでクラック帯といいます。(チョコレート色をしていることから、チョコ帯ともいう)
下半分はツルツルととても滑ります。シルト質砂や砂質シルトや灰色粘土層です。ぬかみそに似ているところからヌ力砂とよばれています。これらの地層は大宮層とよばれ、大宮台地ではローム層の下部に広がっています。
ここは道路建設予定地のようです。工事がはじまると新鮮な崖がみえますので地元の方は注意しておいてください。新しい露頭が見つかったら、すぐに近くの高校の地学教員に連絡をとりましょう。
ここでは、上半分がローム層、下半分がシルト層・粘土層です。ここでは、間にあるはずのクラック帯がありません。また先ほどのがけと違い南面ですつかり乾燥していてパサパサしています。全く違うもののようです。
最終氷期の大陸氷床は約2万〜1万8000年前に最も拡大し、その後の気候の温暖化とともに急速に融解しはじめ、約6000年前には北米・北欧の大陸氷床はほぼ完全に消失した。世界の海面は最終氷期の極相期には最も低下し(−80〜−130m)、大陸氷床の融解とともに上昇しはじめた(後氷期海進)。
もし−130m付近まで海面が低下すれば、対馬海峡の大半は陸化し日本列島は朝鮮半島・中国大陸とほぼ陸つづきであった可能性が大きい。
一方、縄文時代前期には海面上昇のため内湾の奥深く海が進入して「縄文海進」と呼ばれている。東京湾の奥深くまで進入した海は中川沿いに「奥東京湾」を形成した。縄文海進の海は約6000年前には現在の海面高度に達し、奥東京湾や濃尾平野では海抜3m付近まで海面が高くなった。この時代を後氷期海進(縄文海進)の高頂期(最高海面期)と呼ぶ。したがって、約1万年前から6000年前までの4000年間の海面上昇量は約40mにも達し、平均的な海面上昇速度は1年間に1cmという速さであった。
最近1万年間(完新世)の前半が急速な海面上昇期であったのに対し、後半は相対的な海面安定期といえる。安定した海面に応じて河川が運搬した土砂は内湾を埋めたて、河口の位置は前進をしてきた。最近の6000年間は海面の安定期ではあるが、詳しくみると数mの上下振動を繰り返してきた。
「百年・千年・万年後の日本の自然と人類 − 第四紀研究にもとづく将来予測」(日本第四紀学会編,1987年8月,古今書院発行)より
《現在との年平均気温差》 《世界と日本の動き》 +3 +2 +1 0 -1 -2 -3 -4 -5 -+---+---+---+---+---+---+---+---+- 最終氷期の終了 一万年前 | * 縄文早期の列島人口2万人 | * 上野原遺跡 九千年前 | * 西アジアで農耕・牧畜開始 | * 暖流が日本海に入り日本風土形成 八千年前 |* * | 世界各地で農耕・牧畜が始まる 七千年前 * | 暖温帯落葉樹林が列島に拡大 * | 縄文海進のピーク 六千年前 * | 三内丸山遺跡 * | 縄文中期人口26万人 五千年前 | * 三大河川で都市文明誕生 | * 八ヶ岳周辺の縄文遺跡 四千年前 * * | 三千年前 | * 中国で春秋戦国/稲作日本伝来 | * 縄文末期人口7万5千人 二千年前 * 弥生稲作北進 *| | * 民族大移動/古墳時代人口540万人 一千年前 * * | 中世温暖期に日欧で開墾進む | * 小氷期で北米移民/科学革命 現在 * |