日曜地学ハイキング記録


官ノ倉山の生い立ちをたずねて

引っ越して来た地塊の謎




第340回日曜地学ハイキングを西暦2000年7月16日に実施しました。

関東山地北縁の不思議な地層を観察

 小川町の官ノ倉山へのハイキングコースには、古い時代の地層をはじめとしていろいろな地層が観察できます。官ノ倉山をつくる秩父層群に接するマグマ起源の閃緑岩や砂岩は、まわりに同じような地層がなく、どこからやってきたのかわかっていません。閃緑岩や砂岩は地下深くまで続かず、途中でなくなってしまうため、根なし岩体といわれています。中央構造線のとおる群馬県下仁田町でもこのような根なし岩体が知られています。どうしてこのような地層の引っ越しが起こったのでしょう。今回は、ハイキングコース沿いに実際の地層を見ながら官ノ倉山に登ってみました。


今回の見学コースの概要は次の通りです。

日時:7月16曰(日) 10:00  
集合:東武東上線「東武竹沢」駅   解散:「小川町」駅 16:00頃
みどころ @官ノ倉山を構成する秩父層群(チャート角礫岩)
      A官ノ倉山の山麓に見られる栃谷層(砂岩)
      B兜川沿いに露出する金勝山閃緑岩
      C兜川沿いに露出する小川町層(砂岩、泥岩)
コース:東武竹沢駅→天王沼→官ノ倉山→からすの穴→上池田→兜川一塚堰→小川町駅
主 催:地学団体研究会埼玉支部、日曜地学の会
案 内:小林忠夫(坂戸市)加藤禎夫(小川高校)
地形図 国土地理院1/25,000「武蔵小川」
持ち物:弁当、水筒、ハンマー、筆記用具、定規、新聞紙
参加費:100円(保険代・資料代・諸経費)



第1ポイント 天王沼の先の谷(秩父層群)

 天王沼を過ぎる杉林の中を谷沿いに登ります。露頭は多くはありませんが、谷筋の中に泥岩が露出しています。官ノ倉山をつくる秩父層群の石です。秩父層群は昔は秩父古生層と呼ばれていました。秩父層群には泥岩のほかにチャートや石灰岩が混在しています。石灰岩の中からはサンゴや紡錘虫の化石がみつかっていました。このサンゴや紡錘虫の化石から、官ノ倉山をつくる秩父層群は3億年〜2億5千万年前、古生代石炭紀〜ペルム紀に海底に堆積したと考えられていたからです。ところが泥岩の中から、いろいろな放散虫の化石が見つかりました。放散虫の化石は1億6千万年前、中生代ジョラ紀の海底に堆積したものであることがわかりました。官ノ倉山の頂上付近にはチャートが見られます。このチャートの中からも放散虫の化石が見つかりました。チャートの中の放散虫は2億2千万年前、中生代トリアス紀の化石であることがわかりました。いったい、官ノ倉山をつくる秩父層群の年代はどれなのでしょうか。どうして3つの化石の年代が違うのでしょうか。

3つの化石の秘密 遠くからやって来た岩石



第2ポイント 官ノ倉山・石尊山(秩父層群)

 官ノ倉峠にさしかかるときつい登りとなります。峠で小休止したら官ノ倉山へ向かいましょう。やがてゴツゴツした岩肌に変わります。チャート角礫岩という珍しい岩石です。秩父層群でよく見かけるチャートは層状チャートといい堆積した様子がよくわかります。ところがここの岩石はチャートか砕かれ角礫化しています。どうしてこのような現象が生じたのでしょう。
 それは約3億年前から1億6千万年前の間に、深い海の中で展開された事件と関係があるのでしょうか。
 3億年前に深い海からそびえ立つ海山(火山だったかも知れません)があったと考えられます。海面の近くの太陽光線が届くところではサンゴ礁が形成されていたことでしょう。これが石灰岩のもとになったと考えられています。海山は海洋プレートに乗って海溝に徐々に徐々に近づいて来ました。その海の中には今と同様に多くのブランクトンが棲息していました。それが放散虫です。海山のふもとの海底には放散虫の死骸が堆積していきました。放散虫の活動が活発でないときは泥が堆積したと考えられています。
 しかし、放散虫の死骸が堆積して出来たチャートがいつどこでどのようにして角礫化したのかはわかっていません。海底で大きな地震があったのでしょうか? 海底火山の爆発があったのでしょうか? それとも想像も及ばない別の事件が??

図は「小川町の自然」より

 

第3・4ポイント からすの穴とお滝場(秩父層群)

 秩父層群は泥岩のなかに、チャートや石灰岩が混在しています。なかには断層でぐちゃぐちゃになった地層も見ることができます。このような地層をごちゃまぜの意味で「メランジュ」と呼んでいます。カラスの穴も小さな鍾乳洞で、鍾乳洞のもととなった石灰岩が泥岩に挟まれているのです。
 年代が古い石灰岩やチャートは先に述べたように、海山や海底でつくられたと考えられています。これらの岩塊をとりまいている泥は陸地が削られてできたものが流されてきて堆積したのでしょう。また、海洋プレートが沈み込む海溝では陸地から直接供給される砂や泥もあります。チャートや石灰岩はもしかするととんでもない遠くでつくられ運ばれてきて、泥岩や砂岩と混ざり合ったと考えられています。このように石灰岩やチャートは、はるか南から動く海底・太平洋プレートにのって日本海溝までやってきたものと考えられています。
 カラスの穴の先に小さなお滝場があります。お滝場のところから尾根に向かう道があり小さな神社があるようです。お滝場の付近の岩石はチャートが多く見られます。

図は「小川町の自然」より


第5ポイント 上池田の道路脇(栃谷層)

 小川町の市街地から町の西端の木呂子にかけて、泥岩や砂岩、礫岩の地層があります。約1億年前の中生代白亜紀の海底に堆積したもので栃谷層と呼ばれています。石尊山を下ってくると町道にぶつかります。その上池田の道路脇にも栃谷層の露頭があります。栃谷層の礫岩の中には、礫が一方向に扁平になっているものもあるそうです。礫が押しつぶされるほどの巨大な力が働いたと考えられています。この栃谷層の下部には、全く別の御荷鉾緑色岩という秩父層群や三波川変成岩と同時代の地層があり、栃谷層が根っこのない根なし岩体だということがわかっています。
 日本列島がアジア大陸から離れはじめた時期だと考えられている、およそ、3千万年前、小川町付近は陸地だったと考えられています。その陸地で大変な事件が起こったと考えられています。現在の小川町付近の陸地にむかって、とてつもなく巨大な地塊が引っ越してきたというのです。栃谷層が根っこのない根なし岩体だというのは、このような事件が起こったからだと考えられているのです。

図は「小川町の自然」より


第6・7ポイント 兜川の一塚堰(石英閃緑岩体・小川町層)

 根なしの岩体は栃谷層だけではありません。小川町の北西にある金勝山をつくる岩体も根っこがありません。その岩体は、花崗岩の一種の石英閃緑岩と呼ばれるものです。この石英閃緑岩は2億5千万年前、古生代ベルム紀に地下のマグマが貫入して出来たものと考えられています。
 兜川の河床にも金勝山石英閃緑岩が露出しています。先に見た栃谷層の中にもこの石英閃緑岩がみられ、砂岩をつくっている鉱物を調べた結果によると金勝山石英閃緑岩の鉱物とよく似ているそうです。栃谷層が堆積するときに近くに金勝山石英閃緑岩の陸地があったことを教えてくれます。
 栃谷層や金勝山石英閃緑岩などはどこからどのようにして引っ越して来たのでしょう。このような引っ越しを専門的には「押しかぶせ」と呼んでいるそうです。引っ越してきた地塊を押しかぶせ地塊といいます。押しかぶせ地塊は基盤岩の上にのし上がったかたちになつています。この引っ越しは、中央構造線を挟んで分かれている南帯と北帯の間にあった地塊が移動したとする説や中央構造線を越えて北帯からやってきたという説、逆に南にあった地塊が北に移動してきたとする説など様々な考えがあり、定説はありません。


 金勝山石英閃緑岩が露出している下流に砂岩や泥岩の地層がみられます。小川町層と呼ばれるものです。この地層は、日本海が拡大し日本列島がほぼ現在の位置に移動し終えた1600万年前に堆積したもので、それまで陸地であった小川町に海が進入したと考えられています。この時代はフォッサマグナの時代と呼ばれています。


小川町は地質の博物館 (以下の資料は「小川町の自然」より)


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