William Lawes: Consorts in Six Parts. Phantasm

ローズ/6声のコンソート/ファンタズム

(Channel Classics CCS 17498)

 


警告
  ウィリアム・ローズ(1602-1645)のコンソート音楽に長時間接すると、治療困難な嗜癖(病みつき、中毒)になることが知られています。症状は、(1)一日に何度か、ローズの曲を弾きたい、または聴きたいという抑えがたい欲求を感じる。(2)ファンタジーやエアの一節のハミングが止められない。(3)和声のよじれに起因する、名状しがたいメランコリア。

 

こんなふざけた警告文で「4声と5声のコンソート」 (Channel Classics CCS 15698) のライナーノートを書き始めたのは、「ファンタズム」Phantasm のリーダーで音楽学者でもあるドレフュス Laurence Dreyfus 氏だが、「6声のコンソート」ではさらに饒舌な戯文をものしている。ドレフュス氏の許可を得たので、以下にライナーノートの冒頭部分を訳出する。


ローズの合法化を!
  合意が成立した。危険な薬物を禁止するいかなる試みも効果がないため、あえてローズを合法化する以外に、もはや道はない。対位法の格式を乱暴に無視していることに抗議したり、型破りの模倣や奇妙な主題を非難したり、何かに憑かれたような同音反復を悪魔の仕業と罵ったりすることはできる。この音楽に耽って自らの健康を害してしまう連中を非難することもできる。しかし、そんなことをしても、道に外れた行いがなくなるわけではないし、ローズにかぶれた連中が愚行を止めるような素振りを見せるはずもない。あるいは強硬手段にでることも可能かも知れない。法的な権限をもった薬物取締官を任命して、ヴァイオル(=ヴィオラ・ダ・ガンバ)製作家を縛り首にし、楽譜の出版を禁止し、CDを溶かして鋳つぶしてしまうのだ。しかし、確信犯的な中毒患者は代わりの供給源を見つけるだけのことだし、かえって彼らは禁断の木の実の噂でもって無垢な者を誘惑するだろう。ローズに群がって野蛮な偶像破壊の行為に耽る、満たされない若者たちにとって、治療は病気そのものよりもずっと悪いことかもしれない。この伝染病を撲滅することが不可能なら、むしろそれを断念してこそ道が開けるというものだ。麻薬中毒の餌食になるような意志の弱い人間がいることを認め、彼らが苦痛や破滅を免れないことには目をつむって、その卑しむべき快楽を許してやろう。法に従う人々が節制と健康を維持する一方で、影響を受けやすい連中が密かに集まっては、いかがわしい欲望に身を委ねて時間を浪費することになるくらいなら、完全な非合法化は控えめな法的解決策より、はるかに悪い。ローズの合法化は、道徳的観点からはおそらく理想的な方策とはいえないが、われわれの平和な生活を破壊しようとする不信心者の亡霊ほどには危険ではない。
  そう、もちろんこれは誇張して言っているのだ。しかし、ローズの5声のコンソートに関して厳しい医学的警告を発した私自身――ファンタズムの仲間も一緒だが――、服用量を増やすのを止められず、否応なしに奈落の淵へと転がり落ちたことを告白する。オランダから一通、フィンランドからも一通の手紙が、ほぼ同時に届いたが(訳者注:これは4&5声のコンソートのCD発売後のことと思われる)、どちらももっとローズが欲しいという哀れな懇願で、6声のコンソートはどうすれば手に入るのかと尋ねてきた。これらのガンバ弾きたちは事の重大さに気づいていないのだ。いまや、ローズ信者の経験の奈落に引きずり込まれた音楽家がさらに二人いる(訳者注:おそらく今回の録音における二人のエキストラのこと)。一人の狡猾なイングランド人が盛った一服の毒が、調合されてから何世紀も経ってなお、われわれの感覚に対して有無をいわさず作用するとは、ごく控えめにいっても、意志の力への賛辞ではないだろうか。警告を知らなかったではすまされないのだ。
  (これ以下の部分の訳は、このページの最後にあります)

 

ヴァイオル・コンソート(「ヴィオール・コンソート」というのはフランス語と英語の混成である)には膨大なレパートリーがあるが、ガンバ愛好家が仲間内で弾いて楽しむという水準を超えて、純粋な「鑑賞」に堪える作品はほとんどない。その点、ローズの5声と6声のコンソート・セットは希有な作品である。霊感の豊かさはほとんど奇跡的で、音楽史上これに匹敵するのは、モンテヴェルディの「夕べの祈り Vespro」とバッハの「フーガの技法」くらいのものだ。

そう、もちろんこれは(ドレフュス氏にならって)誇張して言っているのだ。お察しのとおり、かつてレオンハルト・コンソートによる6声のファンタジーとインノミネを聴いて以来、筆者自身も――名誉なことにドレフュス氏と同様――重症患者の一人である。もっとも、今のところ仲間に恵まれず、弾く機会はほとんどないのだが。

5声と6声のコンソートには、すでにフレットワーク Fretwork (Virgin Classics) による全曲録音があり、そのほかにコンソート・オブ・ミュージック Consort of Musick (L'Oiseau-Lyre)、オバーリン・コンソート Oberlin Consort of Viols (Classic Masters) による選集もあって、それぞれに味があるが、ファンタズムの演奏は表現の振幅がひときわ大きい。また、オルガンを用いていないため、各声部の対位法的な動きを捉えやすい。ライナーノートによると、自筆のスコアにはオルガン・パートがないことから、作曲者自身もオルガンはなしでもよいと考えたはず、とのこと。

生誕400年を迎えてローズがめでたく「解禁」となった今、この「熱病 fever」の大流行を大いに期待したい。

(ガンバW、2002年6月)

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驚いたことにファンタズム盤の1ヶ月後に、サヴァール Savall 盤がリリースされた(Alia Vox AV9823)。しかも5声と6声の全曲、2枚組だ。英国コンソート音楽の主要レパートリーを総なめにしつつあるサヴァールが、満を持して取り組んだのだろう。

演奏はいつものサヴァール節で、すべてのフレーズに細やかな表情づけがなされ、装飾もふんだんにあり、情感たっぷりと歌われている。それはそれで、年代物のブランデーのような芳醇な味わいがあるが、ちょっとやり過ぎと感じる向きもあるだろう。17世紀前半のイギリス音楽と18世紀フランス音楽は違うのだ。

それよりも、疑問なのは使用楽器だ。5声のコンソートの標準的な楽器編成は、トレブル(ソプラノ)/トレブル/テナー/テナー/ベース だが、サヴァールはトレブルの代わりに2つのパルドゥシュ・ド・ヴィオール(ディスカント・ヴァイオル)を使い、テナーを1つにしてベースを2つ使っている。また、6声の標準的な楽器編成は、それぞれ2つずつの トレブル/テナー/ベース だが、サヴァールはトレブルの代わりに2つのヴァイオリンを使い、第3声部はトレブルとテナーを使い分けている。

5弦で一部が5度調弦のパルドゥシュ・ド・ヴィオールは18世紀フランスで使われた独奏用の楽器で、コンソートには適さない。音域が高いため最高弦の使用頻度が低くなることが、その主な理由である。ヴァイオリンはさらに音色が異なり、音量も大きいが、この録音ではそれを意識してか、かなり音量を抑えて弾いているようで、それがかえって表現の幅を狭めているように感じられる。また、コンソートでは最上声から2つずつペアになってほぼ同じ音域を動くことが多いので、各ペアは同じサイズの楽器を用いるのが原則だが、トレブルとテナーでは違いが大きすぎる(最高弦の差が5度)。

アマチュアのパーティならともかく、まさか演奏者や楽器が揃わなかったわけではないだろう。楽器の選択に関して、ライナーノートでも全く触れられていないのは、サヴァールらしくない。

(2002年7月)

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(PHANTASM盤 ライナーノートの続き)
  まじめな話、ローズの6声のコンソートを演奏することほど我を忘れる経験は他にない。作曲者の鉄の意志のくびきにつながれたまま、むき出しの欲望を追求する人間たちを乗せた宇宙のリヴァイアサンにも似て、この音楽は(聴者の)対位法的把握能力への挑戦であり、動きの激しい旋律線とその荒々しい絡み合い(テクスチャー)との度重なる出会いは、くめども尽きぬ魅惑をもたらす。
  ローズの5声のコンソート組曲集と同様、一筋縄ではいかない狂気がうれしいことにここ(筆者注:6声の組曲集)にも満ちあふれている。それは、エネルギーの爆発であり、瞑想であり、陽光降り注ぐ下での牧歌劇であり、はたまた歓呼の呪文である。例によって、平安な至福のひとときは、数秒後には嵐と激情へと転じる。6声の曲でとくに印象的なのは、切れ目なく続く声部書法が眠気を誘うト短調のエアやヘ長調の第2ファンタジーに見られるような、文明社会のタブーを破ることで地獄へと向かうディオニソス的狂乱である。プレトリウスがヴァイオルを「おとなしい楽器」に分類したことを、誰もローズに教えなかったのかもしれない。そして、ハ短調の組曲にあふれているようなこれまでにない深い不安は、ローズの肖像画に認められる、厳しい境遇にあって片時も休息を与えられなかった彼の人生のわびしさである。それは、音楽美に関する月並みな理念を冷淡に無視してもなおそのような厳しさを持続させうるかどうかという賭である。一つはっきりしているのは、ここにいるのは他人の思いなど全く気に掛けないひとりの作曲家であるということだ。
  5声の曲集でもそうだったが、われわれはここでもオルガン伴奏パートを省略した。室内学的演奏にとって、鍵盤楽器による音の重複は助けにはならず、むしろ妨げになると考えるからだ。オルガン・パートの曖昧な立場は、おそらくローズも認めるだろう。一つには、自筆総譜はヴァイオル・パートのみから成っているし、また別個に伝えられる自筆のオルガン・パート譜は、総譜とは音が一致しない部分がある。したがってオルガンは、全体的な構想にとって必須のものとは思えない。さらに、大きな編成のコンソートでしばしば用いられたオルガン伴奏は、Mace(1676年)によれば、調弦とアンサンブルを維持するための支柱のようなものであった。オルガンなしでは当時の「演奏者たちは…上手く演奏できない」と考えられていた。愛好家たちにとってオルガンは有用であるにもかかわらず、美学的観点からその重要性を擁護する声は強くない。だが、いくつかの楽章では、ヴァイオルのデュエットやトリオによるパッセージを支えるオルガン・パートに独立した旋律が託され、その場合は音楽のテクスチャーにとって不可欠と思われるほど丁寧に書かれている。そこで、オルガン・パートのうち最良の部分を若干、ヴァイオル・パートに置き換えた。作曲者に対して後知恵による批判にならないかと気になるが、虫の居所が悪くなければ、彼も許してくれるだろうと期待するしかない。このような勝手な所業に対する償いとして、各組曲の楽章の順番に関しては、作曲者の意図を尊重するよう心掛けた。その順番は音楽的にも好ましいと感じられた。     
  ヘ長調の第1ファンタジーは久しく、ローズの作品中もっとも霊感豊かな曲と見られてきた。ここで作曲者は、長三和音の単純な積み重ねと下行音階のパターンによって、世界の創造と終末を描写している。実はこのファンタジーには2つの稿がある。初稿では、初めの部分の最後(最初のカデンツァの直前の数小節)は長い音価で書かれていたが、後には勢いをつけるために音価が半分にされた。したがって初期稿ではここのパッセージは倍の遅さとなるが、それによってこの曲に著しく違った歩調と感覚がもたらされる。われわれはどちらの稿にも魅力を感じたので、この楽章に対する全く異なった理解を促すと思われる初期稿を、別稿として最終トラックに収録した。