(2002年5月22日、浜離宮朝日ホール)
「日本初のシングル編成による」と銘打った渡邊氏が、チェンバロを弾きながら指揮をした「ヨハネ」。つまり、声楽はソプラノ〜バス各1人+福音史家とイエスの計6人、器楽も各パート1人の13人という、最少人数での演奏である。
周知のとおり「ヨハネ」は、バッハが生前に少なくとも4回演奏し、そのたびに作曲者はかなりの改訂を施したのみならず、これらとは別の自筆スコア(演奏されなかった)も現存する。「新バッハ全集」はこれらの異稿の折衷である。また「ヨハネ」はバッハの全声楽作品中、声楽パートに「コンチェルティスト」用と「リピエニスト」用のパート譜が1部ずつ現存する、数少ない曲の一つである(大部分の作品はすべての声楽パートがパート譜1部のみで、独唱と合唱の区別がない。このため、合唱曲でも各パート1人、すなわち「独唱者」たちのみで歌うべきかどうかが論争の的になっている)。また、弦合奏にも複数のパート譜が存在する。
したがって、どの稿を用いて、それをどのようにアレンジして演奏するのか、また、弦合奏を各パート1人で、合唱までも4人だけで演奏するのはなぜか、といったことについて、渡邊氏らしい綿密な考察がなされているのかと思ったが、プログラム・パンフレットでこれらの問題点にほとんどふれられていないのは、やや期待はずれだった。しかし、聖句に基づくレチタティーヴォを(チェロではなく)ヴィオラ・ダ・ガンバ+チェンバロ(イエスの言葉に対してはオルガンのみ)で伴奏していることからも(ただしヴィオラ・ダモーレのオブリガートを伴う第20曲のテノール・アリアの通奏低音はガンバではなくチェロとリュートだった)、彼独自の考えに基づくアレンジであると想像される。編成については、「バッハの複雑な対位法による各声部が鮮明に浮かびあがるであろうこと、そしてまた、これが演奏に携わる音楽家各人の自発性がもっともよく発揮される演奏形態であろう」という理由が述べられているだけだ。あるいは、バッハも何らかの条件下で再度「ヨハネ」を演奏する機会があったら、このような形での演奏もあり得た、ということだろうか。
確かに音の透明度は高く、また、劇的な表現を意識的に抑えて作品そのものの訴える力に委ねようという意図が感じられた。冒頭の合唱曲こそ、十数人の合唱による激しい叫びの「入り」に慣れた耳には物足りなく感じられたが、耳は素早く順応するものである。聖句の群衆の合唱も、4人の緻密なアンサンブルで、言葉が明瞭に聞き取れ、かえって大勢の合唱よりも迫力がある。
福音史家の大島博氏は素晴らしい美声だが、やはり大げさな劇的表現は抑えて、終曲に向けて静かに緊張を持続させ高めていくことに貢献していた。ソプラノの佐竹由美氏は、6人の独唱者のうち一人だけ、コラールも含めて終始ヴィブラートを多用していたのが気になったが、透明度の高い美声で、フルートとオーボエ・ダ・カッチャのオブリガートを伴う第35曲のアリア(これだけはヴィブラートが控えめだった)は名唱だった。
かつて渡邊氏は、アーノンクールの過激なバッハ演奏を高く評価しながらも、「しかし、バッハにはむしろ巨大な静謐(せいひつ)こそがふさわしい」と書いたことがあったが、この演奏はまさにその「巨大な静謐」を感じさせるものだった。
(ガンバW,2002年5月)