(東京書籍、2000年9月刊) amazon.co.jp
オルガンを除く初期鍵盤楽器の歴史に関するありとあらゆる情報が詰め込まれた、本文だけで700頁を超える大著で、著者の演奏家および研究者としての蓄積のすべてを注ぎこんだ著作。チェンバロ、クラヴィコード、フォルテピアノの構造や製作技術、装飾についても詳しく書かれ、それらすべてについて欧米の最新の研究成果が紹介され、それを踏まえて著者自身の見解が随所に述べられていて、20世紀の初期鍵盤楽器研究の総括といった趣。しかも、常に社会との関わりの中で説明されていて、たとえばクリストフォリが楽器に関してさまざまな創意工夫を凝らすことができた理由の一部を、彼の社会的地位から説明しているなど、どの章も読み物としてもたいへん面白く、日本語であるため海外の専門家や愛好家たちに読んでもらえないのが残念と思えるくらい。英語やドイツ語などで、これだけ大部の、しかも興味つきない書物はあるのだろうか。
渡邊氏の文章はいつも格調が高いと同時に平易で明快だが、本書でも、曖昧さを残さないように徹底的に詳しく、具体的に書こうという姿勢が見られる。たとえば用語について、広義のチェンバロを指す英独仏伊の各国語の名称が網羅され、その意味範囲の異同が整理されている。また装飾について、時代や地域による装飾のスタイル(様式)などの違いはもちろんのこと、そのようなスタイル、原材料や技法の違いが生じた背景や、まったく装飾のない部分がある理由なども、きちんと書かれている。とにかく、一般読者(愛好家)が少しでも疑問に感じることが予想されるあらゆる問題に、答えが用意されているといってよい。もしかしたら著者は、当時の楽器の一般的特徴を、自らの著作にも持たせようとしたのだろうか。というのは……本書の中で最も印象に残ったのが、次の一節だ。
「17、8世紀は、人間が手先で行う種々の技法が頂点を極めた時代であった。老人の顔の皺の一つ一つ、レース糸の一本一本を、正確かつ克明に描写したばかりか、衣服の素材の違い――麻、レース、ビロード、毛皮など――による触感の違いをきわめてリアルに描き分けることができた17世紀オランダの画家レンブラントの技法や、最高の素材にも恵まれて多数の名器を生み出した、1650年から1750年にかけてのヴァイオリンの名匠たち――アマティやシュタイナー、ストラディヴァリ、グァルネリなど――の技術は、今日に至るまで超えられていないのである。チェンバロやクラヴィコードもまた然りである。これらの楽器の優れた特質は、まさに人間の叡智と技術の結晶と呼ぶにふさわしく、製作されて何百年もの歳月を経た今も、その魅力的な輝きを失わないのである。だからこそ、苦労して復興するに値したのである。古いからではない。」(p.456。なお、17世紀オランダの絵画は当サイトのギャラリーにもたくさんあるので、ご覧ください。カラヴァッジョやサラチェーニ、パンニーニなど同時期のイタリアの絵画も同様)
古楽器の魅力を的確に言い表した一文だ。別のところでは、ルッカースの鉄帯模様で、はめ込まれた宝石が落ちてなくなっているように描かれていることに、いたく感心していたりする(というわけで、本書も細部に徹底的にこだわった!)。
考えてみればこれは当時の音楽作品や演奏にも通じること。バロック音楽の魅力の一つが、このような細部へのこだわりであり、いわば芸の細かさだ。ルネサンスの声楽ポリフォニーから受け継がれたものなのかどうかは知らないが、ともかくウィーン古典派以降とは明らかに違う。もちろん古典派以降が細部を等閑にしているわけではないが、少なくともそれは前面に出てこない。表現はむしろ単刀直入で明快だ。そこへいくとバロック時代の音楽は、細部へのこだわりを身上とするようなところがあって、変奏曲(ドゥーブルなどを含む)や変奏形式(シャコンヌなど)がやたらと多いことや、舞曲などの繰り返しで自由に装飾・変奏を行う(同じことを二度やらない)習慣にもそれが表れている。メッサ・ディ・ヴォーチェやノート・イネガールなども同じ発想だろう。このような細部へのこだわりを面白いと感じるか、どうでもいいことと感じるかは、個人の好みの問題だが、その実践が近代以降の社会で急速に廃れていったことだけは確かなようだ。
ただ、興味深いのは、演奏に関してはある種の細部へのこだわりが、実は比較的長く続いたらしいこと。最後の章「フォルテピアノの演奏様式」で著者が力説するのは、バロック音楽の演奏習慣に比べて、古典派・初期ロマン派のそれに関する研究の遅れと演奏家たちの無関心ぶりだが、なかでもとくにテンポ・ルバートなど、楽譜には書かれていないテンポの細かい揺れが、バロック時代のみならず18世紀後半〜19世紀初頭の音楽演奏においてもいかに重要であったかが強調されている。現代では一般にこの時代の作品の演奏に際して、形式美と構成感が重視されると思うが、ここでいわれているのはむしろ逆のことのようだ。だとすると、楽器に対しては形状や装飾など細部へのこだわりが急速に失われ、個々のヴァリエーションも少なくなって機能本位の規格化が進んだこの時代にも、演奏表現では細部へのこだわりが失われなかったということか。このような演奏習慣は20世紀前半まで持続したと、著者はいう。たしかにSP時代の録音にはその面影が濃厚だ。新即物主義(ノイエザッハリヒカイト)が攻撃したこのようなロマン主義的演奏は、後期ロマン派の残滓ではなく、著者が言うように18世後半から連綿と続いたものだったのだろうか(これに関連して、古典派ではないが、例のメンゲルベルクの「マタイ」にもぜひ言及してほしかったと思う。すでに他のところで書いているのだろうか)。
ところで、本書はあらゆる疑問に答えていると書いたが、一つだけ疑問が残った。ペダル(足鍵盤付き)・ピアノには6頁も費やして解説しているのに(p.610)、ペダル・チェンバロには一言も触れていないのは、どういうわけだろう。昔からバッハの作品の中にもペダル・チェンバロが相応しいものがあるといわれ、録音も行われているくらいだが、バッハが末子のヨハン・クリスティアンに贈った「ペダル付きの三つのクラヴィーア」とはペダル付き二段鍵盤のクラヴィコードのことだろうと述べられているだけで(p.391)、ペダル・チェンバロには言及されていない。
(ガンバW、2004年2月)