Oxford Univ. Press ; ISBN: 019511471X ; (1998/06/18) amazon.co.jp
マリッセン氏のブランデンブルク協奏曲についてのするどい論考が記憶に残っていたので、日本人にはとっつきにくい題名だが、聖週間を前に『ルター派キリスト教、反ユダヤ教とバッハのヨハネ受難曲』を読んでみた。
本書は、ヨハネ受難曲の全般的な解説書ではなく、ユダヤ人・ユダヤ教についての今日的課題の多い「ヨハネ福音書」に基づくバッハのヨハネ受難曲を、「バッハにとってのルター派信仰とヨハネ受難曲」「ルターにとってのユダヤ人」「バッハにとってのルター派信仰とユダヤ人」、そして最後に「今日の我々にとってのバッハとヨハネ受難曲」の4つの焦点に絞って論じたものである。
論考自体は40ページに満たないコンパクトなものだが、論点が明確であり、(マリッセン氏のように、欧州移民で、米国の教授職であるのと違い、宗教や反ユダヤ運動には疎い読み手ではあるが)説得力のあるものであった。
特に印象に残った点は以下。宗教解釈は様々あるが、ルター自身は精神運動としての改革を推進した人物であり、特定の民族や既存の宗教に敵対する考えは薄かった。バッハは幼児からの宗教教育環境、そして、当時の神の前での職業音楽家という考えが、カンタータなどを通じての音楽と礼拝の一元化、受難曲というキリスト教原点の音楽礼拝を聖書に準じて行う活動で、ルター派・反ユダヤなどの考えを超越してきているという指摘である。もちろん、ルター派の(バッハ時代の)キリスト教での、反ユダヤ教(人)的な要素はないわけではないが、その中でもバッハは受難劇を特定の宗派や、聖書の時代の物語としてではなく、常に現在生きている(当時の)同時代者に投影していくこと、宗派よりも人間に向けて発信する視点で徹底しているということである。バッハの趣旨は音楽のなかでも一貫しており(最近のバッハ・コレギウム・ジャパンの演奏のように)イエスもユダもピラトも、群集の一部として歌い、コラールで神を賛美する、そして、会衆としての聴衆と文字通り一体になった空間をバッハは意図したのではないかということだった。(器楽曲を含め、長く残される音楽を追求する姿勢や、類まれなインヴェンションの達人のバッハではあるが)、300年近くたった今でも、ヨハネ受難曲を始め、バッハの宗教楽曲の現代的価値が(音楽が素晴らしいというだけでなく)失われない秘密かもしれないと感じた。
本文に加え、非常に丁寧な全文の英訳があり、原語との対比が明らかになるのと、参考文献ならぬ参考音源として、主要なCDでの引用場所が明示されているのがありがたかった。このような角度で、ヨハネ受難曲を眺めてみると「なるほど」と感じられる1冊。普通の鑑賞に満足しなくなったら一読をお勧めしたい。
(SH、2003年4月)