(2020.10.11 近江楽堂)
プログラムの前半はバロック後期の大作曲家バッハを、後半はその大バッハの次男でバロックからロココ、古典派への扉を開いたC.P.E. バッハ、若きモーツァルト、そして「フランスのモーツァツト」と称されるドヴィエンヌの曲をお聴きいただきます。
J. S. バッハ(1685〜1750)は、1732年にこのヴァイオリンと通奏低音のためのソナタ を作曲しました。そして1732年から1735年までの間に、フルートとヴァイオリンと通奏低音のためのトリオ・ソナタ ト長調(BWV1038)を作曲しました。この2曲は同じ通奏低音に基づいて作曲された、珍しい双子作品で、バロックのソナタの標準である緩-急-緩-急の4楽章構成です。このヴァイオリン・ソナタは、穏やかな足取りの低音の上に、ヴァイオリンが華やかな旋律を歌う第1楽章、軽快な3拍子の第2楽章、短いが味わい深いアダージョを経て、最後の楽章は堂々としたフーガです。
なお、もう一曲の方のトリオ・ソナタ BWV1038は息子C.P.E. バッハの習作であるとか、親子共同の作というのがこれまでの通説でしたが、最近の研究により、バッハの真作で、音楽愛好家の貴族からの依頼に応えるため、既存の低音パートを活用して作ったものと考えられるようになりました。
バッハは40代半ばから十余年をかけて、「鍵盤楽器のための練習曲集」と題する全4巻のシリーズを出版しました。練習曲とはいっても、これらは内容が深く豊かで、しかも相当な難曲ぞろいであり、技巧と音楽性の両面で鍵盤楽器(チェンバロとオルガン)演奏の奥義を究めることを目的としています。その第1巻が6曲のパルティータです。
「パルティータ」とは、やや自由な形式の組曲(舞曲を集めたもの)のことです。この第4番は曲集の後半を開始する曲で、壮大なフランス風序曲で始まります。本日は序曲に続き、優美に様式化された緩やかなアルマンド、軽やかな対位法形式のジーグを演奏します。
1732年にバッハはオルガンのためのソナタ6曲を完成させました。長男フリーデマンのためにオルガン演奏と作曲の教材として作ったのですが、右手と左手そして両足(ペダル鍵盤)で3つの声部(トリオ)を演奏するという高度な技巧を要し、音楽的にもトリオ・ソナタと協奏曲形式を融合させた、充実した作品です(翌1733年、フリーデマンはめでたくドレスデンの聖ソフィア教会のオルガニストに就任)。
本日は第3番のホ短調ソナタを、フルート、ヴァイオリンとチェンバロの編成で演奏します。急・緩・急の3楽章構成で、第1楽章と第3楽章は合奏と独奏が交代する協奏曲の形式を取り込んでいます。第2楽章は、のちにもう一つ独奏声部を加えた形で弦楽合奏付きの協奏曲(BWV1044)に転用されました。
ドヴィエンヌ(1759〜1803)はフランスのジョワンヴィルの生まれで、モーツァルトより3歳年下。歌うような旋律を特徴とした作曲家として、また卓越したフルート、ファゴットの演奏家としても知られていました。その作風と、不遇のうちに若くして死を迎えたことから、「フランスのモーツァルト」とも呼ばれています。早くから才能を発揮し、演奏や作曲で活躍し、宮廷楽団のファゴット奏者として、またパリ音楽院の初代フルート教授として、指導や教則本の出版をするなど活躍しています。
この二重奏曲は1780年頃に出版された6曲からなる曲集に含まれています。この曲集はフルートとヴィオラという珍しい組み合わせの二重奏のために書かれた、最も優美で見事な曲集とたたえられ、中でもこのハ短調は、当時のフルートにとっては陰った響きの調であるハ短調を選び、ため息のフレーズを盛り込んだ表現の幅の大きな第1楽章と、その気分を引き継いだ第2楽章の、2つの楽章からなります。
8歳になったモーツァルト(1756-1791)は、父レオポルトに連れられて、パリとロンドンに長期の旅行に出かけ、王宮や貴族の館で神童ぶりを披露しました。ロンドンでは、バッハの末息子ヨハン・クリスチャン・バッハを教師として雇い、また歌と鍵盤楽器が堪能だった王妃シャーロットに謁見しました。このソナタは、ロンドン訪問の際に作曲し、翌年出版して王妃に献呈された、6曲のフルートまたはヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ集の中の1曲です。
出会ったばかりのJ.C. バッハの特徴である歌うようなアレグロの旋律を、チェンバロが弾き始め、ヴァイオリンがそれに応える第1楽章に、ヘ短調のメランコリックなアンダンテと、その気分を継続した半音階で絡み合うメヌエットが続きます。
カール・フィリップ・エマニエル・バッハ(1714〜1788)は大バッハの次男で、「ベルリンのバッハ」、「ハンブルグのバッハ」と呼ばれ、バロック時代からハイドンやモーツァルトの古典派への橋渡しをした重要な作曲家です。名付け親でもあったテレマンの後任としてハンブルク市の音楽監督に就任し、当時は父親をしのぐ名声を手に入れました。
このソナタは、もともとは親元にいた17歳頃の作品で、バッハ家の家庭音楽の場やコーヒーハウスでの音楽会で演奏されたようですが、新し物好きのエマニエルは、自分の初期の作品は焼き捨てたり、大幅な改作をしたりしています。フルート好きのベルリンのフリードリッヒ大王に仕えていた後年(1747)の手稿譜で残っているこの形は、当時の音楽趣味を色濃く反映した改作とも考えられています。3つの楽章とも、歌うような旋律や急激な気分の変化など、新しい時代の息吹を感じさせる一方で、第2楽章の低音の動きなど、父親を思い起こさせる部分もあります。